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No.5
- 回答日時:
日本では古くから禅宗等で行われる座禅等の瞑想体験が
流行だそうですが・・・危険です
宗教も歴史も教義も何も知らない無智無学無能での実践は
エセ聖職者の都合の良い、猿回しのサルになります
菩提達磨[ぼだいだるま]が祖で
ダルマがその象徴です
九年間、座禅を行ったことによって
手足が腐ってしまったといいます・・これが模範ですよ、これを目指すのですか
手足のない不気味な、は縁起の悪い、気持ち悪い置物ですが
エセ宗教は金儲けのためなら何でも利用します
他力本願を否定し、自力での成仏を目指すという事ですが
禅の悟りは、一人よがりに過ぎないものです。
禅は「不立文字」で、悟りの境地は言葉では表現できないとしています。
弟子が悟ったかどうかを決めるのは、師僧の主観です。客観性ゼロです。
つまり、師僧が悟りの境地を少しでも誤解していたなら、
間違った悟りが代々伝わっていくことになります。
そして、それを修正する方法は存在しないのです。
そもそも、禅の始祖は達磨とされますが、
達磨が正しい悟りを開いたことを、誰が証明できるのでしょうか?
達磨の悟りが偽りであれば、歴代禅師の悟りも、
全て偽りだったことになります。
あなたがまだ悟りを開いていないのであれば、
当然、達磨が悟っていたかどうかは判定できないはずです。
「私には悟りの境地がどのようなものかまだ分からない。
しかし達磨が悟っていたことはわかる」
…これは、完全な自己矛盾です(笑)
あなたが悟りを開いていると思っていても、
それが正しい悟りなのか、偽りなのか、誰にも分らないのです。
したがってやはり、達磨が正しく悟ったかどうかを判定することはできません。
「私は正しい悟りを開いている。なぜなら達磨の弟子だからである。
だから達磨は正しく悟っている」
…こういう論法をトートロジーというのです (爆笑)
今日の講義、終わり~

No.3
- 回答日時:
どういう瞑想を指しているのか分からないが、一般的に瞑想の命題となる
「何故にAか」
「BとAの関係たるやいかに」
「Aの真の姿はいかようか」
などという追究に、危険な要素などあるのだろうか。
No.2
- 回答日時:
う~ん 脳の別の部分が開くので ボケ防止や開発には良いんだが 混乱もあるからな。
「わからない」「わかった」「それは未知」「これは既知」「これは不可知」と 情報が海の中に放り投げられて 自然にくっつき正しく固まるのを眺める感じ。
あるいは 見て適当に形だけ真似た泥人形を パーツに分解して材料から吟味するような作業。
誘導する者や それを出来る落ち着いた環境がないと 時々迷子になる。
呼吸は基本だけど 自己を理想のバランスにしようとするなら特に問題はないけど 自分の霊性を掴もうとすると 準備が足りないから 問題は起こるだろう。
体の一部にせよ 一体としての認識なら問題はないが そこから更に力を引き出そうとするなら 部下が「もうこんなに仕事できませんよ」と逆らう感じで 反撥が起こるだろう。
基本は優しく 抱きしめる意図で 「いいよ それでいいんだよ 在るを実感しよう」 となれば 全く問題はないはず。
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