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世の中って時が経つほど当たり前のように技術が進歩するのでしょうか?

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反例を挙げてみたいと思います。


古代ローマ帝国は上下水道を完備してましたが、近代ヨーロッパになると、し尿を直接川に流したりして伝染病を蔓延させていました。


また2000年以上前の、ギリシャの賢人たちは地球が丸い事も地球が太陽の周りを回ってる事も知っていましたが、17世紀頃のヨーロッパでは聖書が幅を利かせて天動説がまかり通っていました。

A 回答 (6件)

世の中って時が経つほど当たり前のように技術が進歩するのでしょうか?


 ↑
そんなことはありません。
石器時代の何万年の間は、技術など
ほとんど進歩しませんでした。
技術が急速に進歩し始めたのは、ここ数百年の
間です。

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古代ローマ帝国は上下水道を完備してましたが、近代ヨーロッパになると、
し尿を直接川に流したりして伝染病を蔓延させていました。
また2000年以上前の、ギリシャの賢人たちは地球が丸い事も地球が太陽の周りを
回ってる事も知っていましたが、
17世紀頃のヨーロッパでは聖書が幅を利かせて天動説がまかり通っていました。
  ↑
技術の進歩は直線的でないこともありますよ。
ジグザグで進むこともあります。
しかし、長期的にみれば進歩しています。
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なぜ技術は進歩するのでしょうか。



それは技術を伝達できるから進歩するのです。伝達の手段が限られていれば、進歩しないか、あるいはゆっくりとしか進歩しません。
かつては口頭でしか伝えられなかったものが、文字になり、設計図になり、やがて電話、インターネットができると伝達の速度は爆発的に速くなります。
伝達(コミュニケーション)と技術の進歩は正比例しています。
情報の伝達が高度に発達した現代では、巨大災害や戦争によって社会インフラが深刻なダメージを受けない限り、「時が経つほど当たり前のように」、技術は進歩します。

ただし、技術が進歩しても、それが実際に活用されるかは別問題です。
近代ヨーロッパのし尿問題のように、技術はあっても、それを実現する社会状況、為政者がいなければ実現しません。
それは現代日本でも同じです。
日本の下水道普及率は78.8%(平成29年度)です。都道府県によっては50%切っているところもあります。
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この回答へのお礼

ここにまとめてお礼をさせて頂きます。ご回答してくださった方ありがとうございました。ㅤ

お礼日時:2019/04/19 19:46

そうですよね~



良い事と分かったはずなのに
悪い事と知っていながら
文明を戻してしまう事ありますね
中世暗黒時代、魔女狩り
イースター島、森林伐採
グリーンランドのヴァイキング滅亡

環境・宗教・外交・習慣などが絡み合い
そうなったんです

これ、他人事ではないんですよ
日本だって
古い良き伝統や文化が失われつつあります
クリスマスやバレンインデーのバカ騒ぎ
初詣は神社、結婚式は教会、葬式はお寺
ミソクソめちゃくちゃ

内村鑑三は 
経済の背後に政治がある 
政治の背後に社会がある 
社会の背後に道徳がある 
道徳の背後に宗教がある と述べています

内村鑑三はなげいているでしょう
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基本的に技術は進歩していくものです。

しかし、それを実際に用いたり、継承して行くには、社会的な要因、宗教や文化、経済、その時代の背景などが大きく関わっていると思います。
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で?

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人は知らないから始まるんです。

だから学ぶのです。
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Q4~6世紀は大阪府南部に日本(倭)の首都があったのは確実ですか?

4~6世紀というと古墳時代の真っ只中ですが、大阪府南部の堺市から羽曳野市にかけて巨大な古墳が集中しています。

古墳は日本全国に散在していますが、大阪府南部の古墳は特に大きく、巨大な権力を持つ者によって建造されたのは確実だと思われます。おそらく全国レベルで影響力を持った者でしょう。

当時は陸上の移動方法が徒歩か馬しかなく、宮殿からそこまで離れた場所に古墳を造らなかったと思われるので、大阪府南部(おそらく大阪市南部か堺市のどこかの場所)に全国規模、狭くても中国地方から東海地方までを勢力範囲とする政権(大和か倭)の首都が存在したと考えてよいでしょうか。

巨大古墳という、これ以上ないほどのその存在を示す証拠があるわけですから。

Aベストアンサー

大阪南部に、その古墳を作る程度に力を持った権力者がいた、というところまでは正しいでしょう。

しかし、それが「日本(倭)の首都」であったという根拠は明確でありません。
「全国レベル」ということも、「全国」の定義も不明確で、「全国レベルで影響力を持った者でしょう。」ということもあなたの推測です。

4~6世紀ほぼ同時期には、大阪府南部だけでなく岡山県吉備地区、奈良県奈良市・天理市・桜井市にも巨大古墳は多数あります。
また日本書紀には、5世紀の岡山吉備地区の有力集団の記載がありますが、彼らが大阪南部勢力に従属していた根拠はありません。(敵対していたという記載もあるようです。)
これらの複数地区が全て単一権力の支配下にあったという証拠は無く、ゆるいつながりをもった地方権力の並列性であった可能性もあります。
であれば、単一権力による中央集権制では無く、首都という言葉とはややずれます。

また、「大阪府南部に日本(倭)の首都があった」根拠として、あなたが示されているのは「大阪府南部の堺市から羽曳野市にかけて巨大な古墳が集中」という事実と、「宮殿からそこまで離れた場所に古墳を造らなかったと思われる」という推測ですが、後者を裏付ける根拠が必要です。(あえて宮殿から離れた場所に古墳を作った可能性も排除できません。)
上述のような古墳の大阪南部・奈良・岡山と広がる広範な分布は、単一権力大阪南部存在説では説明困難です。

もちろん、「4~6世紀は大阪府南部に日本(倭)の首都があった」可能性はあります。
4~6世紀大型建造物であれば、土台構造物(穴や柱石など)などの遺構が残ります。
それによって、古代都市そのものを確定し、さらには政治形態を確定、首都と定義なども必要で、お示しされた根拠だけを理由に「4~6世紀は大阪府南部に日本(倭)の首都があった」と確定するのはやや無理があるでしょう。

参考までに巨大古墳を20位までお示しします。
5位までに大阪南部が多いことは事実ですが、同時期に岡山にもあり、20位までで考えれば奈良にけっこう後半に分布しています。
この分布をみると初期大和朝廷は天皇ごとに宮殿を変えていた説、有力豪族並列説(吉備勢力など)などに説得力があり、現在我々が想定するような首都というもの存在に疑問が生じます。

1 大仙陵古墳 大阪府堺市大仙町 中期 486m 仁徳天皇陵
2 誉田御廟山古墳 大阪府羽曳野市誉田 中期 425m 応神天皇陵
3 石津ヶ丘古墳 大阪府堺市石津ケ丘 中期 360m 履中天皇陵
4 造山古墳 岡山県岡山市新庄下 中期 360m
5 河内大塚古墳 大阪府松原市西大塚・羽曳野市南恵我之荘 330m
6 見瀬丸山古墳 奈良県橿原市見瀬町・五条野町・大軽町 後期 310m
7 渋谷向山古墳 奈良県天理市渋谷町 前期 300m 景行天皇陵
8 土師ニサンザイ古墳 大阪府堺市百舌鳥西之町 中期 290m
9 作山古墳 岡山県総社市三須 中期 286m
10 仲ツ山古墳 大阪府藤井寺市沢田 中期 286m 仲津媛皇后陵
11 箸墓古墳 奈良県桜井市箸中 前期 278m 倭迩連日百襲姫大市墓
12 五社神古墳 奈良県奈良市山陵町 前期 275m 神功皇后陵
13 ウワナベ古墳 奈良県奈良市法華寺町 中期 255m
14 市庭古墳 奈良県奈良市佐紀町 中期 250m 平城天皇陵
15 メスリ山古墳 奈良県桜井市高田・上之宮 前期 250m
16 行燈山古墳 奈良県天理市柳本町 前期 242m 崇神天皇陵
17 岡ミサンザイ古墳 大阪府藤井寺市藤井寺 後期 242m 仲哀天皇陵
18 室宮山古墳 奈良県御所市室 中期 238m
19 市野山古墳 大阪府藤井寺市国府 中期 230m 允恭天皇陵
20 宝来山古墳 奈良県奈良市尼ケ辻町 前期 227m 垂仁天皇陵

大阪南部に、その古墳を作る程度に力を持った権力者がいた、というところまでは正しいでしょう。

しかし、それが「日本(倭)の首都」であったという根拠は明確でありません。
「全国レベル」ということも、「全国」の定義も不明確で、「全国レベルで影響力を持った者でしょう。」ということもあなたの推測です。

4~6世紀ほぼ同時期には、大阪府南部だけでなく岡山県吉備地区、奈良県奈良市・天理市・桜井市にも巨大古墳は多数あります。
また日本書紀には、5世紀の岡山吉備地区の有力集団の記載がありますが...続きを読む

Q徳川家康や秀忠は明を征服しようと思わなかったのですか?

魏忠賢などの悪臣の専横によって乱れきった明朝の末期は徳川家康・秀忠が将軍だった頃であり、鎖国も行っていませんでした。
結果的に明は女真族という辺境の弱小民族によって征服されてしまうわけですが、徳川幕府がその気になれば明を征服するのは容易だったはずなのに、家康や秀忠は明を征服しようと思わなかったのでしょうか?

秀吉の朝鮮出兵の頃は、明もまだ弱体化が進んでいない頃でしたが、その頃とは比較にならないほど弱体化が進んでいたので。

Aベストアンサー

そんなこと、これっぽっちも考えていないと思います。
理由は簡単です。秀吉の朝鮮侵略の悲惨な結果を知っているからです。

日本の戦国時代を代表する武将の中で秀吉だけは異質ですが、それは彼が商人、現代風に言えば経済人の感覚を持っていたからです。当時の日本の経済発展のためには領土の拡大が欠かせなかったと思います。
まあ、しかし、他国への侵略という点においては、身の程を知らないというか、世界を知らないというかバカですね。先進的な欧州の植民地化の手法と比較すると幼稚極まりないと思います。
そういえば、そんなバカが過去にもいました。それは、日出る国の聖徳太子です。この時に現地で中国側と交渉した人物は秀吉の時と全く同じことをしています。現地で先進的な大国の実状を知って、日本側のトップの顔をつぶさないようにして、二枚舌で収拾するという方法です。

徳川家康は、豊臣秀吉の朝鮮侵略の失敗を教訓として300年続く日本の平和な時代の仕組みを作ります。限られた領土で平和を維持するために、大名の取り潰しや、参勤交代などの仕組みをつくりますが、政治的なシステム以外に庶民が作り上げたシステムもあります。それは、徳川300年の間に人口が全く増加していない事実から導かれます。

家康と秀忠は秀吉と同時代に生きていたので、二度とアホなことはしませんでしたが、その教訓を忘れてしまった平和ボケの人々は、明治に入って中国侵略を開始しますが、秀吉の朝鮮侵略から得られた軍事的な反省をなにひとつしていなかったため、最後は悲惨な結果になっています。
日清日露戦争は短期間の戦争であり、当時の日本は、欧米の先進的な兵器に関する各種技術を導入していたため、時代遅れの兵器相手に勝てるのは当然ですが、先進的な欧米諸国ではすでに確立していた兵站システムが全く構築されていなかったことが、日本の決定的な弱点と言うか特性なのだろうと思います。

そんなこと、これっぽっちも考えていないと思います。
理由は簡単です。秀吉の朝鮮侵略の悲惨な結果を知っているからです。

日本の戦国時代を代表する武将の中で秀吉だけは異質ですが、それは彼が商人、現代風に言えば経済人の感覚を持っていたからです。当時の日本の経済発展のためには領土の拡大が欠かせなかったと思います。
まあ、しかし、他国への侵略という点においては、身の程を知らないというか、世界を知らないというかバカですね。先進的な欧州の植民地化の手法と比較すると幼稚極まりないと思います...続きを読む

Q明治天皇以前に軍装をした最後の天皇は、どなたでしょうか?

今上天皇は軍装(軍服をまとう)をしませんでしたが、先代の明治・大正・昭和天皇は軍装をしましたね。
天皇家の草創期では、天皇は武人であるから、軍装したのはずですね。
ところで、明治天皇以前に軍装をした最後の天皇は、どなたでしょうか?

Aベストアンサー

太平記によると、南北朝時代の後村上天皇は鎧を着てました。
北朝の軍から逃れるときに鎧姿で馬に乗っていたそうです。

Q日本の国旗って韓国の国旗を真似したんでしょうか?

日本の国旗って韓国の国旗を真似したんでしょうか?

Aベストアンサー

太極旗は、李氏朝鮮(高宗)時代の1883年が最初
日の丸は、1870年制定

Q戦国時代の負けた側の家臣について

戦国時代末期に小田氏治は佐竹氏に負け、お城をとられましたが、その時、小田家の家臣が佐竹家の家臣になり、そのまま屋敷を移動することなく小田城下に住み、所有してる田んぼも、とられることなかった人がいたみたいですが、負けた側の家臣は普通は、土地も没収で切腹ですよね?
お城をとられたら、負けた側の家臣は相手側の家臣になることは出来ず、また城下には住めないと思いますし

Aベストアンサー

お邪魔します。

伊達政宗の家臣である大内定綱は、初めは伊達の敵の蘆名氏の家臣であったのですが、伊達家の家臣となり多くのはたらきをした事が認められ、仙台藩の一族に取り立てられています。

この大内定綱の例の様に、もともと負けた側の家臣でも、勝った側の家臣となって功績が認められれば、重臣に取り立てられるという事も、戦国時代にはみられた様です。

以上、何かのお役になれれば幸いです。

Q日本の本来の国名は「豊葦原中津國」(とよあしはらのなかつくに)だった。 ってどういう意味ですか? 卑

日本の本来の国名は「豊葦原中津國」(とよあしはらのなかつくに)だった。

ってどういう意味ですか?

卑弥呼の時代でも日本ではなく豊葦原中津國だったの?

いつの時代から豊葦原中津國で、いつの時代から豊葦原中津國から日本に日本は変わったの?

Aベストアンサー

日本神話において、高天原と黄泉の国の間にあるとされる世界・・・すなわち我々の今いるこの世界です。日本神話が書物になったのは古事記や日本書紀なので、たとえば古事記は稗田阿礼(ひえだのあれ)が『帝紀』『旧辞』に書かれていたことを覚えていて、それを太安萬侶が編纂して古事記ができたということになっています。
古事記ができたのが712年なので、卑弥呼の時代に日本神話があったものかどうかは不明ですね。おそらくその頃、外国からは「魏志倭人伝」の「倭」と呼ばれていたのではないでしょうか。

「日本書紀」が編纂されたのが古事記より少しあとの720年なので、おそらくこの頃神話での豊葦原中津國ではなく、対外的な呼ばれ方「倭」から「日本」に変わったのだと思います。
もちろん「日本」とは中国から見て太陽が登る方角「日の本(ひのもと)」から来ていると思います。

Qなぜ日本では儒学が悪魔崇拝的な悪者として扱われているのですか?

なぜ日本では儒学が悪魔崇拝的な悪者として扱われているのですか?

Aベストアンサー

石平さんですか。

扱われていませんよ。


儒教の悪いところはいくつかあります。
1,周が最高、と言うように過去に遡れば遡るほど
 良い。
 これでは進歩発展は望めません。
2,儒教は、国家を家族のようにしようとしました。
 しかし、この考えを現実に当てはめたら
 家族、一族の利益を図ろうとするだけに
 なり、汚職あふれる社会になってしまいました。


儒教は中国発祥ですが、中国はサイズが
大きいので下々にまで浸透しませんでした。

しかし、韓国は小さいので、末端まで
儒教に染まりました。

日本は海に隔てられていたので、儒教は
単なる教養になりました。

こうした違いが日本と中韓の違いになったのだ
と思われます。

Q豊臣秀吉が人身売買を許せないとしたことについて

織田信長はキリスト教の布教を認め日本各地にキリスト教が広まりました。その後を継いだ豊臣秀吉は、キリスト教布教に対し見せしめのためにバテレンを始め幼いキリスト教信者まで死罪にするなど強い弾圧を行いました。その理由のひとつに、秀吉は婦女の人身売買に宣教師が関わっていたことを知りキリスト教に怒りを持ったという説を何かで知りました。
この説は真実なのでしょうか。

Aベストアンサー

真実です。ほとんどの人が知りませんが、戦国時代には日本人の考える「人身売買」と西洋の「人身売買」は全く異なるものだったからです。

西洋の人身売買、奴隷制度、というものは「人間の形をした家畜」「元々死んでいてもいいものを拾って使う」というところから来ています。
 それは古代の民族戦争で勝った方が「勝者の権利」で、負けた民族を皆殺しにしていたところを、奴隷商人などがお金で買い取って「人間の姿をした家畜」として方々に売ったところから始まっているからです。古代では「民族が違い、宗教がちがうなら人間ではない」のが普通だったからです。

日本も大和朝廷が成立する以前の「生口」などは同じ考えでした。豪族ごとに「自分のたちのコミュニティ」があり、それ以外の人は「同じ人間ではない」状態だったからです。これを変えたのが大和朝廷の成立でこれにより「朝廷に参加する豪族とその身内はすべて同じ人間」になったのです。

そのため奈良から平安期にかけて、人間を家畜として扱う奴隷制度は消えて行きました。鎌倉時代や室町時代など大きな騒乱があると奴隷制が復活するのですが、幕府は何度もそれを違法として取り締まっていきます。残ったのは「年季奉公」という概念だけ、つまり「人生の20年ぐらいを買い、その分の働きをしたら解放される」というものだけだったのです。(実際には女郎屋などは、化粧代や部屋代などを取って、なかなか年季が明けないようにしていました)

ですから、当時の日本人としては「家畜のように人が売買されて、一生奴隷として暮らす」と言うこと自体に拒否感があり、非常に野蛮なことだと考えられていたのです。当然、秀吉にもそういう感覚はあったでしょう。

宣教師は日本に来て非常に喜んだのは「日本では他の国の相場の1/3で奴隷が買える」ということです。当たり前でしょう。日本は20年(人生の1/3ぐらい)分の報酬で人身売買されていて、奴隷は一生なのですから値段が同じなわけないのです。

そのため宣教師は多数の日本人を口入屋から買い入れて外国に連れて行っていました。ところが何年経っても年季が明けず「お前は一生奴隷として買い入れた」と知った日本人が「騙された」と思って逃げてきたのを秀吉が知ったので激怒したのです。
 
 ちょうどその頃秀吉は関白職になり、関白は「天皇に変わって日本の運営に責任を持つ」役割だったため「大和民族が融和して奴隷制を廃止したのになんて野蛮なことをするのか!」と怒ったわけです。

結局それが原因になって、宣教師と軍事力の関係性などがだんだん明るみになり、南蛮の侵略方法が明らかになったので、のちの鎖国につながっていく、ということになるわけです。

真実です。ほとんどの人が知りませんが、戦国時代には日本人の考える「人身売買」と西洋の「人身売買」は全く異なるものだったからです。

西洋の人身売買、奴隷制度、というものは「人間の形をした家畜」「元々死んでいてもいいものを拾って使う」というところから来ています。
 それは古代の民族戦争で勝った方が「勝者の権利」で、負けた民族を皆殺しにしていたところを、奴隷商人などがお金で買い取って「人間の姿をした家畜」として方々に売ったところから始まっているからです。古代では「民族が違い、宗教...続きを読む

Q天皇制は将来的になくなるのですか?

未だに歴史系の定番で平積みもみかける網野義彦による「日本の歴史をよみなおす」を久しぶりに読み返したら序盤でタイトルのような事が書いてありました。

この本自体は何年も売れている「歴史好きな人の入り口」の一つみたいな存在で、お世話になった人も多いかと思います。
その分色んな方の眼にもとまってると思いますが、この文章が批判されているところは今のところ私にはありません。
これも不思議です。

そこで質問ですが、タイトルについていかがでしょうか?

Aベストアンサー

この文章が批判されているところは今のところ私にはありません。
これも不思議です。
 ↑
保守的な人からは批判されていますが。




そこで質問ですが、タイトルについていかがでしょうか?
  ↑
氏はマルクス史観に基づいて、天皇制がなくなる
と主張している節があります。
そして、マルクス史観は過去のモノでしょう。

マルクス史観ではなく、他の理由でなくなる
可能性はあると思います。

例えば皇族男子がいなくなるとかですね。
共産党が与党になったとか、
中国辺りに征服されるとか。

天皇というのは必要があって維持されてきた
制度です。
簡単にいえば、数千万、億もいる人民を統治する
ツールとして有用だから、現在も残っているわけです。

従って、その必要性、有用性が無くなれば、天皇制も
なくなるかもしれません。

Q江戸時代にスペインやオランダが、日本に対して低姿勢だったのはなぜですか?

江戸時代前期というとスペインやオランダが強かった頃であり、スペインはフィリピンを、オランダはインドネシアを植民地とし、原住民に対して過酷な収奪をやっていました。
しかしながら、日本に対しては一切手を出さず、徳川幕府がキリスト教を迫害しても文句を言わず、オランダに至っては貿易は出島のみ、それもキリスト教を布教しないという条件でようやく認めてもらっている有様です。

このように、江戸時代の世界の覇権国とも言えるスペインとオランダが、なぜか日本に対しては強いことを言えず、低姿勢に徹したのはなぜでしょうか?

Aベストアンサー

彼らは、まずキリスト教神父が乗り込み
現地人を宣撫して、それから本国から軍隊を
送り込み、占領してしまう、
という方法をとっています。

日本は、そうした戦法をいち早く察知し
キリスト教が広がるのを阻止しました。
そもそもですが、一定レベル以上の文化、文明が
既に発達している地域で、新たな宗教を布教する
のは困難なのです。

このように、キリスト教布教に失敗した、という
のがまず上げられます。


次は武力です。

スペインの神父が、本国に当てた書見が残って
いますが、それには
「他のアジア諸国と異なり、日本の武力は強力
 である」
旨の記載がうかがえます。

幸いというか、戦国時代の余韻が残っていた
時代です。
鉄砲の数も世界一、と言われたほどです。

植民地にするのはいじめるためではありません。
儲けるためです。

武力で植民地化するよりも、貿易で儲けた方が、
という判断が働いたのでしょう。


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