痔になりやすい生活習慣とは?

1. われわれは自由であることが こわいのでしょうか?

2. 自由意志を持っていたくないと思うほど 自由であることが
おそろしいのでしょうか?

3. 何か・どこかの――少々間違っていてもいいから――神隠し
に遭わせてくれる集まりへと群れて行くのでしょうか?

4. その間違いに気づいたときにも 間違う自由だと開き直って
さらになお神隠しの中に包まれて行こうとするのでしょうか?

5. 神隠しに遭ったまま一生を過ごしたいということなのでしょ
うか?

6. いやいやいや。ひとは あまりにも人間的であまりにもかし
こくあるので その目のさめた状態がこわくて 神隠しに遭うこと
をいつもねがっているのでしょうか?

7. 日本人は半分だけ目を明けて生きていましょうか?

A 回答 (4件)

自由であることは素晴らしいことですよ。



神隠しに遭ったように連れ去られていきたい、なんて言葉、スルーできませんね。
一生、人目につかない闇の世界で生きる事になるかもしれませんよ。
自由か拘束か。拘束というと、これから高齢化がすすみ、人間も体の自由が奪われていきます。
やはり人間は最後まで自分の足で歩き、食べたいと思うものを食べ、自由に暮らすことができることが一番幸せですよ。

人は賢いかもしれないけど、落ちるときは速いですよ。
半分だけ目を開けている。的確な表現かもしれません。

なんか、ごく普通の回答になってしまいました。たぶん、ブラジュさんが願っている前向きの回答とは違いますね。
悪しからず
「自由と神隠し」の回答画像4
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


★ 自由であることは素晴らしいことですよ。

★ 神隠しに遭ったように連れ去られていきたい、なんて言葉、スルーでき
ませんね。

☆ と来たら――考えてみるに―― ではどうすればよいか? を考えるこ
とですかね。

あるいはつまり いま自由でない部分はあるか? 自由でない状態があれば
それについてどうするか? ・・・こういった議論になるとよいのかも知れ
ません。


ま ですが 抽象的で漠然とした質問になってしまっているかも知れません。




★ やはり人間は最後まで自分の足で歩き、食べたいと思うものを食べ、自
由に暮らすことができることが一番幸せですよ。
☆ そう。自由の問題を取りあえず別にしても まづ健康年齢を上げること・
長く保つこと。これを目指すだけでも よいことだと考えられます。




この質問は 日常生活の中でひとまづ・とにかく 自由について注意を向け 
意識してみましょうという程度の呼びかけであった・・・といったところで
しょうか。

お礼日時:2019/04/11 22:09

自由というより孤独だから、もしかしたら騙されているのかもしれないと思っていても


そこに行くのだと思います。人間は寂しい生き物です。
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この回答へのお礼

あぁ 孤独論ですか。――ご回答をありがとうございます。

これで 三件の回答が寄せられましたが なかなか前向きの意見や
展望は 出にくいでしょうか。

質問者も 表現が湿りがちなんですが たとえば:
★ もしかしたら騙されているのかもしれないと思っていても
☆ というところを いっそのこと:
☆☆ 神隠しに遭ったように連れ去られて行きたい
☆ とまで思っているかも知れないと 極論してみました。




もっとも 孤独論としては ひとこと自論があります。

○ 孤独とは 何も孤立なのではなく 社会として生きているから
には 孤独関係なのだ。

☆ と考えます。コミュニケーションが少ない・あるいはうわべだ
けのものになってしまうというとき それが孤独だとしても それ
は やはり・どこまでも関係なんです。社会性としてあるんです。

つまり 孤独関係というコミュニケーションの土壌のようなものだ
とは思われます。




○ 孤独関係というのは 《自由》の基礎である――と言えるか?

☆ ってなことも考えたりします。

お礼日時:2019/04/09 18:59

自由は怖いですよね。



何をしていいか、自分で判断せねば
なりません。

判断能力が十分にあればともかく、
そうでない大多数の人間にとって
自由はやっかいです。

そんで、判断した後も迷い続けます。

選択は正しかったのか、と。

そのため、何をして良いか判らない、
と探している間に人生が終わってしまう、
なんて人種も出現するに至りました。

アホみたいです。

これだったら封建時代の方がマシです。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 自由は怖いですよね。
☆ 《自由からの逃走》ですか? そう言えば『逃走論』っていうのも
ありました。

★ 何をしていいか、自分で判断せねばなりません。
☆ №1の回答では 《拠り所を求める》という傾向が指摘されました。

それについて わたしは そのとき同時に いっそのこと《神隠しに遭
いたい》とねがっているかも知れないと添えました。

★ ~~~~~
判断能力が十分にあればともかく、
そうでない大多数の人間にとって
自由はやっかいです。

そんで、判断した後も迷い続けます。

選択は正しかったのか、と。
~~~~~~
☆ あとで検証するのは 《自由が大好きな人》の場合にも当てはまる
でしょうが 確かに具体的な指針を欲するという傾向があるかも分かり
ません。


それにしても:
★ 大多数
☆ ですか? これは何ともまだよく分かりませんが。


★ ~~~~~
そのため、何をして良いか判らない、
と探している間に人生が終わってしまう、
なんて人種も出現するに至りました。

アホみたいです。

これだったら封建時代の方がマシです。
~~~~~
☆ 個別の具体的な指針が得られなかったとしても 大きく《身分や地
位》がすでに確定していましたからですね。


ただ そのように民主制社会へ向けて進んできたとき もう長い間 こ
ういった《自由の恐怖》は 言われて来ているんですけれど。

それを わたしもいまさら 触れているんですけれど。

あまり前向きの・建設的な意見は 出ないでしょうか?

お礼日時:2019/04/09 18:47

たぶん、能力のある人・才能のある人、は自身の「やる事」があるので、自由は怖くはないでしょう。



普通の人、は自身の為すべきことがはっきりとしていないので、自由は怖いと思います。
この人たちにとって必要なのは自由ではなく、拠り所ですね。

物に、お金に、地位に、名誉に、友に、そして異性にと。
そこに“神隠し”も加わります。

イチローは“する事”が有ったので、名誉は要らなかったようです。
たぶん、結果を出せなかったとしても、“やる事”をし続けていたことでしょう。
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この回答へのお礼

★ 普通の人、は自身の為すべきことがはっきりとしていないので、自由は怖い
と思います。
この人たちにとって必要なのは自由ではなく、拠り所ですね。
☆ なるほど。これは 分かりやすいです。かなりの割り合いで いるかも知れ
ないですね。


ご回答をありがとうございます。



むろん:
★ たぶん、能力のある人・才能のある人、は自身の「やる事」があるので、自
由は怖くはないでしょう。
☆ こういう人もいるでしょうね。一割・二割はいましょうか。



《拠り所》のほうとしては:
★ 物に、お金に、地位に、名誉に、友に、そして異性にと。
そこに“神隠し”も加わります。
☆ なるほど。そして わたしの感覚では この神隠しが ほかのいろんなもの
ごとを包み込むかのような感じに映ります。




★ イチローは“する事”が有ったので、名誉は要らなかったようです。
たぶん、結果を出せなかったとしても、“やる事”をし続けていたことでしょう。
☆ なんだか すご~い年収が保証されているようなんですね。うらやましいほ
どの。




☆☆(趣旨説明欄) 7. 日本人は半分だけ目を明けて生きていましょうか?
☆ 片方の眼だけは じゅうぶん明けて見ているとすれば いったい何を見てい
るんでしょうね。

お礼日時:2019/04/09 15:48

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Q哲学カテ界隈で話が噛み合わない現象が起きるのは何故だと思いますか?

タイトル通りです
自分で色々考えてますがたまには
他人の意見聞いてみたくなったので質問しました

私個人の現在の考えでは
「質問という体で問いかけしてるが
実際は(質問者にとって)優秀な弟子、賛同者が
欲しいだけなんとちゃうかな」
って考えが主流となってますね

「話が噛み合わない現象なんて起きてないよ!」
って思う人はこの質問スルーしてください
尚、この質問は哲学的な問答を求めていません
アンケートみたいなものです

Aベストアンサー

>私個人の現在の考えでは
「質問という体で問いかけしてるが
実際は(質問者にとって)優秀な弟子、賛同者が
欲しいだけなんとちゃうかな」
って考えが主流となってますね

顕著ですね。
基本的に素人の集まりにすぎないので、質疑を交わすこと自体が問題を次第に掘り下げていく形になる場合が多いと思います。
持論を述べるのはむしろたたき台として必要なわけですが、しかし、賛同者を求めるのが目的の人は、その過程を重視せずに、相手を持論に引きずり込むことだけを考えている。
最初から質問が目的じゃないので噛み合うはずがない。

そういった輩と、真摯に何かを探求しようとする人との違いは、論理的な根拠を示しつつ持論を展開しているかどうか、という点。
賛同を求める乞食の輩は、論理的な根拠が提示できなくなると、強引にかぶせてきますからすぐに判別できる。
どうでも良い箇所では物分かりの良い顔して猫なで声を出すのが得意ですが、いざ本丸に攻め込まれると見境も無く髪を振り乱してあたふた大声で怒鳴り散らす。
おだてられての木登りも大得意。

それでも論理を辿ることさえお互いできれば、そんなに大きな齟齬は生じないものです。
で、そういう輩に限って、自分の質問に回答がひとつもつかなかったりすると、自分の頭が良すぎて他人には理解できないのだ、などと妄想に浸りつつ、ひとり悦にいったりする。
ダダを捏ねる赤ん坊みたいなもので、誰か面倒を見てくれる人がいると世の中は平和で助かる。
見解の相違だね、とお互いに質疑を保留できる余裕があるうちは、可能性がまだある。

>私個人の現在の考えでは
「質問という体で問いかけしてるが
実際は(質問者にとって)優秀な弟子、賛同者が
欲しいだけなんとちゃうかな」
って考えが主流となってますね

顕著ですね。
基本的に素人の集まりにすぎないので、質疑を交わすこと自体が問題を次第に掘り下げていく形になる場合が多いと思います。
持論を述べるのはむしろたたき台として必要なわけですが、しかし、賛同者を求めるのが目的の人は、その過程を重視せずに、相手を持論に引きずり込むことだけを考えている。
最初から質問が目的じゃな...続きを読む

Aベストアンサー

>ケ・セラ・セラと言っていてよい確率は ふつうの人間のけんかだとか社
会的対立の場合に 50%を超えるのですか? それとも もっと少ない
のですか?
あるいは ケースバイケースの多様性があり過ぎますか?

質問の意味が、もう一つしっくりと判らないんだけど、ケ・セラ・セラ(What will be, will be、なるようになる)から来る、私の反応を書いておきます。

我々が複雑な構造と言うときにその言葉で表されているものに、その出現の根拠が全く違った2種類のものがある。その一つは、精密で巨大な振り子時計や昔のゼンマイ仕掛けの腕時計(ルビーの石が入っていて、何ルビーの腕時計なんて言ってたあの懐かしい腕時計)の内部や、からくり人形の内部のような複雑な機械の構造。もう一つは、生物の体の内部の複雑な構造だ。

この二つの間の決定的な違いは、時計など前者の構造の出現には、まずそれが何故作られたかの目的が前もって与えられており、さらにその目的を追考するために、その機械の外部にある者が目的や設計図に沿って作り出された複雑な構造であるのに対して、後者には、そんな目的もそれを作る外部の者も、そして前もって与えられたシナリオもなく、外界のと成り行きに任せて、擦った揉んだしながら、すなわちケ・セラ・セラってな具合に自発的に発生した複雑な構造だ。この成り行き任せで自発的に創出された複雑な構造のことを物理学では「散逸構造」って呼んでいる。

前者と後者の際立った違いは、前者は外部からのいろいろな障害や状況の変化に大変脆いのに対して、後者はそれらに対して頑強な抵抗力があることだ。何故なら、後者は外部との予期せぬ(従って確率的に起こる制御不可能な)いろいろな状況との相互作用で、成り行きに任せながらケ・セラ・セラてな具合に収まるところに収まるようにして、自発的に出来上がってくる。ケ・セラ・セラとその状態に留まっているのが(少なくとも局所的に)一番安定していることが理由で出来上がってきた構造だから、その状態を外部の者が無理やりズラしてしまっても、再びその安定状態に自発的に戻ってしまう。すなわち、自己修復の機構を持っているんだ。さらに、元々その構造が何のためにそこにあったのかなんてな目的が始めから無いんで、なんとなくそんな目的でも有ったつもりでいたのに、状況が変わって、その目的がなんだかわからなくなってしまっても意に介せずに存在し続けられる。ところが、前者には自己修復の機構もなく、また状況が変わって目的がなくなったら存在している意味すらなくなってしまうから、外部からのいろいろな障害や状況の変化に対して大変脆いんだ。

んで、さらに制御不可能な環境から、どのような仕掛けでそんな複雑で無目的な構造が自発的に創出できるのか、その条件は何かってな問題が当然浮かび上がってくる。それには3つあって、1)開放系であること、2)非線形効果が無視できなくなってしまうぐらい熱平衡状態から十分離れている「非平衡状態」にいること、3)一旦偶然に出来上がった構造を破壊するように制御不可能な形で外部から飛び込んできた要素をいつまでも覚えているんじゃなくて、その要素を「散逸」させて忘れさせてしあう仕掛けがあること、この3つだ。

あたしゃ、この文脈で「非平衡」って言葉使っているんで、ブラブラさんのこの言葉の用法とは違っているいみたいだね。

この3つの条件の中で数学的に一番面白いのは2)の非線形性だ。でも、物理的にもっと面白いのは3)だ。情報の散逸が起こるということは時間の向きの対称性が破れているってことだ。さらにその現象を数学的な方程式で書く場合、決定論的な微分方程式ではなくて、確率変数の従う非決定論的確率論的微分方程式になってしまう。だから、この宇宙って決定論的にできているのか、それとも非決定論的にできているのかという、物理学の最も基本的な問題に絡むからだ。

要するにケ・セラ・セラってえのは、神様がいるのかいないのかってな問題に絡み出す。だから、ケ・セラ・セラで出来てくる複雑な構造という最も本質的な部分を強調して「散逸構造」って名付けられたんだ。ここでの会話の成り行きだったら、「ケ・セラ・セラ構造」って呼んでも良いね。

今回は、ブラブラさんが、あたしの得意なケ・セラ・セラってな言葉を的を射て使ってたんで、今回はあんたを揶揄うのをやめて、あたしからぬ真面目な反応をしたんだ。いつもと違って、気持ち悪かっただろう。

>ケ・セラ・セラと言っていてよい確率は ふつうの人間のけんかだとか社
会的対立の場合に 50%を超えるのですか? それとも もっと少ない
のですか?
あるいは ケースバイケースの多様性があり過ぎますか?

質問の意味が、もう一つしっくりと判らないんだけど、ケ・セラ・セラ(What will be, will be、なるようになる)から来る、私の反応を書いておきます。

我々が複雑な構造と言うときにその言葉で表されているものに、その出現の根拠が全く違った2種類のものがある。その一つは、精密で巨大な振り...続きを読む

Q公理って何?

再び初歩的質問です。

「公理」を辞典で調べますと、

・数学で、論証がなくても自明の真理として承認され、他の命題の前提となる根本命題。

・論理学で、演繹的理論の出発点として、証明なしに採用される命題。

・現代においては、自明な命題ではなく、理論の前提となる仮定。

等の記述があります。

1.学問がないので、いまいちピンとこないのですが、具体的にはどのようなものがあるの
でしょうか?そして、どう理解したらいいのでしょうか?

2.「理論の前提となる仮定」から組み立てられた理論というものが、自然科学においても
検証されるとはいえ、何故、事実・真実と言えるのでしょうか?

Aベストアンサー

公理で一番有名なのは、平行線公理(平行線公準とも呼ばれる)でしょう。

「一つの直線上にない一点を通ってその直線は一つしかない」

この命題を証明することはできません。以前はこれを証明しようと多くの数学の天才たちが試みました。しかし誰にも証明できなかった。ロバチェフスキーが1829年に『幾何学の新原理並びに平行線の完全な理論』を発表して、彼が1826年に発見した新しい幾何学を提示して、上記の命題が証明不可能な公理であることが明らかになったのです。

ロバチェフスキーは、上記の命題の代わりに

(1)「一つの直線上にない一点を通ってその直線は何本でも引ける」

としても、数学的に無矛盾で閉じた論理体系を構築できることを明らかにしました。それがいわゆる非ユークリッド幾何学の始まりでした。この幾何学で表現されている空間は曲がった空間なのです。

その後に、リーマンが

(2)「一つの直線上にない一点を通ってその直線は一本も引けない」

としても、数学的に無矛盾で閉じた論理体系を構築できることを明らかにしました。この公理(2)が成り立つものとして構築された幾何学をリーマン幾何学と呼びます。一方、上記の公理(1)が成り立つものとして構築された幾何学をロバチェフスキー幾何学と呼びます。

さらに、リーマン幾何学の一つの具体的な例が球面状の幾何学であることもわかるようになりました。その場合この非ユークリッド幾何学を球面幾何学と呼ぶこともあります。

上記の事実の発見は、人類に多大な知的進展をもたらしました。なぜなら、自分の主張の論理的矛盾性をいかに証明しても、それでこの世界が解ったわけではないことが明らかになったからです。例えば、我々が埋め込まれている宇宙が上記のどの幾何学によって記述されている世界なのかは、論述の無矛盾性や整合性をいくら明らかにしても、判定できないことが明らかになったからです。

その判定には必ず実験や観測が必要である。すなわち論理的な理念の整合性に加え、事実はどうなのかを実験や観測で判定しなくてはならない。その判定をするのが自然科学なのです。そして数学は、命題の間の無矛盾性を論じる言語学であり、すなわち人文科学の一つであり、事実を論じる自然科学ではないことが明らかになったのです。

公理で一番有名なのは、平行線公理(平行線公準とも呼ばれる)でしょう。

「一つの直線上にない一点を通ってその直線は一つしかない」

この命題を証明することはできません。以前はこれを証明しようと多くの数学の天才たちが試みました。しかし誰にも証明できなかった。ロバチェフスキーが1829年に『幾何学の新原理並びに平行線の完全な理論』を発表して、彼が1826年に発見した新しい幾何学を提示して、上記の命題が証明不可能な公理であることが明らかになったのです。

ロバチェフスキーは、上記の命題の代わ...続きを読む

Q天皇を見たら 目がつぶれるか? そのうわさは いまどう変わったのか?

去る四月十日  天皇陛下即位30年奉祝感謝の集いで北野武が述べた祝辞
の中に 次のようなくだりがありました。

▲ (北野武、笑いと感謝込めた天皇皇后両陛下への祝辞全文 「日本とい
う国に生を受けたことを幸せに思います」) ~~~~~~~~~~~~
https://www.huffingtonpost.jp/entry/takeshi-kitano_jp_5cae98ade4b09a1eabf7855a

私はちょうど60年前の今日、当時12歳だったその日、母に連れられて、日
の丸の旗を持つ大勢の群衆の中にいました。波立つように遠くの方から歓声
が聞こえ、旗が振られ、おふたりが乗った馬車が近づいてくるのが分かりま
した。

母は私の頭を押さえ、「頭を下げろ!決して上げるんじゃない」と、ポコポ
コ殴りながら「バチが当たるぞ」と言いました。

私は母の言うとおり、見たい気持ちを抑え、頭を下げていました。

そうしないと、バチが当たって、急におじいさんになっていたり、石になっ
てしまうのではないかと思ったからです。

そういうわけで、お姿を拝見することは叶いませんでしたが、おふたりが目
の前を通り過ぎていくのは、はっきりと感じることができました。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

☆ この種のうわさの内容は いまどう変わったのでしょうか?

① ただ世間の空気として流れていただけだから 世の中の変化とともに 
うやむやになった。それでよいのだ。・・・といったことでしょうか?

② いかに哲学と言えども そういうことは――お二階のそのまた雲の上の
ことは―― 万機公論に決する対象ではないのだ。このバカ! ・・・とい
うことになっているんでしょうか?

③ 例の《人間宣言》というものも ただの世間のうわさに過ぎない。つま
り そういった雰囲気を醸し出すような声明があったというだけで 決して
それが公式のものだとは思えない者の疑問です。《人間宣言》とは どこに
も書かれていないはずです。

去る四月十日  天皇陛下即位30年奉祝感謝の集いで北野武が述べた祝辞
の中に 次のようなくだりがありました。

▲ (北野武、笑いと感謝込めた天皇皇后両陛下への祝辞全文 「日本とい
う国に生を受けたことを幸せに思います」) ~~~~~~~~~~~~
https://www.huffingtonpost.jp/entry/takeshi-kitano_jp_5cae98ade4b09a1eabf7855a

私はちょうど60年前の今日、当時12歳だったその日、母に連れられて、日
の丸の旗を持つ大勢の群衆の中にいました。波立つように遠くの方から歓声
が聞こえ、...続きを読む

Aベストアンサー

爺ちゃんの母親は、天皇陛下は、ウンチやオシッコをしないと固く信じていました。爺ちゃんは18歳の時に、天皇陛下に1メータくらいの距離でお目にかかれ、視線を合わしながらのお言葉も頂戴しました。同時に皇居に招かれた仲間は、「天ちゃん、バンザーイ!」と言うと放言していましたが、陛下が5メータくらいに近づかれ時より、最敬礼の御辞儀で、お顔を拝見することもなしで、通過後、嬉しさの余りに涙を流していました。

回答としては①です。ゴチャゴチャ言うな!です。

Q絶対善はあるのです。

私は絶対善はあると主張していますが、皆さんはそんなものなどないと否定されます。でも私が言いたい事は常識的なことなのです。

この群れ社会において最も大切なものは何か?それは群れ社会の安寧秩序です。これは社会が平穏でルールが守られ安心して暮らせることです。これを守る事が最も正しい事なのです。この群れ社会においてこれ以上大切なことはないのです。これに異論がありますか?

そしてその群れ社会の安寧秩序を守る為に最も優れた方法が「私より公を優先すること」なのです。でも「私より公を優先すること」と言われても何か分からないでしょう。ですから分かり易く言えば愛や思いやりや慈悲心などですと説明しています。これはキリストが説いた愛です、孔子が説いた仁、つまり思いやりです、そして釈迦が説いた慈悲の心です。そしてこれらに内包、共通しているのが「私より公を優先する心、行為」です。

「私より公を優先する」とは分かり易く言えば「私欲という自分の思いを少し抑えて公の為とみんなで考え行うこと」です。自分の私欲の心を少し抑えて、一人一人がみんなの為と考えることです。これは民主主義を示しています。そして「みんなの為」と考えるということは皆さん一人一人がリーダー、その群れのトップの立場に立って考えると言うことです。それは強い責任感をもって考えると言うことです。そのような心を一人一人みんながもって、みんなで考えれば最も正しい答えに辿り着ける確率が高くなるよ、ということです。これ以上に優れた方法が何かありますか? これが私の言う絶対善なのです。

その群れ社会にとって絶対的に正しいことは社会の安寧秩序であり、そのために最も優れた方法が「私より公を優先する事、つまり愛や思いやりや慈悲心」なのです。もちろんこれは最高の方法を示しているので一般的にはなかなかできないことです。しかしそれを目指す事こそが最もより良い社会が創れるのだ、と言う事なのです。

私は絶対善はあると主張していますが、皆さんはそんなものなどないと否定されます。でも私が言いたい事は常識的なことなのです。

この群れ社会において最も大切なものは何か?それは群れ社会の安寧秩序です。これは社会が平穏でルールが守られ安心して暮らせることです。これを守る事が最も正しい事なのです。この群れ社会においてこれ以上大切なことはないのです。これに異論がありますか?

そしてその群れ社会の安寧秩序を守る為に最も優れた方法が「私より公を優先すること」なのです。でも「私より公を...続きを読む

Aベストアンサー

いろいろな人がいっぱい書き込んでくれて、芯木(shinwood)さんは今回いろいろ学んだんじゃないでしょうか。芯木さんの今回の作戦の誤りは、世の中には、形式を重要視する人と実態を重要視する人の両方がいることを無視して、実態を重視する芯木さんの一方的な表現を使ってその主張がなされていることです。

「手術は成功した。しかし、患者は死んだ」

要するに、患者の生死の実態よりも、手術の手順と形式の正確さの方に興味を持つ方がこの世の中にはいくらでも居られるのです。そして、哲学好きな人にこの形式組の人がいっぱいいます。そうした方々は、言葉の使用法の形式の方に興味が優先してしまい、たとへそこで使われている言葉が不完全でもそこで言っていることの内容や実態をなんとか理解しようという方向に興味を向けない傾向にあります。

「あんたの言いたことはなんとなく判るんだが、そのような言葉の用法はその内容と矛盾しており、間違っている」

などと言って、言葉の使い方が間違っているから、あなたの言う内容も間違いだ、などと考えてしまう人もいくらでもいます。だから、芯木さんが言いたいことの本質を論じようとするのではなくて、絶対の意味などの言葉の使い方がこだわった回答が多くなっているのです。

そのような人たちは、左を指差しながら、「右、右」と言っている人の心を察することができず、その間違いを言いつのる傾向があります。この場合、常識的に見て、指を差している方向をその発信者が言いたいのは明らかですのに。

物事を論じるためには、その内容も、その言葉の使い方も、両方とも重要です。しかし、その両方を同時に論じることにどれだけの生産性があるか、自明ではありません。大論文でもない限り、それを意識せずに両方とも同時に論じてしまうと誤解を招き、混乱さえ起こしかねません。ですから、何かを論じる場合には、内容か、形式か、そのどちらにより重点を置いているのか、文面から明確にわかるように書いておく方が、生産的な議論のやり取りができます。

ここでの主題は「公に対する奉仕」なのだと思いますが、例えば、「公」という言葉一つとっても、人によってその意味がだいぶ違い、芯木さんが言いたい意味では受け取ってくれない場合が散見されます。いわんや、「絶対」などという、一神教の影響を受けた西洋文化大好連中が好んで使う言葉は、哲学好みの人たちには刺激的すぎて芯木さんの言いたい内容よりも、その刺激的な言葉に拘ってしまう人がいくらでもいます。

出来るだけ刺激的な言葉を避けてご自分で言いたいことを表現することを工夫すると、芯木さんのご主張に賛同する方も増えるのではないでしょうか。また、どうしても「絶対」と言う言葉を使いたいならば、論述を始める前に、ここでのこの言葉は、、、、を意味するものとして特殊な使い方をしている、などと一言を入れておくと、読者もそのつもりで読んでくださると思います。

いろいろな人がいっぱい書き込んでくれて、芯木(shinwood)さんは今回いろいろ学んだんじゃないでしょうか。芯木さんの今回の作戦の誤りは、世の中には、形式を重要視する人と実態を重要視する人の両方がいることを無視して、実態を重視する芯木さんの一方的な表現を使ってその主張がなされていることです。

「手術は成功した。しかし、患者は死んだ」

要するに、患者の生死の実態よりも、手術の手順と形式の正確さの方に興味を持つ方がこの世の中にはいくらでも居られるのです。そして、哲学好きな人にこの形式...続きを読む

Q良心の呵責を感じることはありますか?

哲学者カントは、良心の呵責についてこのように述べています。

「人間が良心の呵責によって感じる苦痛は、たといその根源が道徳的であるにしても、結果からいえば、
哀傷とか恐怖とか其他種の病的状態と同じく、自然的である。」
参考:カント 道徳哲学 岩波文庫 p.41

つまり、良心の呵責は、たとえ道徳的であったにしても、自然な感情から来ている。恐怖とか、哀愁とかいったように。

あなたは、良心の呵責を感じることはありますか?
それはどんなことですか?

Aベストアンサー

私も感じますよ。それも取り返しのつかない子供の頃の自分の行動とかにね。
歳を重ねていくうちにいろいろ経験していく中で、まだ自分の感情が未熟だった頃の失態とかを思い出して、何であんなひどい事をしてしまったんだと感じます。
たとえば犬を飼ったのに遊んだのはちょっとの間だけで、あとはほおっておいて散歩もしないでフィラリアで死んでしまったときとか、思うようにならない事で腹を立ててヤツ当たりに弟を叩いて泣かせてしまったことや、子供の時の事なんで誰でもやってしまう仕方がない事とはいえ、とても辛く思い出すときがあります。ほかにもいろいろと自分の失態を思い出しては良心の呵責に胸がつまります。不思議なことにそういう想い出だけは心に残ってるんですよね。

Q国家とは?

国家とは?

Aベストアンサー

二階建ての構造に成っていると捉えるとよいでしょう。

《一階:スサノヲ市民社会 ‐ 二階:アマテラス公民圏》連関として。

・ アマテラス公民圏:アマテラス公務員+アマテラシテ(元首)

・ アマテラシテ(元首):国王・象徴・大統領

・ 主権在民にもとづき 二階の権力は やがて一階に大政奉還す
るようになるでしょう。

・ 一階である世界のムラ・ムラ(市町村)が互いに連帯して 第
二階としての・狭義の国家を主導する世界的な共同自治のシステム
に移って行くことでしょう。
(インタナショナルなインタムライズムと言います)。

Qこの世界は夢、かも!

学者、野谷茂樹氏がラジオ深夜便で語っているのをユーチューブで見ました。
この世の現実は夢かも知れないという、懐疑論者の言い分を語っています。

懐疑論者の言い分を、独自解釈・意訳をすれば、、、

「認識は脳作業だから、科学者が脳だけを取り出して脳を生かせる装置を作って、その脳に電気信号を送って仮想現実を作り、それを認識させれば脳は、それを現実のものと思うはずだ。そう、今まさに我々は脳科学者によって見せられている、仮想世界の中で生きているのだ。故に現実と思っているこの世界は夢の世界なのだ。」

野谷茂樹氏は、認識は脳に支配されているので、この懐疑論を否定する証明が出来ないと云って、いらだっています。

私の独自解釈・意訳が適当かどうかちょっと自信が持てませんが、このままで質問としてみたいと思います。

さて、この世は夢ではない、と云う《証明》はあるのでしょうか?

Aベストアンサー

人間の脳は、人間が手足を持ち、胃袋を持ち、生殖器や泌尿器官を持っていて、それらのフィードバックを含んだ総体として始めて機能しています。決して精密な時計や複雑なIC回路などの人工構造物のように、その機能が各部分の器官の機能の単純な和として機能しているわけでありません。脳の機能は身体の総体的な機能全体のバランスの中で機能いています。すなわち、脳は「全体は部分の和よりも大きい」すなわち、脳の総体的な機能の全体は、各部位の部分の和よりも大きいものとして機能しています。

ですから、

「科学者が脳だけを取り出して脳を生かせる装置を作って、その脳に電気信号を送って仮想現実を作り、それを認識させれば脳は、それを現実のものと思うはずだ。」

という設定そのものが、現実の脳の機能を論じるのに全く意味をなさない設定になっています。だから、野矢茂樹氏が何に苛立っているのか私には理解できません。

Q哲学とは何か?

哲学とは何か?この第一歩から考えてみたくなりました。

野矢茂樹氏の「ラジオ深夜便」出演の話はどなたかが紹介していましたが、
私も一度聞いたことがありました。
改めて聞いてみると、嬉しくなるほど分かりやすいと思いました。なんだか
分からない話を随分聞いてきたせいでしょうか?

どんな分野でも、言っていることが明快な人は、その中身をよく理解してい
る人で、逆に言っていることが何だかよくわからない人は、結局分かってい
ないのだという世間一般の定説は正しいものでしょう。

哲学とは何かということについて、野矢氏は、次のように述べています。

ごく簡単に哲学史を述べれば、アリストテレスは哲学を学問として捉えていた。
トマス・アクィナスにとっては、哲学は宗教であった。
デカルトは、哲学は学問の基礎であると考えていた。
現代においては、哲学者の数だけ定義が存在すると言って過言ではない。

私(野矢氏)にとって哲学とは、人間の言葉を使った複雑な思考の中の問題として
1.思考の全体を見通せていない、2.思考を支えている多くの暗黙のものを自覚し
ていない、3.全体の曖昧さ、矛盾を分からないでいる、これらの問題を解決する
ことである、と。

確かに、哲学というものの定義は、様々であることは実感していました。だから、
「さあ統一しましょう」といったところで、そううまくはゆかない。せめて、各々
の定義を理解し合えたら、もう少し意義のある対話ができるかも知れません。

さて、あなたの「哲学の定義」はというと、どういうことになりますでしょうか?

哲学とは何か?この第一歩から考えてみたくなりました。

野矢茂樹氏の「ラジオ深夜便」出演の話はどなたかが紹介していましたが、
私も一度聞いたことがありました。
改めて聞いてみると、嬉しくなるほど分かりやすいと思いました。なんだか
分からない話を随分聞いてきたせいでしょうか?

どんな分野でも、言っていることが明快な人は、その中身をよく理解してい
る人で、逆に言っていることが何だかよくわからない人は、結局分かってい
ないのだという世間一般の定説は正しいものでしょう。

哲学...続きを読む

Aベストアンサー

キリスト教が発達してからの西洋哲学は、キリスト教を隠れ蓑にしていた人間のインモラルな部分に、風を通して、本来の人間性を取り戻そう、という、初々しいものではなかったですか。

ルネサンス美術と同じで、西洋の精神世界の理想である、ギリシアの昔のように、キリスト教を離れて、自由に思考をしたかった。もう一度、自分の頭で考えてみたかった。

ギリシアで発達した哲学は、言葉遊びのきらいもありますが、(多分に、貴族の暇つぶしだったでしょう)、発想は、もっと自由で、はつらつとしたものでした。人間の尊厳の確認であったかのような印象があります。

その旗頭であるソクラテスが牢獄に繋がれ、毒をあおって死ななければならなかったため、何か、陰惨な印象を持っていましたが、何年か前、彼の牢獄であったと伝えられている岩屋を訪れる機会があり、その場所が、アクロポリスを見渡せる、風光明媚な場所であったため、何だか、足元のはしごを外された気分、というか、牢獄でさえ、知的でした。

おっしゃる通り、哲学は、対話によって、曖昧なものや無意識に受け入れていた事柄を、明確にしてゆく役割を担っているのだと思います。中世以降のヨーロッパでは、キリスト教が邪魔になりましたが、現代の日本では、いかがでしょうか。

キリスト教が発達してからの西洋哲学は、キリスト教を隠れ蓑にしていた人間のインモラルな部分に、風を通して、本来の人間性を取り戻そう、という、初々しいものではなかったですか。

ルネサンス美術と同じで、西洋の精神世界の理想である、ギリシアの昔のように、キリスト教を離れて、自由に思考をしたかった。もう一度、自分の頭で考えてみたかった。

ギリシアで発達した哲学は、言葉遊びのきらいもありますが、(多分に、貴族の暇つぶしだったでしょう)、発想は、もっと自由で、はつらつとしたものでした。人...続きを読む

Q科学的認識とは対象の客観化ですか?

科学的認識とは、自然現象を客観的に知ること、一定の枠組みをつくりあげ、いわばその枠組みを眼鏡とし、それを通して自然を見ることによって認識しますよね。
主観はいつも、認識すべきものを自分から切り離して目の前に立たせ、自分の枠組みの中にはめ込み、客観として仕立て上げることによって認識が行われます。
この主観客観関係が、すべての科学的認識の基盤と考えてよいでしょうか。

Aベストアンサー

科学的認識とは、自然現象に付いてならば客観的に検証し、作り上げた一定の枠組みを眼鏡として見る事、と云えます。
ところが、主観はいつも認識すべきものを自分から切り離さずに目の前に立たせ、客観的に作り上げられた枠組みに捉われずに仕立て上げ、これを認識します。
この主観客観関係が、人間の認識と云う働きに複雑性をもたらします。

☆ これでどうでしょうか。


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