No.3ベストアンサー
- 回答日時:
長篠の戦は勝頼にとっては、準備万端で迎えたものではなく、行き当たりばったりで始まったものです。
長篠の戦いが発生したのは、家康の家臣の謀反が発端となっています。 家康は三河の奉行として、大賀彌四郎という男を抜擢していました。 この大賀は、もともとは中間ちゅうげん(雑用係)の身分だったのですが、なかなか目端が利いたために家康が取り立てました。 そしてやがては三河の一地方の行政を差配するほどの地位を与えています。 当時は武力が尊ばれる時代で、武士たちは行政に携わることを嫌い、この方面の人材は不足気味でした。 そのために家康は大賀を抜擢したのですが、大賀は取り立てを受けるとやがて増長し、三河の中心地である岡崎城を奪い、自分がその主になりたいという、だいそれた野心を抱くようになります。 しかし大賀自身には兵力がありませんので、勝頼に連絡し、「三河で一揆を扇動して徳川軍を攪乱し、その隙に城門を開いて迎えるので、岡崎城を家康から奪って欲しい」と要請しました。 そして成功の暁には、自分を岡崎城の城主にしてほしい、と願い出ます。 勝頼としては、岡崎城を手に入れれば、織田・徳川連合を三河で分断することができますので、喜んでこの申し出を受け入れます。 そして1575年5月の初めに、甲斐かい(山梨県)を出発して三河へと向かいました。 武田軍の総兵力は3万3千でしたが、この時は裏切りに応じて城を接収するのが目的でしたので、勝頼が動員したのは1万5千、全体の半分以下でしかありませんでした。 つまり勝頼は、出陣の際には織田・徳川連合と決戦を行うつもりはなかったのです。 このことが、長篠の戦いの結果に大きな影響を与えます。 長篠城に転進する大賀の企てた陰謀はやがて露見し、大賀とその仲間たちは捕縛されました。 これは大賀の仲間になっていた者が、果たして主君を裏切っていいものかと思い直し、家康の重臣に大賀の企みを密告したためでした。浜松城にいた家康は、謀反の知らせを受けて激怒し、大賀をのこぎり引きという、残忍な刑罰によって処刑しています。 大賀の陰謀が失敗したことが伝わると、勝頼は行軍の目的を失ってしまいました。 しかし、1万5千もの兵を動員しておきながら、何の成果も得ずに撤退するわけにもいかず、家康に奪われていた長篠城を取り戻そうと目的を切り替えます。 このようにして、長篠の戦いは流動的な、言わば行き当たりばったりの経緯によって開始されたのでした。
早速のごきとうありがとうございました。
<武田軍の総兵力は3万3千でしたが、この時は裏切りに応じて城を接収するのが目的でしたので、勝頼が動員したのは1万5千、全体の半分以下でしかありませんでした。><つまり勝頼は、出陣の際には織田・徳川連合と決戦を行うつもりはなかったのです。> <大賀の陰謀が失敗したことが伝わると、勝頼は行軍の目的を失ってしまいました。 しかし、1万5千もの兵を動員しておきながら、何の成果も得ずに撤退するわけにもいかず、家康に奪われていた長篠城を取り戻そうと目的を切り替えます。><長篠の戦いは流動的な、言わば行き当たりばったりの経緯によって開始されたのでした。>
私が口をはさむところがなく、引用が非常に長くなりました。経緯/展開がよくわかりました。勝頼は、かわいそうに歴史に流されてしまったのですね。
No.6
- 回答日時:
武田など諸勢力の軍勢の兵には「農民」や「半分農民、半分武士」と言う人たちが大勢いました。
(対して、織田軍は戦を専門の職業とする武士で構成されていました)
従って、戦専門に組織された軍を持たない勢力は、兵に多くの犠牲が出ると例え戦いに勝っても、その後農業を行うものがいなくなってしまい、結果、年貢が減るという事になり困るのです。
従って、双方ともに死力を尽くして戦い、死傷者が多く出る「力攻め」に持ち込むのは避けたいというのが本音なのです。
そこで、戦を仕掛ける総大将は、圧倒的な武力の差を敵に見せつけ降伏を迫ったり、相手方の兵をこちらに寝返らせ戦わずして勝敗が決まる段取りをして、味方の犠牲がほとんどないという見込みが成り立ってから戦に赴くというのが通例です。
このような、実際に刃を交えず決着をつけようとした例は、尼子氏党首自らが毛利の本拠:郡山城に迫り、3万あまりの兵で取り囲んだ郡山合戦など多数あります。
ちなみに、この戦いでは、兵力で大幅に勝る尼子氏は、武力の差を見せつけて毛利を降伏させようと思っていました。ところが以外にも毛利は降伏してきません。しかし、尼子は城を力づくで攻めるという事はしませんでした。郡山城を攻めれば味方にも大損害が出て困ることが予測されたからです。そうこうしているうちに、毛利には大内から援軍が来て、戦況がますます難しくなった尼子は撤退を決断しました。楽勝と思って出陣したのに、撤退ですから、尼子の総大将の面目は丸つぶれです。
(このような敗戦は(党首としての基盤が弱い総大将であれば)、家来や同盟国などからの信頼が低下し、撤退後の領地経営に頭を悩ますことが予想されますから、戦わずして撤退というのは勇気がいる決断です)
勝頼は、武田信玄の子に生まれながら、武田家の男子がもらう名前の1文字「信」を持っていません。
これは、母親が、信玄が攻め取った諏訪家の姫であったという事がその理由です。
攻め滅ぼされた家の姫の子なら、武田に恨みを抱いているであろうという建て前と、
勝頼を武田の男子として認めてしまうと勝頼が武田の家を継ぐことになった場合、
武田家に仕えることになった旧諏訪家の武士たちの立場が強まるので、元から武田家に仕えていた甲州武士達はこれを嫌ったという本音から、「信」の1字をもらえなかったのです。
結局信玄(晴信)は勝頼に「諏訪家」の通字「頼」を与え、「勝頼は諏訪家の男子」と言う形を取らざるを得ませんでした。
ところがその後、信玄に対する武田家嫡男の謀反により、跡継ぎが無くなってしまった武田は、信玄の後を勝頼に任せるしかなくなってしまったのです。ただ、甲州武士たちの反発もあり、勝頼はその子「信勝」が後をついで正式な党首となるまでの「臨時総代」という事になったのです。
ですから、信玄に勝るとも劣らない能力を有していたと言われる勝頼は、家臣達から完全に認められた存在ではありませんでした。
そこで、長篠では結果を残したかったわけです。戦に赴く前は、相手方の寝返りも計算に入れて十分な勝機を見込んでいたことでしょう。けれども、蓋を開けて対陣してみれば相手方からの裏切りはない。
当初の見込みとは違う!
けれども、一旦三河まで出てきた以上、何もしないで戻るのでは家臣たちの心が余計離れてしまう。
それに、甲州武士たちは、「三河武士なら一人で 10人切れる」と三河勢を侮っていましたから、
勝頼は「せっかくだから、このまま戦ってしまっても勝てるだろう」と甘い見込みで戦端を開いてしまったのでしょうね。
ところが、結果は大惨敗。
結局、十二分な見込みではなく、十分な見込みで長篠へ動き出してしまったのが、武田家を大きく衰退させる大敗北へとつながってしまったのです。
早速のご回答ありがとうございました。
<長篠では結果を残したかったわけです>< 十分な勝機を見込んでいたことでしょう> しかし<相手方からの裏切りはない。><当初の見込みとは違う!> <>< 何もしないで戻るのでは家臣たちの心が余計離れてしまう。 <甲州武士たちは、「三河武士なら一人で 10人切れる」と三河勢を侮っていました>から、<せっかくだから、このまま戦ってしまっても勝てるだろう」と甘い見込みで戦端を開いてしまったのでしょうね。>
多方面(軍事ばかりでなく政治などの)からのご説明で、経過/展開がよくわかりました。
<信玄に勝るとも劣らない能力を有していたと言われる勝頼>も、めぐり合わせ(運?)が悪く、結果が無情になったのですね。
No.5
- 回答日時:
よく分かってないw
歴史小説にでもするなら、好き勝手書ける面白い題材の1つですね。これは江戸時代でも同じで、そのころからウソを好き勝手に書いていますね。三段撃ちとか。
武田勝頼が決断して戦うことになったのですが、『甲陽軍鑑』によれば武田軍の若手が戦うことを主張、年寄り連中が撤退を主張し、戦う選択をした・・となってます。wikiでは、甲陽軍鑑は若手vs年寄という構図で書かれてるので、どこまで信頼できるか不明、と注記されてますね。
織田軍はどんどんと増強し、対して自軍は信玄が亡くなり先細りの危惧もあり、織田を討てる機会は今を逃して後は無いと考えたのではないか、という話も聞いたことがあります。
武田軍は、自国から出て行って戦をしているので自国は荒れない、長篠の戦いも同じですね。兵力差は2倍でも、前日の小競り合いでは勝利してる(?wikiより)ようで士気は高く、勝機はあると判断したのでしょうかね。
早速のご回答ありがとうございました。
<若手が戦うことを主張、年寄り連中が撤退を>
<織田を討てる機会は今>
<前日の小競り合いでは勝利>
勝頼達も、内心、戦の方向・行方を迷い悩んだでしようね。
No.4
- 回答日時:
長篠の戦は単独の戦いではない。
旧今川の駿遠を分け取りにして以降、徳川と武田は長年にわたり勢力圏を侵し合う状態にあった。
信玄の西上は京を狙ったのでなく今までに寝食した旧徳川圏の支配権の強化というねらいであったというのが、最近の見方である。
そして大名の勢力争いとは、地侍の獲得競争である。
特に境界線付近の地侍は自分の家の存続がかかっているだけに、どちらが強いか、そのことに敏感である。
こちらが強いと見ればあっと今に主を変え、長年の旧主にも刃を向ける。
そしてその変化は周囲の地侍にも波及し、ドミノ式の寝返りを引き起こす。
これを防ぐには、自分の方が強いと実際に見せつけるしかない。
戦に勝つことである。
たとえ自分の方が小勢でも、これができないでは地侍の信をつなぎとめることはできない。
大勢力どころか一国を保つことさえできなくなるのである。
勝頼は出馬するしかなかった。
もちろん対策はした。
天下無敵の騎馬軍団を根こそぎ連れていくことである。
ただ、織田・徳川の方が上手だった。
それだけのことである。
この後、勝頼は徳川に和睦を求める。
この和睦を巡って徳川家では内紛が起き、家康は自らの妻子を殺さざるを得なくなった。
そして徳川家は織田家との同盟続行を決断する。
勝頼の滅亡が決定したのはこの瞬間だったかもしれない。
早速のご回答ありがとうございました。
<地侍の獲得競争>のためには、兵力の多寡を考慮することはできず<勝頼は出馬するしかなかった。><天下無敵の騎馬軍団を根こそぎ連れて>
戦国大名も安閑としておられないのですね。
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