人に聞けない痔の悩み、これでスッキリ >>

すべては公(みんな)の為にあると私は主張しています。“人に関する”ありとあらゆるものは公(みんな)の為にあるのです。勿論、善もそうです。怒り、嫉妬、愛など、免疫機能、神経、脳などもそうです、すべては公の為にあります。あらゆる社会的問題も公の為にあります。公の為でないものはありません。
公の為とは種族(群れ、民族)保存の為ということです。または社会の安寧秩序を守る為、みんなの幸せを守る為つまり公(みんな)の為ということです。簡潔に言えばすべては種族(群れ、民族)保存の為にあると言うことです。それは自然界を見れば自明のことではないでしょうか。

また公とは仲間を言います。安心して暮らしていけるように協力している人たちを仲間と言います。小さくは家族、少し大きければ村の仲間です。そして最大の仲間とは日本でいえば日本国民を言います。安心して暮らせるように自衛隊が守っている人々のことです。ゆえに他国は基本的に仲間ではありません。日本人を拉致したり日本人を憎悪していたりする近隣諸国や日本をいつまでも縛り付け日本人が稼いだ金をむしり取ろうとするアメリカや白人国家など仲間ではありません。

まあ、それでも世界は今では敵とまでは言えませんので、多少の援助など許されます。しかし敵に思いやりをやれば種族保存はできません。敵である中国などに思いやりをやった為、日本は中国から侵略されかかっています。そんなことをやるのはバカな日本人ぐらいなものです。本当に日本の知識人たちはバカの極致です、国会や官僚や企業人、知識人、マスコミを見てごらんなさい、バカの見本市です。

すべては公の為、群れの仲間の為にあります。ゆえに善も本来仲間の為に出来たのです。ですから他の群れの為には善は使えません。善は仲間の為に作られ、仲間の為にあると言うのは少し考えれば自明のことではないでしょうか。ですからあらゆる社会的問題も公の為にあります。
そして正しさは問題の為にあります。何も問題がなければ正しい、正しくないなど必要ありません。ゆえに正しいとは問題に対する言葉なのです。問題の為に正しいはあるのです。
私は文章を書くのは苦手なので、言いたいことが分かりにくいかもしれませんが、何一つ間違ったことは言っていないつもりです。しかし皆さんに分かってもらう為にはもっと論理的な文章を書かなければと思っています。

では分かり易い文章の書き方とは何でしょうか。勿論「すべては公(みんな)の為にある」は人に関する真理と思いますから、これを応用すれば最もうまくいく答えが見つかるのです。文章もまたみんなの為にあるのです。それでは公の為に最も正しい文章の書き方、方法とは何か、それは「私よりも公を優先すること」です。分かり易く言えば「私欲を抑え公の為と考えて行うこと」です。ですから正しい文章の書き方とはまず私欲を抑えることです。自分は偉いんだ、とかそういう誇りたいと言う私欲を抑えなければいい文章は書けません。難しい語彙なども使ってはなりません。そして次は公の為と考える、公の為とはみんなに分かってもらい、みんなの人生の為になるようにという気持ちをもって書くと言うことです。そしてまた公の為と考えると言うことはみんなのトップの立場に立って考えると言うことであり、強い責任感を持つと言うことです。つまり文章を書くにも公の為になるようにと強い責任感をもって書くと言うことです。このような思いをもって文章を書けばやがて分かり易い文章が書けるようになるでしょう。でも私はまだまだ書けませんw

私は絶対善は種族保存であり、社会の安寧秩序であり、その為に最も正しい方法、行為は「私より公を優先すること」とであると言っています。ですから人に関するあらゆる問題も絶対善をもって考えれば最もうまくいく方法が見つかるはずです。死刑問題も長らく議論されていますがまだまだ決着はつかないようです。しかし善の定義をもって考えればやがて決着するでしょう。ヘーゲルの正反合など知っていても何か役に立ちましたか? 議論の仕方というのはどちらが公の為に合致しているのかと議論するのが正しい議論の仕方なのです。

すべては公の為にある、これは人に関する真理とは言えないでしょうか、皆さんのご意見を賜りたいです。

A 回答 (5件)

実際は自分の為だと思います。


自分の為であればいくらでも最善を尽くすことが出来ます。
人の為と言う理由では手を抜くことだってできます。強制力もありません。
人の為だけにどこまで本気でやれる理由を見つける事が出来るのか?
やるのは自分なんですから自分を犠牲にしてでもやれる理由になるのか?
人の為ならタダで働くことも出来るのか?
自分の為と言うのが前提にあり、人の為に行動する事で自分の利益にもなる。
それが本来であり、この社会の基礎ではないでしょうか。
人を見ていてもそこに真実があるとは限りません。
自分の為に自分に出来る事をやる。これが最も賢いと思います。
    • good
    • 1

公の中にも弱肉強食の世界は存在する。


新たな物が作られれば旧式のものは淘汰される。
しかし、公は最も利益になる物を求める。
たとえ損があったとしてもそれを上回る利益があれば公の為になる。
公の為とは仲間の最大利益の事である。
    • good
    • 1

>分かり易い文章の書き方とは何でしょうか


これこそ哲学的な人の欠点です。安易なことを難解な言葉で語ろうとする。
言葉という者は相手に伝わらなければ意味が無い。
仏教は素人には理解できない「お経」を読む。新興宗教はわかりやすい言葉で伝える。だから信者は増える。
正しいことを伝えるには同じ目線の言葉が必要ということ。
難解な哲学的な文章を書きたがる → 自分を上位に置きたがる。自己満足。伝わらなければ意味は無い。
「公」にも様々な価値観の人がいる。誰にでも通用する言葉を使って欲しい。
    • good
    • 4

公の為とは種族(群れ、民族)保存の為ということです。

または社会の安寧秩序を守る為、みんなの幸せを守る為つまり公(みんな)の為ということです。簡潔に言えばすべては種族(群れ、民族)保存の為にあると言うことです。
それは自然界を見れば自明のことではないでしょうか。
 ↑
生物学的事実として、その指摘は正しいと
思います。
死ですら、種の為にあるのです。
個体が死ぬことによって、種全体の老化、つまり衰退を
防いでいるのです。



他国は基本的に仲間ではありません。
 ↑
国家、というものがあり、国際間は弱肉強食だ
という現実を考えれば、この指摘も正しいです。
外国は総て仮想敵国です。



まあ、それでも世界は今では敵とまでは言えませんので、多少の援助など許されます。
 ↑
援助するのは、それが結局自国の利益になる
からです。
自国の利益にならない援助はすべきではありません。



しかし敵に思いやりをやれば種族保存はできません。敵である中国などに
思いやりをやった為、日本は中国から侵略されかかっています。
 ↑
天安門事件で欧米諸国は中国を制裁しましたが
日本だけは加わりませんでした。
しかし、中国はこの事件で敵の必要性を認識し、
反日政策をとるようになりました。



そんなことをやるのはバカな日本人ぐらいなものです。本当に日本の知識人たちはバカの極致です、国会や官僚や企業人、知識人、マスコミを見てごらんなさい、バカの見本市です。
  ↑
知識人やマスコミは反日なのです。
政治家や官僚は、平和ぼけした外交音痴なのです。
企業人は儲かれば何でも良いのです。




すべては公の為、群れの仲間の為にあります。ゆえに善も本来仲間の為に出来たのです。ですから他の群れの為には善は使えません。善は仲間の為に作られ、仲間の為にあると言うのは少し考えれば自明のことではないでしょうか。
 ↑
その通りです。
仲間の利益になることを「善」と名付けたのです。



その為に最も正しい方法、行為は「私より公を優先すること」とであると言っています。
  ↑
人間は利己的な動物ですから、私よりも公を
優先するぐらいで、ちょうど良いのです。
しかし、優先しすぎるのも問題です。



死刑問題も長らく議論されていますがまだまだ決着はつかないようです。
しかし善の定義をもって考えればやがて決着するでしょう。
 ↑
死刑の是非は人権云々から導出すべきではなく、
威嚇力があるのか否かから導出すべきです。
そして威嚇力があるか否かはまだよく判っていません。
調査が進めば判明するでしょう。



すべては公の為にある、これは人に関する真理とは言えないでしょうか
  ↑
それは正しいと思いますが、あまりに公を
重視すると、時の政権に利用されるおそれが
あります。
現実の社会に当てはめて適切か、ということは
常に念頭に置くべきです。

今の日本は私ばかりが優先しているようで
もう少し公のことを考えた方が良い、と思っています。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

tanzou2さん  嬉しいコメントありがとうございます。少しは私の言いたいことを分かってくれましたね。ここ数年間であなたが二人目ですw

しかし私が言っているのは絶対善を見つけたと言っているわけです。これにはまだ賛成してくれる人はいません。絶対的に正しいことは種族保存というのは皆さん分かってらっしゃる人もいますが、種族保存の為に最も正しい方法、行為(絶対善)が「私より公を優先すること」と見つけたのが私の成果でしょう。私はあまり知性はありませんので、直感のひらめきで勝負するしかありません。その直感で絶対善を見つけたのです。

簡単に言えば群れ社会が一番うまくいくのは「私欲を抑えて公の為とみんなで考えること、つまり愛や思いやりなのだよ」と言っているのです。
あらゆる社会的問題は「私より公を優先すること、つまり愛や思いやり」で考えれば、社会が一番うまくいく答えが見つけられるよ、ということです。それを今回は文章の書き方にも応用してみたのです。

>援助するのは、それが結局自国の利益になるからです。自国の利益にならない援助はすべきではありません。<

自国の利益にならなくても敵でないなら自然と助けたくなるのが本能、人情なのです。


>死刑の是非は人権云々から導出すべきではなく、威嚇力があるのか否かから導出すべきです。そして威嚇力があるか否かはまだよく判っていません。調査が進めば判明するでしょう。<

威嚇力ですか、どのような考えが含まれているのか分かりませんが、あらゆる社会的問題の答え、根拠は「社会の安寧秩序です」これに合致するように考えていけば正しい答えが出るでしょう。人権や感情論を根拠にしてはなりません。


>それは正しいと思いますが、あまりに公を重視すると、時の政権に利用されるおそれがあります。現実の社会に当てはめて適切か、ということは常に念頭に置くべきです。<

絶対善を知ったならば賢くなり、ヒトラーなどの意見に対して「それは正しいのか?」と皆さんが疑問をもてます。勿論、やりすぎはいけません、中庸は大切です。


>今の日本は私ばかりが優先しているようでもう少し公のことを考えた方が良い、と思っています。<

~した方が良いと言うのではなく「私より公を優先すること」が正しいのですから、常にそのようでなければならないのです。

お礼日時:2019/03/15 19:33

あなたの主張は概ね分かりました。

そして、哲学として鋭い結論であると思っています。

しかしながら、正直に申し上げますと、説得力がない、と言うことと、独善的(上から目線)
であるということをとても残念に思っています。

分かりやすい文章を書くことも当然重要ですが、例えば…

>本当に日本の知識人たちはバカの極致です、国会や官僚や企業人、知識人、マスコミを見
てごらんなさい、バカの見本市です

この態度ですね、バカもいれば、バカでない人もいます。しかし、こう表現したら皆バカに
なってしまいます。
バカにされれば、議論はケンカ腰になるでしょうし、対話もする気にもならないのが人情と
いうものです。

また、バカというモノの重要な一面は、目的観が低いと言うことだと思っています。その低
い目的観を「引き上げること」が「説得力」だと考えます。

あなたが、説得をしたいという目的をお持ちならば、この点を考えるべきかと思います。

まあ、偉そうなことを言いましたが、何故かと言えば、「良い対話」ができたら価値が生まれ
るかも知れない、と思ったということです。
    • good
    • 2
この回答へのお礼

コメントありがとうございます。

>バカにされれば、議論はケンカ腰になるでしょうし、対話もする気にもならないのが人情というものです。あなたが、説得をしたいという目的をお持ちならば、この点を考えるべきかと思います。まあ、偉そうなことを言いましたが、何故かと言えば、「良い対話」ができたら価値が生まれ
るかも知れない、と思ったということです。<

あなたはあいつらがどれほどの間抜けがご存じない、その怒りがつい出たのです。別にあなた達をバカにしてはいませんよ。
数年間絶対善を説いてきましたが皆さんバカにするばかりでまともな返信がなかったものでイライラ感があるのです。まあ、皆さんに理解していただけるよう頑張ります。

お礼日時:2019/03/15 19:31

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

このQ&Aを見た人はこんなQ&Aも見ています

関連するカテゴリからQ&Aを探す

このQ&Aと関連する良く見られている質問

Q哲学カテ界隈で話が噛み合わない現象が起きるのは何故だと思いますか?

タイトル通りです
自分で色々考えてますがたまには
他人の意見聞いてみたくなったので質問しました

私個人の現在の考えでは
「質問という体で問いかけしてるが
実際は(質問者にとって)優秀な弟子、賛同者が
欲しいだけなんとちゃうかな」
って考えが主流となってますね

「話が噛み合わない現象なんて起きてないよ!」
って思う人はこの質問スルーしてください
尚、この質問は哲学的な問答を求めていません
アンケートみたいなものです

Aベストアンサー

>私個人の現在の考えでは
「質問という体で問いかけしてるが
実際は(質問者にとって)優秀な弟子、賛同者が
欲しいだけなんとちゃうかな」
って考えが主流となってますね

顕著ですね。
基本的に素人の集まりにすぎないので、質疑を交わすこと自体が問題を次第に掘り下げていく形になる場合が多いと思います。
持論を述べるのはむしろたたき台として必要なわけですが、しかし、賛同者を求めるのが目的の人は、その過程を重視せずに、相手を持論に引きずり込むことだけを考えている。
最初から質問が目的じゃないので噛み合うはずがない。

そういった輩と、真摯に何かを探求しようとする人との違いは、論理的な根拠を示しつつ持論を展開しているかどうか、という点。
賛同を求める乞食の輩は、論理的な根拠が提示できなくなると、強引にかぶせてきますからすぐに判別できる。
どうでも良い箇所では物分かりの良い顔して猫なで声を出すのが得意ですが、いざ本丸に攻め込まれると見境も無く髪を振り乱してあたふた大声で怒鳴り散らす。
おだてられての木登りも大得意。

それでも論理を辿ることさえお互いできれば、そんなに大きな齟齬は生じないものです。
で、そういう輩に限って、自分の質問に回答がひとつもつかなかったりすると、自分の頭が良すぎて他人には理解できないのだ、などと妄想に浸りつつ、ひとり悦にいったりする。
ダダを捏ねる赤ん坊みたいなもので、誰か面倒を見てくれる人がいると世の中は平和で助かる。
見解の相違だね、とお互いに質疑を保留できる余裕があるうちは、可能性がまだある。

>私個人の現在の考えでは
「質問という体で問いかけしてるが
実際は(質問者にとって)優秀な弟子、賛同者が
欲しいだけなんとちゃうかな」
って考えが主流となってますね

顕著ですね。
基本的に素人の集まりにすぎないので、質疑を交わすこと自体が問題を次第に掘り下げていく形になる場合が多いと思います。
持論を述べるのはむしろたたき台として必要なわけですが、しかし、賛同者を求めるのが目的の人は、その過程を重視せずに、相手を持論に引きずり込むことだけを考えている。
最初から質問が目的じゃな...続きを読む

Q絶対善はあるのです。

私は絶対善はあると主張していますが、皆さんはそんなものなどないと否定されます。でも私が言いたい事は常識的なことなのです。

この群れ社会において最も大切なものは何か?それは群れ社会の安寧秩序です。これは社会が平穏でルールが守られ安心して暮らせることです。これを守る事が最も正しい事なのです。この群れ社会においてこれ以上大切なことはないのです。これに異論がありますか?

そしてその群れ社会の安寧秩序を守る為に最も優れた方法が「私より公を優先すること」なのです。でも「私より公を優先すること」と言われても何か分からないでしょう。ですから分かり易く言えば愛や思いやりや慈悲心などですと説明しています。これはキリストが説いた愛です、孔子が説いた仁、つまり思いやりです、そして釈迦が説いた慈悲の心です。そしてこれらに内包、共通しているのが「私より公を優先する心、行為」です。

「私より公を優先する」とは分かり易く言えば「私欲という自分の思いを少し抑えて公の為とみんなで考え行うこと」です。自分の私欲の心を少し抑えて、一人一人がみんなの為と考えることです。これは民主主義を示しています。そして「みんなの為」と考えるということは皆さん一人一人がリーダー、その群れのトップの立場に立って考えると言うことです。それは強い責任感をもって考えると言うことです。そのような心を一人一人みんながもって、みんなで考えれば最も正しい答えに辿り着ける確率が高くなるよ、ということです。これ以上に優れた方法が何かありますか? これが私の言う絶対善なのです。

その群れ社会にとって絶対的に正しいことは社会の安寧秩序であり、そのために最も優れた方法が「私より公を優先する事、つまり愛や思いやりや慈悲心」なのです。もちろんこれは最高の方法を示しているので一般的にはなかなかできないことです。しかしそれを目指す事こそが最もより良い社会が創れるのだ、と言う事なのです。

私は絶対善はあると主張していますが、皆さんはそんなものなどないと否定されます。でも私が言いたい事は常識的なことなのです。

この群れ社会において最も大切なものは何か?それは群れ社会の安寧秩序です。これは社会が平穏でルールが守られ安心して暮らせることです。これを守る事が最も正しい事なのです。この群れ社会においてこれ以上大切なことはないのです。これに異論がありますか?

そしてその群れ社会の安寧秩序を守る為に最も優れた方法が「私より公を優先すること」なのです。でも「私より公を...続きを読む

Aベストアンサー

いろいろな人がいっぱい書き込んでくれて、芯木(shinwood)さんは今回いろいろ学んだんじゃないでしょうか。芯木さんの今回の作戦の誤りは、世の中には、形式を重要視する人と実態を重要視する人の両方がいることを無視して、実態を重視する芯木さんの一方的な表現を使ってその主張がなされていることです。

「手術は成功した。しかし、患者は死んだ」

要するに、患者の生死の実態よりも、手術の手順と形式の正確さの方に興味を持つ方がこの世の中にはいくらでも居られるのです。そして、哲学好きな人にこの形式組の人がいっぱいいます。そうした方々は、言葉の使用法の形式の方に興味が優先してしまい、たとへそこで使われている言葉が不完全でもそこで言っていることの内容や実態をなんとか理解しようという方向に興味を向けない傾向にあります。

「あんたの言いたことはなんとなく判るんだが、そのような言葉の用法はその内容と矛盾しており、間違っている」

などと言って、言葉の使い方が間違っているから、あなたの言う内容も間違いだ、などと考えてしまう人もいくらでもいます。だから、芯木さんが言いたいことの本質を論じようとするのではなくて、絶対の意味などの言葉の使い方がこだわった回答が多くなっているのです。

そのような人たちは、左を指差しながら、「右、右」と言っている人の心を察することができず、その間違いを言いつのる傾向があります。この場合、常識的に見て、指を差している方向をその発信者が言いたいのは明らかですのに。

物事を論じるためには、その内容も、その言葉の使い方も、両方とも重要です。しかし、その両方を同時に論じることにどれだけの生産性があるか、自明ではありません。大論文でもない限り、それを意識せずに両方とも同時に論じてしまうと誤解を招き、混乱さえ起こしかねません。ですから、何かを論じる場合には、内容か、形式か、そのどちらにより重点を置いているのか、文面から明確にわかるように書いておく方が、生産的な議論のやり取りができます。

ここでの主題は「公に対する奉仕」なのだと思いますが、例えば、「公」という言葉一つとっても、人によってその意味がだいぶ違い、芯木さんが言いたい意味では受け取ってくれない場合が散見されます。いわんや、「絶対」などという、一神教の影響を受けた西洋文化大好連中が好んで使う言葉は、哲学好みの人たちには刺激的すぎて芯木さんの言いたい内容よりも、その刺激的な言葉に拘ってしまう人がいくらでもいます。

出来るだけ刺激的な言葉を避けてご自分で言いたいことを表現することを工夫すると、芯木さんのご主張に賛同する方も増えるのではないでしょうか。また、どうしても「絶対」と言う言葉を使いたいならば、論述を始める前に、ここでのこの言葉は、、、、を意味するものとして特殊な使い方をしている、などと一言を入れておくと、読者もそのつもりで読んでくださると思います。

いろいろな人がいっぱい書き込んでくれて、芯木(shinwood)さんは今回いろいろ学んだんじゃないでしょうか。芯木さんの今回の作戦の誤りは、世の中には、形式を重要視する人と実態を重要視する人の両方がいることを無視して、実態を重視する芯木さんの一方的な表現を使ってその主張がなされていることです。

「手術は成功した。しかし、患者は死んだ」

要するに、患者の生死の実態よりも、手術の手順と形式の正確さの方に興味を持つ方がこの世の中にはいくらでも居られるのです。そして、哲学好きな人にこの形式...続きを読む

Q心から信じていれば命さえも懸けられる

私が「本当に心から信じていれば命だって懸けられるだろう」と言えば、皆さん「命を懸けるなど軽々しく言うものではありません、時代錯誤です」などと反論されます。また「あなたはそう言うけれども本当に信じているの? いのちを懸けてもそう言えるの?」と言えば「言論の自由だろう、お前は言論の自由を否定するのか!」と言われます。

しかしですよ、例えばバンジージャンプは命綱が絶対に切れないだろうと心から信じているから、あんな高いところから皆さん命を賭けて飛び降りているのでしょ? 皆さん命綱が切れないと心から信じているから命を懸けているではありませんか。この事実があるのに何故、皆さんこの事実を否定されるのか。事実判断を皆さんの価値判断で否定することなどできませんよ。事実そうなのですから。

「本当に信じていれば、全財産や命さえも懸けられる」というフレーズは色んな難しい社会的問題を解決できる魔法の言葉なのです。
例えば 従軍慰安婦問題も「本当に韓国政府が従軍慰安婦問題(少女二十万人拉致、性奴隷)があったと心から信じているなら、もし間違っていたら竹島を無条件で返してもらうぞ」と言えばそれで片が付くのです。何故なら韓国政府は本当は慰安婦の証言など信じていないのですからです。

このようにこのフレーズで多くの難問は解決できるのです。皆さんも「本当に、心から信じていれば命さえ懸けられるだろう」という言葉に嫌悪感を示さずにどんどん使いましよう。あらゆる難しい問題もすぐに解決できるのですから。

「本当に、心から信じていると言うことは、命さえも懸けられると言うことなのだ」というこの言葉は普通に使っても何らおかしくはないと思いますが皆さんどう思いますか? 私間違っていますか?

私が「本当に心から信じていれば命だって懸けられるだろう」と言えば、皆さん「命を懸けるなど軽々しく言うものではありません、時代錯誤です」などと反論されます。また「あなたはそう言うけれども本当に信じているの? いのちを懸けてもそう言えるの?」と言えば「言論の自由だろう、お前は言論の自由を否定するのか!」と言われます。

しかしですよ、例えばバンジージャンプは命綱が絶対に切れないだろうと心から信じているから、あんな高いところから皆さん命を賭けて飛び降りているのでしょ? 皆さん命...続きを読む

Aベストアンサー

>「本当に、心から信じていると言うことは、命さえも懸けられると言うことなのだ」というこの言葉は普通に使っても何らおかしくはないと思いますが皆さんどう思いますか? 私間違っていますか?

真木さんの今回の論旨の流れにいろいろ突込みどころがあるのですが、外国人を相手にする時には日本人とは違った価値観を彼らが持っていることを理解する必要があると思います。文化が違うのです。文化とは価値観の総称のことです。だから文化が違うとは、価値観が違うということです。

日本は日本海という越すに越されね荒海のおかげで、他の文化とは遮断され、縄文時代から現在に至るまで数千年かけて世界的にも類を見ない特異で独特な文化、すなわち価値観を築き上げてきました。外国で生活してみるとへーって思うことばかり。日本人の考え方ってこの国の人とそんなに違うのかって思い知らされることばかりです。例えば、日本人てこの地球上で性善説を信じている唯一の文化を持った国民なんですよ。そして、話し合えば解ってもらえると信じている人が態勢を占めている。

でも、日本以外の国では陸続きだったために互いに侵略しあい、戦に負ければ男どもは殺され、女どもとその子供は奴隷にされてきた。長い歴史の中でそんなことを繰り返してきた人々に性善説を信じよといっても無理です。

もちろん、日本人の作り上げてきた価値観の中には、外国の一部の世界で作り上げてきた価値観と共通した部分がないわけではなく、その共通項の部分のために、日本人が尊敬されている部分もあります。例えば正直であるとか、約束を守るとか、名誉を重んじ恥づべきことをするなという価値観です。このような価値観は、昔のギリシャや中世の西欧や日本のように、常態が群雄割拠で、いつも小国同士が小競り合いの戦さをしていた歴史を持った国に共通した価値観です。そしてこれは、基本的に武人たちが国を支配してきた世界に生じた価値観です。武人は基本的に理系人間で、技術と合理性を重んじる文化を作り上げてきた。しかしこのような小国による群雄割拠が常態であった地域は世界史的には例外に属しています。

世界史的には、圧倒的に大多数の民族は常態が群雄割拠ではなくて、強大な力を持つ政府による中央集権でした。中央集権国家では、小国同士ような小競り合いもほとんどなく長期にわたって安定して平和が保たれていました。そしてこの安定した中央集権国家の支配者は官僚と呼ばれる文系人間でした。戦さもなく社会が安定しているゆえに官僚が世襲化されるようになる。この世襲化された官僚のことを貴族とも呼んでいました。このような安定した社会の支配層を維持するために必要なのは、技術でも合理性でもなく、前例という伝統を重んじる固定化された価値観です。そのように合理的な根拠もなく支配されている一般民衆の中に、性善説など生じる余地がない。

しかし、安定した社会の内部の発展による富の蓄積や外部の予期せぬ環境の変化によって、この伝統による支配の説得力は徐々に失われて行きます。だから、歴史的に見て腐敗しなかった官僚は存在していません。時代と共に官僚は必ず腐敗します。その腐敗に我慢ができなくなった時に短期間の大混乱が起こって、新たな連中によってまた新しい長期の中央集権の安定期に移行して、そのうちにまた腐敗して短期の混乱が起こって、、、とこれを繰り返してきたのが、上記の古代のギリシャ、西欧、日本という群雄割拠地域を除いた地球上の圧倒的に大多数の民族の歴史です。

上に述べたように、このような文民支配による中央集権制度では、合理性よりも前例に基づいた伝統が重んじられる。もちろん、その伝統は偶然の成り行きで出来てきたために、各民族で全然違っています。そのようなそれぞれ違った根拠で出来上がってきた彼らのそれぞれ違った価値観を、合理的な論拠に基づいて話し合えば解り合えて一つの価値観に統一できるはずがありません。唯一できることは、互いに価値観の違いがあることを認識し、それを認め合って、一方の価値観を相手に押し付けずに、それぞれのやり方に任せることです。

真木さんの言う、死の覚悟を持って、とか、名誉を重んじ恥じた行為をしない、とか、公に尽くす、と言う価値観は古代のギリシャ人や群雄割拠で戦争に明け暮れた西洋人や源平以降戦国時代を経験した日本人には理解できるでしょう。しかし、このような武人支配を長年続けてこず、文系の官僚支配を続けてきたにこの地球上のほとんどの国の人には理解できない価値観だと思います。そのような国とうまくやってゆくためには、日本人独特な価値観を相手に強要するのではなくて、某元防衛省大臣がおっしゃったように「丁寧に無視」しながらお付き合いが最善の方法だと思いあますが、どうでしょうか。

>「本当に、心から信じていると言うことは、命さえも懸けられると言うことなのだ」というこの言葉は普通に使っても何らおかしくはないと思いますが皆さんどう思いますか? 私間違っていますか?

真木さんの今回の論旨の流れにいろいろ突込みどころがあるのですが、外国人を相手にする時には日本人とは違った価値観を彼らが持っていることを理解する必要があると思います。文化が違うのです。文化とは価値観の総称のことです。だから文化が違うとは、価値観が違うということです。

日本は日本海という越すに越...続きを読む

Qキリスト教や仏教やイスラム教やヒンドゥー教等は 何とか統一できないものか?

宗教が統一できれば世界的に平和にも近づくのではないでしょうか

どうやるのかは分かりませんが 統一教会はキリスト教の神霊を統一しようとして失敗した

キリスト教に拘らず 全ての人に 無宗教の人にも納得の行く教えを練り出せないものか?

まずはそれらの宗教の代表が会議してる様なので もっと危機感を持って

自分から変わる意識を持って 緊張感を持って月に一度でも2週に一度でも会議を2,3日

かけても何とかして宗教が協力して進化する様な宗教哲学を活性化出来ないものでしょうか?

Aベストアンサー

宗教間対話は、共通の目的を、確認し合う事からだと思います
その第一が
「生存の権利は、誰人と言えども、いかなる理由であっても
これを犯してはならない」
と言う事です

ダライラマ等が参加する、宗教間の対話など
ただのパフォーマンスに過ぎず、下心がミエミエで
何の問題の解決にもなりません

宗教間対話」のあり方として
「積極的寛容」を提示しなければなりません
①それぞれの宗教が「原点の心」に基づく、
②「独自性」と「共通性」を自覚する、
③自己の宗教の「創造的発展」、
④人類的課題の克服に協調することを目的とする
等が挙げられます、

柳沼正広氏による第2章「キリスト教と諸宗教 宗教の神学」では、
キリスト教が他の諸宗教をどのように考えてきたかが述べられています。
諸宗教に対する考え方として、
排他主義、包括主義、多元主義、多元主義への批判を取り上げています。
他宗教を理解する努力のなかで、
自身の宗教への理解や反省が深められていく
宗教間対話の持つ重要性について論じています。

中国における中心的な思想である儒教に対して、
外来宗教である仏教と、儒教より後に成立した道教が
、自らの立場を主張しつつ、互いに交流と対話を
行ってきた歴史を辿っています

統合、に必要なものは「信」です
「不信」が統合を不可能にしています
宗教間の争いを無くすには
信頼関係を結び、友好、交流活動の継続しかありません

信は  結合 善 勇気 幸福 平和 不可能を可能にします
不信は 分断 悪 臆病 不幸 戦争 可能を不可能にします

宗教間対話は、共通の目的を、確認し合う事からだと思います
その第一が
「生存の権利は、誰人と言えども、いかなる理由であっても
これを犯してはならない」
と言う事です

ダライラマ等が参加する、宗教間の対話など
ただのパフォーマンスに過ぎず、下心がミエミエで
何の問題の解決にもなりません

宗教間対話」のあり方として
「積極的寛容」を提示しなければなりません
①それぞれの宗教が「原点の心」に基づく、
②「独自性」と「共通性」を自覚する、
③自己の宗教の「創造的発展」、
④人類的課題の克服に協調...続きを読む

Q世界の和解へ向けて 三点セットです。

A 国連に代わる――あるいは 並存してもよいはずですが――村際連合(インタ
ムライズム)によって世界を主導するシステムを!

1. 国家のレベルの国民政府による主導方式は もうふるい。
   ムラ(市町村)の市民政府がそれぞれ主役である。

2. ムラムラのネットワークが 世界をあたらしくつくりなおす。

3. 世界のムラどうしでムラ議会議員を互選する。

4. 世界中のムラムラのあいだで市民が互いに互いを知るようにする。
   つまり ひとの交流をすべてのムラビトがというほど推し進める。

5. いくらでも色んなよいアイディアを出し合ってこれを実行して行く。

6. 経済は それぞれのムラがインタナショナルなインタムライズムの場(市
場)へと企業それぞれを巻き込む必要がある。(連携でしょうが)。




B 《普遍神》論によって宗教という宗教の揚棄を!

7. 宗教にかんして オシへは二の次であって 個人の《わがこころの固有の
時》なる信仰について それを一般論として知っておく。神は 普遍神だという
ことだ。
  
8. すなわち わが固有の時に憩う《わが非思考の庭》なる信仰は類型として
だれにとっても 同じひとつであるということ。梵我一如ないし霊霊一如。

  A. ブラフマニズム:梵我一如
   梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神
   我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我

  B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)
   無梵:シューニャター(空)・ゼロ
   無我:アン‐アートマン;ニルワーナ

  C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)
   仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)
      / マハーワイローチャナ(大日如来)
   仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)

  D. クリスチアニズム:霊霊一如
   霊:神・聖霊
   霊:《神の宮なるわれ》

  E. (プラトン?):霊霊一如
   霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)
   霊:《われ》

  F. 《もののあはれを知る》
   霊:かみ(超自然およびその依り代としての自然)
   霊:われ(自然本性+α)

  G. ユダヤイズム:霊霊一如
   霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)
   霊:われ

  H. イスラーム:霊霊一如
   霊:アッラーフ(イラーハ=神)
   霊:われ

9. このあたかも霊のつるぎなる理論によって世界をリセットしよう。




C やっぱし《アース役はつらいよ》の全国的・世界的大合唱で もろもろのハ
ラスメントについてハラッサー本人に自省させるのがよいはずだ。

10. 何気なく ♪あぁ アース役はつらいよ♪ とつぶやけばよい。

11. パワハラ・セクハラ・あるいはイヂメに際して みんなで合唱へと持
って行くとよい。

12. 半分は 減るのではないか?
    半分は あたまも気持ちもすっきりするのではないか?
    世界へも広げよう。

13. 無理をせずに 生産性が上がるのでは?
    社会保障費が省けて 財政再建に寄与するのでは?
    つまり 健康年齢が上がるのでは?

14. その情況にあって いま横になっている人たちの半分は やおら起き
上がって来るはずだ。


☆ コメントをどうぞ。

A 国連に代わる――あるいは 並存してもよいはずですが――村際連合(インタ
ムライズム)によって世界を主導するシステムを!

1. 国家のレベルの国民政府による主導方式は もうふるい。
   ムラ(市町村)の市民政府がそれぞれ主役である。

2. ムラムラのネットワークが 世界をあたらしくつくりなおす。

3. 世界のムラどうしでムラ議会議員を互選する。

4. 世界中のムラムラのあいだで市民が互いに互いを知るようにする。
   つまり ひとの交流をすべてのムラビトがというほど...続きを読む

Aベストアンサー

>A 村際連合

人の交流は、偏見をなくすためにいいですね。

>B 《普遍神》論によって宗教という宗教の揚棄を!

すばらしい。異なった宗教の共通性の認識も、非常に大切です。

>C やっぱし《アース役はつらいよ》の全国的・世界的大合唱

わかりませんでした。アース役とは何でしょうか、、、

Q<大衆は 絶対的に愚かか?>などの投稿をされた常連さんは、今後、この愚かな大衆を相手にして投稿をされ

先日、このカテである常連さんが<大衆は 絶対的に愚かか?>などの投稿をされていらしゃいました。そのことについては、私にはわかりません。
ところで、この常連さんは、今後、このような愚かな大衆を相手にして投稿をされることはない、と思われますか?

Aベストアンサー

ありますよ。
釣り堀りの住人が一生懸命撒き餌していると思えば良いです。

<大衆は 絶対的に愚かか?>
こういう質問の仕方が撒き餌効果アリと考えている。
で、エサを撒いている限り自分のほうが魚より賢いのは確かだと悦に入っているわけです。
他人を貶めることでしか自分の価値を確認できない憐れな輩です。
ま、逆切れして実社会に迷惑かけても困りますし、暇な人が相手してやれば良いかと。
無駄・無意味・不毛につき、賢人は寄り付きません。

Q公理って何?

再び初歩的質問です。

「公理」を辞典で調べますと、

・数学で、論証がなくても自明の真理として承認され、他の命題の前提となる根本命題。

・論理学で、演繹的理論の出発点として、証明なしに採用される命題。

・現代においては、自明な命題ではなく、理論の前提となる仮定。

等の記述があります。

1.学問がないので、いまいちピンとこないのですが、具体的にはどのようなものがあるの
でしょうか?そして、どう理解したらいいのでしょうか?

2.「理論の前提となる仮定」から組み立てられた理論というものが、自然科学においても
検証されるとはいえ、何故、事実・真実と言えるのでしょうか?

Aベストアンサー

公理で一番有名なのは、平行線公理(平行線公準とも呼ばれる)でしょう。

「一つの直線上にない一点を通ってその直線は一つしかない」

この命題を証明することはできません。以前はこれを証明しようと多くの数学の天才たちが試みました。しかし誰にも証明できなかった。ロバチェフスキーが1829年に『幾何学の新原理並びに平行線の完全な理論』を発表して、彼が1826年に発見した新しい幾何学を提示して、上記の命題が証明不可能な公理であることが明らかになったのです。

ロバチェフスキーは、上記の命題の代わりに

(1)「一つの直線上にない一点を通ってその直線は何本でも引ける」

としても、数学的に無矛盾で閉じた論理体系を構築できることを明らかにしました。それがいわゆる非ユークリッド幾何学の始まりでした。この幾何学で表現されている空間は曲がった空間なのです。

その後に、リーマンが

(2)「一つの直線上にない一点を通ってその直線は一本も引けない」

としても、数学的に無矛盾で閉じた論理体系を構築できることを明らかにしました。この公理(2)が成り立つものとして構築された幾何学をリーマン幾何学と呼びます。一方、上記の公理(1)が成り立つものとして構築された幾何学をロバチェフスキー幾何学と呼びます。

さらに、リーマン幾何学の一つの具体的な例が球面状の幾何学であることもわかるようになりました。その場合この非ユークリッド幾何学を球面幾何学と呼ぶこともあります。

上記の事実の発見は、人類に多大な知的進展をもたらしました。なぜなら、自分の主張の論理的矛盾性をいかに証明しても、それでこの世界が解ったわけではないことが明らかになったからです。例えば、我々が埋め込まれている宇宙が上記のどの幾何学によって記述されている世界なのかは、論述の無矛盾性や整合性をいくら明らかにしても、判定できないことが明らかになったからです。

その判定には必ず実験や観測が必要である。すなわち論理的な理念の整合性に加え、事実はどうなのかを実験や観測で判定しなくてはならない。その判定をするのが自然科学なのです。そして数学は、命題の間の無矛盾性を論じる言語学であり、すなわち人文科学の一つであり、事実を論じる自然科学ではないことが明らかになったのです。

公理で一番有名なのは、平行線公理(平行線公準とも呼ばれる)でしょう。

「一つの直線上にない一点を通ってその直線は一つしかない」

この命題を証明することはできません。以前はこれを証明しようと多くの数学の天才たちが試みました。しかし誰にも証明できなかった。ロバチェフスキーが1829年に『幾何学の新原理並びに平行線の完全な理論』を発表して、彼が1826年に発見した新しい幾何学を提示して、上記の命題が証明不可能な公理であることが明らかになったのです。

ロバチェフスキーは、上記の命題の代わ...続きを読む

Q国家とは? 国民とは? 何ですか? 深く考えても答えが出ません!

国家とは?
国民とは?
何ですか?
深く考えても答えが出ません!

Aベストアンサー

国家とは部族の延長。
これではざっくりしすぎ?

Q真理を知ってる人は居ますか。居るとすれば誰でしょうか?

あなたは真理を知ってる人を見たり聞いたりしたことがありますか?

お釈迦様でしょうか? イエス様でしょうか? 神様でしょうか?文豪でしょうか?

詩人でしょうか?

それともあなたの知ってる人に真理を幾らかでも知ってる人が居ましたか?

Aベストアンサー

器の小さい人、足元しか見えない人、先入観を抱いている人、
色眼鏡を掛けている人、自分を知らない人に真理は分かりません、
無智無学無能偏見な人は、邪説を心理と勘違いします

暗い洞窟で、生まれてから今日まで過ごしてきた人に
青い空と緑の大地の話をする人を迫害します
(プラトンの喩えから)

ガンジーは
「無関心 嘲笑 非難 抑圧 を突き抜けて 尊敬の段階に入る」
と言いました

その人は、最も、無関心 嘲笑 非難 抑圧された人かもしれません
高い山ほど、風当たりが強いからです

Qこの世界は夢、かも!

学者、野谷茂樹氏がラジオ深夜便で語っているのをユーチューブで見ました。
この世の現実は夢かも知れないという、懐疑論者の言い分を語っています。

懐疑論者の言い分を、独自解釈・意訳をすれば、、、

「認識は脳作業だから、科学者が脳だけを取り出して脳を生かせる装置を作って、その脳に電気信号を送って仮想現実を作り、それを認識させれば脳は、それを現実のものと思うはずだ。そう、今まさに我々は脳科学者によって見せられている、仮想世界の中で生きているのだ。故に現実と思っているこの世界は夢の世界なのだ。」

野谷茂樹氏は、認識は脳に支配されているので、この懐疑論を否定する証明が出来ないと云って、いらだっています。

私の独自解釈・意訳が適当かどうかちょっと自信が持てませんが、このままで質問としてみたいと思います。

さて、この世は夢ではない、と云う《証明》はあるのでしょうか?

Aベストアンサー

人間の脳は、人間が手足を持ち、胃袋を持ち、生殖器や泌尿器官を持っていて、それらのフィードバックを含んだ総体として始めて機能しています。決して精密な時計や複雑なIC回路などの人工構造物のように、その機能が各部分の器官の機能の単純な和として機能しているわけでありません。脳の機能は身体の総体的な機能全体のバランスの中で機能いています。すなわち、脳は「全体は部分の和よりも大きい」すなわち、脳の総体的な機能の全体は、各部位の部分の和よりも大きいものとして機能しています。

ですから、

「科学者が脳だけを取り出して脳を生かせる装置を作って、その脳に電気信号を送って仮想現実を作り、それを認識させれば脳は、それを現実のものと思うはずだ。」

という設定そのものが、現実の脳の機能を論じるのに全く意味をなさない設定になっています。だから、野矢茂樹氏が何に苛立っているのか私には理解できません。


このQ&Aを見た人がよく見るQ&A

人気Q&Aランキング