ショボ短歌会

歴史 大正デモクラシーは何年までか?

普通選挙法が1925年という大正最後の年にできたことを教科書に見ていた時に気付きとても驚き、疑問に思ったことができたので質問させていただきたいです。

大正の終わりは天皇が崩御という計画されたものではなく偶然の事件によるものであり、歴史の出来事と年号を結びつけるのは適切ではないという考えはあると思います。
しかしそれを承知の上で無理やり結びつけるとしたならば、大正の一大イベント 大正デモクラシーが、ある条件限られた男性のみですが選挙権を与えられ限定的な民主主義を達成し翌年大正が終わると考えるとすごい出来すぎたストーリーだなと教科書を見て思いました。
歴史に詳しい人たちの間でも上記のことは自明でしょうか?
また、大正デモクラシーがいつ終わったかの定義として1925年とする説はあるでしょうか?(教科書には1920年代までとぼかして書いてあるため他に大正デモクラシーが終わったと考えてもいい別のイベントがあったのではないかと思ってしまいます。たしかに1925年は完全なる民主主義になったわけではないから終わったとするのは間違いだという説もありそうです)
大正の終わりとともに大正デモクラシーは終わったと考えても良いでしょうか?

歴史に詳しいかたいらっしゃいましたら教えてください

A 回答 (3件)

そもそも「大正デモクラシーとはなんなのか」です。

それを知ればデモクラシーの終わりも見えてきます。

大正デモクラシーは(学校では習わないですが)「明治維新からの近代国家への転換が一段落し、日清・日露戦争も勝利したが、特に日露戦争による国民の犠牲とそれに対する補償の少なさから、一気に国民の『権利者としての機運』が高まり、立憲国家としての本質を求める運動が大正デモクラシーである」のです。

そもそも「選挙制度」というのは、古代ローマの時代から「国民を徴兵し、国家間の戦争に使うことを前提に、国家の方向性を国民が決める権利」なのです。ですから徴兵されない女性達が選挙権を持たなくても「徴兵される人(男性)が等しく選挙権をもつこと」が普通選挙なのです。

日露戦争は、日比谷焼き討ち事件に代表されるように、和平交渉が難航し、政府は秘密主義で交渉したため、徴兵された国民や経済統制を受けた国民たちの納得がいくレベルの補償を受けられませんでした。日露戦争は明治37年(1904)~38年(1905)という明治末期に行われた戦争であり、徴兵される20歳前後の若者はすでに明治中期の生まれであり「日本の近代化が完了した後の世代」であり、明治22年に成立した大日本帝国憲法後の立憲時代の若者でもあったわけです。

この親の世代は明治初期の「自由民権運動」を経験していた世代でもあり、封建制から近代国民国家に生まれ変わった明治期の日本で「国民の権利」というものを最初に表明した世代でもありました。

これらのことから日露戦争後の政府の対応は「国民国家(当時は立憲国家)」としてあるまじきやり方であり、それにより再度「国民の権利」を求めたのが大正デモクラシーの始まりであるといえます。

私はむしろ「大正デモクラシーの始まりが、大正になってから」なのはある意味必然だと考えています。なぜなら明治の45年間は日本が近代化する強烈な変化の時期であり、それは同時に日本国民が徴兵制を含めて「国家の主権者」として目覚めて行く過程でもあったからです。

 明治維新から世代で二回り、大日本帝国憲法発布から一回り目の世代を中心にデモクラシー運動が起きたのは偶然ではないと思います。

結果として政府は「成人男子に選挙権を与える」という普通選挙法を発布しました。近代国民国家は徴兵の義務と選挙権の権利で一組ですから、これによりデモクラシー運動が下火になるのはむしろ当然であるといえます。それは明治の自由民権運動が大日本帝国憲法発布後に急速に衰えたのと同じです。

ですから、大正デモクラシーの終焉はいつなのか、といえば普通選挙法(衆議院選挙法)が出来た1925年であるといえるわけです。
大正天皇は同じ年に崩御していますが、これは偶然としかいえないでしょう。
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>大正デモクラシーは何年までか?



「江戸時代はいつまでか」であれば大政奉還までなんでしょうが、江戸時代のルールや価値観が廃されたときであれば、区切りは様々。江戸城入城、廃藩置県、廃刀礼など人によって区切りは変わるでしょう。大正期についても同じく。大正時代のデモクラシー運動というのであれば、大正年間でしょうし、大正時代に幕を開けたデモクラシー運動というのであれば、昭和期まで含まれます。何かを目的にした運動は、それが達成されたときが終わりであって、普通選挙(当時の)が運動が目指したものと等価であれば、実現された時点が終了です。

>大正の終わりは天皇が崩御という計画されたものではなく偶然の事件によるものであり、歴史の出来事と年号を結びつけるのは適切ではないという考えはあると思います。

仰る通り。

しかしながら、大正天皇はお体がすぐれないという事情もあったようで、早くから摂政設置となりました。かなり先進的な考えをお持ちの方で早く代替わりを望んでいたという節もあります。当時の政府の価値観では「あいつ、頭がおかしい」ですから、盛んにマスゴミを使って陛下の悪評を流し、摂政への移行の道筋も付けたかったようです。本当のところはどうだか分かりません。当時若かった人(故人)に聞いたところでは「あのお方はいわゆる気が触れとるから、世の中は若い摂政にお任せした方がいいという感じだったよ。でも、余りにも新聞とかでもそういう主張が多かったものだから、逆に本当なのかなと疑問を呈する人もいた。でも、私達が皇室になんか言うなんておこがましいし不敬だし、そもそも好き勝手に意見なんか言うという時代じゃなかった。重鎮の政治家とかは維新の功績もあって言っていたみたいだけどね(現代語訳)」と仰ってました。
何にしても時の政府は若い摂政(今で言う昭和天皇)の方が御し易く利用し易かったのではないかなと想像しています。韓国のブルドッグソースマーク顔の親父が不敬発言しまくりですが、当時の皇室だって簡単に政治利用可能だったので「天皇が謝れば」云々の根拠である戦争開始、戦争遂行、戦争続行を皇室主導でやり遂げられる訳ではなかったのです。現に明治天皇の誕生日、昭和天皇の誕生日は何だかんだ言って国民の休日ですが、大正天皇の誕生日は平日です。まぁ、あえて言えば夏休み最後の日(東北・北海道を除く)かもしれませんけど。

能書きは別にして、社会的・時代的な要請、列強各国の状況、政府や官僚の長期方針とかそういったところで方針は決まります。多くの場合、市民運動に屈して急に制度が変わるものでもなく、総理大臣の鶴の一声で制度が変わるものでもなないです(それが可能なのは金正恩w)。歴史のストーリーとしてはその方が面白いので、そういう小説が沢山かかれますが、実際にはそういう人って、ほんの少し方向を変えるモーメントを発揮しただけです。それさえなければ変わらないの事実ですが、政治家がみんな金正恩という訳ではないことも認めるべきでしょう。
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何年までというのはないです。


今だっていろいろなものが移り変わっているけど、
「この年をもってはっきりと一線を画している」
と実感できるのは、はるか時が経ってその時代を眺め返したときです。

大正デモクラシーは軍部の台頭とともに消滅に向かいます。
ワシントン軍縮などでフラストレーションを溜めていた軍部は、
その後大陸進出の成功などに伴って国民の支持を獲得、政治的発言権も増大させます。
特に陸軍の皇道派と統制派の相克は、天皇機関説の否定など、広く日本の世に影響を及ぼしました。
日本における軍国主義の始まりです。
日本が軍国主義に傾くほどそれと相容れない民主主義は抑圧され、次第に下火になっていきます。
そして2.26事件後は完全に軍部の独壇場となりました。

いまは軍部との関係だけ述べましたが、ここだけ見てもあるときすっぱり変わったのでなく、
潮目のように次の時代の潮流に取って代わっていったのです。
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