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特権化できる知性の最高のものは数学なのでしょうか。

極端ですが、たとえば文芸評論などは結局のところ日常会話の延長で、
つまるところ気分なんじゃないかと思うことが多々ありまして。
さらに、人間社会を分析しようとして様々な人文系の文章が日々書かれてますけど、
それらの多くは数学の厳密さに比べてあまりにもテキトーな気がします。

つまり「まぁ、どうとでも言えるよね。」というわけです。

これには私が数学に疎いことによる数学の神秘化が多分に含まれていると思いますが、
どーしても「結局数学(自然科学)以外って、言いっぱなしなんちゃうの?」
という思いが強いです。

だからこそ数学に詳しい人の意見を聞きたいのですが、
結局のところ人間の知性らしい知性、特権化できる知性といいかえてもいいですが、
それって数学なんですかね? その意味では文芸評論なんかは言いっぱなしに過ぎないんですかね?

結局のところ一番知りたいのは、そうしたなんらかの批評を書く人は、
虚しくならないのかどうかということなのですが。

多少質問がとっちらかってますが、気になっているのでご意見をお聞かせください。

(今回の質問に限っていうと、「数学はできるけど、ろくに笑いも解せないような『知性』じゃしょうがないじゃん?」とか
そういうことを聞いているわけではないです。)

A 回答 (11件中1~10件)

 数学が特権的な感じがするのは数学の対象が時間を超越して存在しようとしている脳内寄生体(概念とも言いますが)であるからだと思います。

つまり数学を対象化している人は時間を超越できているという感じがするのではないでしょうか。これは本人にしても周囲の人から見ても言えるのではないかと思います。ところが人間は時間を超越することにあこがれる一方、時間を超越することを恐れます。時間を超越するということは死を意味するからです。普通の人間はこのことに耐えられません。数学が分かる人はいつでも永遠という死の世界を体験できる一方、望めばいつでも時間が流れているこの世へ戻れるという点で自他共に最高の人間的存在様式を保有しているとといえるのではないでしょうか。実用数学は又別の事だと思いますが。
 同じく時間を超越しているように見える文系の活動には人間の死ななければならないという運命を忘れさせる力が数学ほどには備わっていないのではないでしょうか。結論的には数学は宗教に近い力を持っているということになると思っています。
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この回答へのお礼

>ところが人間は時間を超越することにあこがれる一方、時間を超越することを恐れます。
>時間を超越するということは死を意味するからです。

だから宗教だと。これは上手いですね。なるほどと思いましたもの。

バルトじゃないですけど、小説もひとつの死ですよね。現実のカオスを
矮小化して文章に押し込めるという意味で。そうすると数学はもっとも純粋な
死の形式ということになるんでしょうか。そうすると数学は「厳密」じゃなくて
「厳格」だということになりますね。

こんな言葉アソビをしてもしょーがないですけど。
どうすれば折り合いをつけられるのかなぁ。

お礼日時:2004/12/11 21:43

わたしはあまり文章が上手くもなくまた簡潔でもないので、誤解を与えてしまっているかもしれませんが、まず最初の回答では、なるべく自分の考えは書かないようにしました。

自分は文系なので、質問者の要望に反してしまうからです。

ただ、問いの前提に疑問を思ったので、理系の人にとってもより答えやすい問いになるような、再考の方向へ、まあアドバイスというのさえおごがましいですが、書いてみました。

>数学=規則、人文系批評=解釈
とわたしが思っているわけではありません。比較させるのが間違いだと私が思うのは、本来両方を知性としてあつかうのなら、数学にも規則的領域と解釈的領域があり、人文にも規則的領域と解釈的領域があるという分析をした上で、(いや、まったくないという判断も一応ありえますが、それならそれでその空白地帯の定義をしたうえで)規則to規則、解釈to解釈で比較しなければならないのではないかと思うのです。

うまい例えではないかもしれませんが、人間とトラを比較している人が、人間の「眼」とトラの「鼻」とを対比させているような感じがします。

>知性という語自体が文系的だから
ということを書いたのは、質問者のおっしゃる
>このEについて「解釈」できるでしょうか。
という問題を逆側から考えた(つもり)かったからです。

おそらく純粋に形式的なものは解釈できないとおっしゃりたいのではないかと思いますが、純粋に形式的なものを純粋に形式的に「E」と呼ぶ限り、Eの取りうる値は、人文的ほにゃららの「E」的領域において「テキトー」なる価値判断がありえるようなものではないのではないか(まわりくどくてすみません。やっぱり比較できないという結論です)

えーとまず知性と呼ばずに「E」と呼んでもいいとおっしゃってますが、しかし本来の問いは知性の質的な差異だったのであり、それはまずいのでは?というのが一つ。

もう一つは、

>数学にだけ関してこの「知性」という語を「ある場合における形式的思考」
とでも名づけなおしましょうか。
しかしこれでもまだ文系的な語ですね。値が変わっただけです。
だとしたらウィトゲンシュタインに倣って、
いっそ私のこのイメージを「E」としましょうか。
さてこのEは純粋に形式的で理論的な規則です。別名を数学といいます

のところは数学の述語だった「知性」が「知性」から「形式的思考」→「E」→「Eの別名は数学」という具合で、数学=数学となっていてわかりにくかったです。ここをわたしは質問者が「純粋に形式的なものは解釈できないじゃん?」と言っているととらえ、もし「解釈」という概念を「純粋に形式的なものには解釈の入り込む余地はない」という判断が成り立つように定義するなら、いかなる解釈もなしに質問者のいうようなはじめの問い(知性とは結局のところ数学か)を立てることは不可能ではないかと問い返しているのです。

またこれは私からすると小さな問題ですが、
>可能だとしたら、それは数学なんじゃないですか?とおっしゃっているところからすると、数学それ自体の扱い方はトートロジーになっている気がします。数学が人文に比して「E」であると言っているのではなく、数学だけが数学的だと言っているにすぎないというか…(そこでだけですが)

これもいい例えじゃないかもしれませんが、「A」(例えば感情)の定義に人間固有のなにかをすべりこませた上で、人間にだけ感情がある(Aがある)という論じ方になってないでしょうか?

かなり悪文で失礼しました。どうも言葉になりません。
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この回答へのお礼

>>数学=規則、人文系批評=解釈
>とわたしが思っているわけではありません。

ああそうなんですか。ということは私は全くかみ合わないことを言ってしまい
ましたね。申し訳ない。すると必然的に以下の応答もまたそういう状態に陥らざる
を得ないので、話半分で聞いて下さい。

>数学の述語だった「知性」が「知性」から「形式的思考」→「E」→「Eの別名は数学」
>という具合で、数学=数学となっている~
>数学それ自体の扱い方はトートロジーになっている気がします。数学が人文に比して
>「E」であると言っているのではなく、数学だけが数学的だと言っているにすぎないというか

分かりにくい言葉で混乱させてしまいましたが、実はこれらはすべてdawasaさんが解釈された
ような「純粋に形式的なものは解釈できないじゃん?」ということを主張したいのではなく、
図らずもdawasaさんが言ったような「数学=数学」という私の信念を再度強調しただけ
なんです。トートロジーは強調への固着性が表出してしまったものです。

つまり、私が(ドストエフスキーの言葉を借りれば)「2×2=4(ににんがし)が往来の真ん中で
腰に手をあててツバをペッとやっている」のを見て途方に暮れる人種の一人であることを
説明しただけなんです。これはやはりどうあっても往来の真ん中にいるわけで、これを
前にしながら人文系のモノを書くのは根源的に虚しさを抱えるハメになるのではないか?
というのがこの問のそもそもの出発点なわけです。

とはいっても、数学との溝が悩みになったことがないというdawasaさんと悩んじゃってる私との
間のQ&Aは、ずっと平行線を辿ることになってしまうのかもしれません・・・。
やはりそれでも、数学の構造的な疎外を感じずにはいられないのですが、
この点について(ヤツがペッとやっていることについて)果たしてどう思われますか?
(また繰り返しちゃってるだけなら、重ねて申し訳ないです。)

お礼日時:2004/12/13 12:57

「分かってること」以外、口にしちゃいけないんでしょうか?


学問って仮説から始まるもんじゃないですか?
折り合いって言うよか、これは分かってること、これはまだ分かってないことって見分けつつ謙虚に対処するしか現時点ではしょうがないんじゃないですか?
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文系の人間なので、質問者の期待する回答ではないとは思いますが、ちょっとだけ失礼します。



 数学のもつ厳密さに対して、溝を感じられているとのことですが、そもそも数学を「知性」だと認識している質問者の判断はどこから出ているのでしょうか? もしも文系的なものが一切なく、厳密で論理的な数学(論理学)だけがあったばあいに、果たしてその数学を(極限まで?)行使することで、「数学は知性(的)である」ということを証明できるでしょうか? 私にはそれはできないように思えます。「知性」という概念がそもそも文系的な概念だと思うのです。

すなわち、数学が質問者の言うような形で問題になるのは文系的な土俵においてであって、それに比較して文系的な思考が比較的テキトーであると論じるのは、論の土台がもとからズレていて、答えられないのではないかと思います。

わたしは数学的思考との溝が悩みになったことはありませんが、もし自分の立場だったら、

質問者が
>私のイメージによる数学はむしろ
>自然言語をも含めた「規則」に関する問題を相手に
>するようなものをいっているのです
と言っていることをふまえると、テキトーと言われている文芸批評などがほんとうに純粋に「規則」として見たときにもテキトーなのかを考察してみますね。で、たぶん考察の過程でテキトーな文芸批評も見つけるでしょうが、テキトーではない文芸批評を書くことも不可能ではないと考えると思います。
 不可能なのは「規則」ではなく、「解釈」が「絶対的」な文芸批評を書くことでしょう。

 逆に数学的世界であってもそこに「解釈」を持ち込んだら絶対にあいまいさが生じるはずです。(なにを解釈と呼ぶかがわかりにくいですが、「この解法はエレガントだ」と言ってもかならず100%の数学者が賛成するとは限らないでしょう。)あるいは数学には「規則」はあるけど「解釈」はない、という考えもあるかもしれませんが、そうすると規則のみあって「解釈」がないようなものが知性と言えるのか? という疑問がわくような気がします。

-----------

「折り合い」の付け方としては、数学の「規則」と文系の「解釈」を対置させたの間違いだったと考えることで問題を忘れる、というのも一つの手です。

 が、個人的には、もし「自然言語で数学と同等の厳密な規則性で文芸批評が書けるようになった」として、それを書きたいか? とくにそういう文芸批評でも、あいまいなところもあるが人々の一部に感銘と納得を与える文芸批評でも、どちらでも好きなように書けるとしたらどちらを書くか、と自分に問うてみたらどうでしょうか。私だったら後者を書きますし、純粋数学の学者も後者を読むのではないでしょうか? そしてそれは、文芸批評の本質にのっとって、それにふさわしい言語の用法を、われわれの「知性」が選び取っているということなのではないかと思うのです。
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この回答へのお礼

dawasaさんの考えをまとめると、数学=規則、人文系批評=解釈とすれば
「そもそも数学の厳密さを前にした煩悶自体が人文的な枠組みで行われて
いる、それは混同に過ぎない」ということですよね。それというのは
規則と解釈がまったくの別物で、規則を解釈で汲もうとするのは間違い、つまり
>数学の「規則」と文系の「解釈」を対置させたの間違い
だということですよね。
でもそうだとすると、数学(純粋に理論的な普遍性)は解釈(日常言語の可塑性)
とは厳然として異なっている、つまり特権的な知性だということになるのでは
ないですか? (この「特権的」という言葉がウザいなら別に「特殊」で構いませんが)

そこでdawasaさんにお尋ねします。
dawasaさんはこの知性という語自体が文系的だから、といいました。
だったら数学にだけ関してこの「知性」という語を「ある場合における形式的思考」
とでも名づけなおしましょうか。
しかしこれでもまだ文系的な語ですね。値が変わっただけです。
だとしたらウィトゲンシュタインに倣って、
いっそ私のこのイメージを「E」としましょうか。
さてこのEは純粋に形式的で理論的な規則です。別名を数学といいます。

私はこのEについて「解釈」できるでしょうか。もしくはdawasaさんはこのEについて
「解釈」できるでしょうか。

>この解法はエレガントだ
その「解釈」はEに関するものでしょうか。これは「文系的な」というカッコつきでの
『知性』に関する審美判断ではないのですか? それと数学自体の純粋な体系
とはまったくの別物なのではないですか? そして別物である限り、その概念は
特権化されているのではないですか?

>テキトーではない文芸批評を書くことも不可能ではないと考えると思います。
>でもそれを書きたいか? 私はそうは思わない。

それって書きたい書きたくない以前に、文芸批評なんでしょうか。
そんな文芸批評が可能だとしたら、それは数学なんじゃないですか? 

お礼日時:2004/12/12 15:53

大学で数理工学を専攻しているものですが。

親は文系の大学教官です。
理系と文系の最大の違いは、
「数学という限られた(制限された)言語のみを用いて研究するのが理系。自然言語でしか演算できない内容も扱うのが文系。」
という理解をしています。
結局、数学も一つの「言語」なんですよね。どういう言語かというと、結局のところ全部コンピューターにぶち込んで演算してしまえるというところが大きく違う。
計算技術がなかった時代は、計算式を編み出したりしても、計算手段がなかったから、数学は今ほど重要視されていなかったし、逆に数学を持ち込んで論じようという機運もなかったかと。そういう意味で、計算手段が無かった時代は数学を使う学問=理系と他の学問は、ある意味同じようにみられていた気がします。

数学がなんでこんな重要視されるようになったかというと、結局、数学というのはコンピューターの言葉だからなのではと思います。人類がはじめて手にした、無制限に思考させることのできる存在。これは大きいですよ。
(1)思考も一つの労働ですが、いくら労働させても賃金を要求しない。
(2)単位時間に処理(思考)できる量が、数学という限られた言語の中では人間よりずっと多い
という点で。
人間以外に思考させられるものができたから、がんがん学問をそっちに移して楽しよう、という機運になって、文系的な学問にも数学を使うようになって、数学が重要視されるようになったと思います。

ただ、人間が使っている自然言語は、コンピューターが使っているものより相当複雑なので、当然自然言語でしか研究できない部分というのがある。そこを、文系がやってくれているわけなのでは。

めちゃくちゃ簡単にいうと、コンピューターが把握できるようにするが理系、人間が把握できるようにするのが文系。
こう考えると、コンピューターが把握できるものは、普遍性があるから、理系の学問は「言いっぱなし」にはならない。
一方、文系の学問は、チェックするのが人間だけだから、「言いっぱなし」になる可能性があることは確か。ただし、だからといって、すべての文系の内容が「いいっぱなし」=多くの人が納得するある程度普遍的な「法則」というものが見出せない、というと、決してそうではない。

それに、理系の本は数学を使っているから厳密かというとそうでもない。数学は数学でもちろんすごく論理的だけど、実際に数学を技術に応用しようと思ったら、純粋にコンピューター上で行う数値計算の分野でさえ、数学的でない経験則が山ほど出てくる。技術は確かに数学を使っているけど、膨大な量の経験則に補われていて、その経験則の部分を、がんばって理論化して、また実験して、経験則が出て・・・の繰り返し。実際に実験でデータを取ってみて、誤差がでました、その誤差の原因は?といわれて、うーんうーんとうなって、結局、計測機器の感度のせいにすることもしばしば。

そういうのをみていると、結局、理論化っていうのは、その考え方が「真理」なのではなくて、計算できないと技術的に困るから、まず計算式を作って、そっから現実に即した理論を作って、計算があったら納得する、そんなかんじすらする。
そういうことを考えると、自然言語を使う文系の方が、むしろ論理的かも、という気すら。
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この回答へのお礼

おそらく実用という観点から数学を考えた場合、コンピューターと人間という
二分法が問題になるのはbetaさんの仰るようとおりだと思います。ここでの
実用というのは、所与のものの間に新たな関係性を構築していく、くらいの意味です。
ただ、たぶん私が気になってるのはそことはちょっとズレた意味での数学だと
思うんですね。私がここでイメージしている数学というのは、言ってしまえば
差しあたり演算にぶち込む価値も「ないような」、純粋な理論の展開からはじき出される
ある種の「発明品」としての数学なんです。コンピューターでは帰納を破裂させるような、
>膨大な量の経験則に補われてい
るような部分が必然的に問題になるのでしょうけれど、私のイメージによる数学はむしろ
自然言語をも含めた「規則」に関する問題を相手にするようなものをいっているのです。
(つまるところ、ゲーテルやウィトゲンシュタインの問題を念頭においたイメージです)
前のお礼欄でもいいましたが、役立つ役立たないはこの際問題にはなりません。処理上(実用上)の問題を自然言語と比較させる意図はないんです。

betaさんは「自然言語」と「言語としての数学(的言語)」という二つの違いを
理系、文系という区分で挙げてくださいましたが、自然言語も含めて扱う数学と
自然言語そのものズバリで語る文芸評論とはまったくの別物ですよね。
私の疑問は「数学」と「数学以外」の違いはなにか? ではなく、日常言語を
厳密に形式化して考察する数学と、あくまで日常言語に属し続ける人文系の文章との
決定的な溝を前にして、人文系の人はどうやって折り合いをつけていけばいいのか?
ということなんです。だから純粋数学を学んでいる人に質問してみたいと思ったのです。

お礼日時:2004/12/11 21:06

おもしろいですね。


単刀直入に言うと、批評を書く人は逆に数学のように緻密な論理を組み立てようとがんばると思います。
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ここに顔出すような者じゃないんですが、失礼します。

貴方が拘っていらっしゃるのは、どの分野の知性が王道とされるべきか、ということなんでしょうか?そうだとすれば、貴方の価値観による、としか言いようがないんじゃないでしょうか?
私の姉ですが、これはもう数学大好き人間で、何がそんなにイイのかと言うと「答えがハッキリしてるから好き!」って言うんですね。
私は数学嫌いです。コンプレックスも感じます。だから文系が好きって言う以上に、答えの出し方が幾重にもあって、対象としてる領域が全宇宙的に広いからオモシロいと感じるんです。
でも姉に言わせれば「答えが幾重にも」ってところが気に食わないらしい。
こうなると感性の問題です。ある科学者は芸術的感性に乏しい自分が長年コンプレックスだったと言ってました。
数学の分野だって最終的には全宇宙を目指しているんだろうなと思うんですが、如何せん今現在答えが確定してることって実は限定されてるんじゃないですか?他の領域においても事情は似たようなものでしょう。
もし貴方が仰るところの「言いっぱなし」さんには意見表明を御遠慮していただきましょう!と宣言、遵守してもらったとします。あらゆる領域の芸術・学問が発展しなくなりましょう?
かの広中平祐氏は「数学は芸術です!」ってキッパリ仰ってましたよ。ええ、確かに私は聞きました。
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おもしろい質問だと思います。



誰も口にしないけれど、理系の人間の大半は
「文系の科学はくだらない」と考えています。
それと似た面があります。
実は私も、理系人間でして、高校ぐらいまで「文系はくだらない」と考えていました。
ですがすぐれた国語教師に教えられて考えを変えました。

文芸評論などはしっかりしたものではない、というのは、その通りだと思います。
またそれは、評論家の方も承知しているはずです。
評論家に「あなたの解釈が絶対に正しいか?」
と聞いても、よっぽどの自信家でない限り
「絶対に正しいとは言えない」と答えるでしょう。

ではなぜ、本人も正しいと思わないものがまかり通るのか。
それは、評論は評論で、存在価値があるからです。

たとえば小説を読む。小説の中には、各種の「概念」が出てきます。
それは「愛」であったり、「喜び」であったり、「不幸」であったり、
ともかく、正確に定義はできないけれど、いろいろあります。
読む方が、すべての概念及びその関連を受け取ることは困難です。
作家にしても気付いていない概念、関連があります。
良い評論はそれらを気付かせ、文芸作品の価値を高めます。

数学と、文芸評論とは、形態は相当違いますが、
「概念のあいだの関連」
という意味で共通点があります。
(もっとも、「概念のあいだの関連」はすべての知的活動の
共通点でありますが)

しかし二つの点で違いがあります。
ひとつは、数学は「無謬」を要求していること。
文芸評論は無謬である必要はありません。
「まちがっているが良い評論」というのも存在するくらいです。

もうひとつの点は、
数学は「真理」を目的とするのに対し、
評論は「美」、もしくは「感興」を目的とすることです。

真理を求めるサイエンスは厳密の上に成り立ちます。
厳密さがその価値です。
一方で、文系の学問は、厳密でなくてもよいのです。
感興が起こせるかどうかによって仕事の価値が決まります。

学問の目的は「真・善・美」といわれます。
数学などの自然科学は「真」を目的とし、
文系は「美」を目的とするわけです。
目的とする物が違うので、価値は比べられないのです。
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この回答へのお礼

そうなんです。liarさんの仰るとおりだと思います。
趣味判断に属する問題と数学との間に明確な断絶があるのは分かってます。
それなのに、なぜか数学とそれ以外を別物の知性として割り切れないんです。
それは突き詰めれば、文章におけるオモシロさ・美といったもののガイドラインが
まるでないことに対する不安という、漠たるものに過ぎないかもしれません。

が、文学の評価のされ方、「これはすごい」という(文学的)知性への感嘆のされ方、
そうしたものの基準があまりにも不定に思えて、にっちもさっちもいかんのです。
「こんなものはどこにでもある・誰でも書ける」ものと、そうでないものとを分かつ線が
不安定すぎるんです。そういう思いが数学への憧れに転化してるだけなのかなぁ。

例えば審美問題とは別にして
フロイト→レヴィ・ストロース→未開部族への数学の適用(社会学・哲学への数学の直接的介入)
というフロイト以降の無数の流れのうちの一本があるじゃないですか。
この事例は数学とそれ以外のモノとの関係をどういう風に動かしたんでしょうね?

私はこのことについても一方に態度を決められません。だから数学に詳しい人、
数学的知性を持っている人に、数学とそれ以外の関係に関する、大雑把に言ってしまえば
「感想」を聞きたいのですよ。

お礼日時:2004/12/08 22:36

#2です。



確かに、外的な知に関する学問は、
数学(というか、論理学)の土台の上に成立しているものです。
#芸術のような直観的な知は、また別ジャンルです。
しかし、「より土台に近い学問のほうが偉い」とは限らないわけで……。そもそも偉いって何?という問題にもなってしまいますが。

私自身は哲学を専攻していた者ですが、知人の数学者は「数学は、数学界にあるものを語る時は万能かつ最高の学問である」
と言っていました。
同じく、芸術界にあるものを語る時は、芸術のような直観的な知でもって語るのが唯一かつ最高の方法でありますし、心理学界にあるものを語る時は心理学の統計的手法が唯一かつ最高の方法になってしまいます。

だから、どの学問が最も価値ある学問か、なんていう問いはナンセンスなんだと思いますよ。

ただし、どの学問が最も実生活に役立つか、という問いならば答えられます。近代以後だったら数学や自然科学でしょうし、中世だったら宗教学でしょう。
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この回答へのお礼

エライエラクナイ、ヤクダツヤクダタナイというのとは違うんです・・・。
どうにも直観的に空しくなるんです。数学では今もギリギリのところでゴリゴリやってるのに。
文学や社会学が最高の知性だとはどーしても思えないんです。
だって、別にモノ書かなくても知性溢れる人はいくらでもいるわけですからね。

お礼日時:2004/12/08 20:42

質問者様が、どのようなイメージで「特権化できる知性」という言葉を使ってらっしゃるのかが良く分からないのでなんとも言えませんが……。



日常言語での「知性」のようなイメージで語っていらっしゃるなら、知性と呼べるものは主に3パターンほどあると思います。(もっとあるかもしれませんが、今思いつく限り3つです)

1つはアプリオリに可能な概念に関する知。ウィトゲンシュタイン的に言うならば、物事の「内的な」関係に関する知です。カントで言えば「純粋概念」ですね。
純粋概念において最高の学問は、確かに数学です。というか、純粋概念=数学、と言っても間違いではありません。(論理学も含んだ広い意味での数学ですが)

もう1つは、経験的な知、物事の「外的」な関係に関する知です。実験、観察、統計などアポステリオリな事実に基づいた学問がこれにあたります。

最後の1つは「創造的な知」です。これはもちろん芸術のことです。文芸評論なんかも、多分ここに該当しますね。

どれが1番素晴らしいかは誰にも分かりません。その場その場によって、どの知が必要とされるかは違うと思います。質問者様が、何かアプリオリな論理について語りたいと思っているのなら、その時最も適切な学問が(広義の)数学であることは間違いありません。

この回答への補足

お礼の続き:
そういったことについて、数学サイドの人がどういう風に捉えてるかというのも知りたいですが、
数学とか物理の最先端がどのように「外的な知」「創造的な分野」に繋がってくる
のか(あり得るとしたら)、ということも知りたいのです。そんなん解答不可能な気もしますけど。

補足日時:2004/12/08 19:21
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この回答へのお礼

質問の仕方が悪かったです。
とりあえず現在、私の中では仰る3つの知性のうちの後半2つと数学との間には溝があるような気が
している、というのが前提にあります。
そして「数学が知性のなかでもとりわけ特殊で優越したものであることを感じつつ、
それでもそれ以外のどうとでも言いうるモノを得々とした顔で書かせるものはなんなのか。
頭の中で数学とそれらが別物だと仮定するにしても、知性ぶったそれら(を作ること)に対して感じるような
どうにもならない虚しさはなんなのか。」
というような漠然とした疑問が、私の質問です。

単なる数学コンプレックスよ。といわれればそこで終わってしまいますがね。

お礼日時:2004/12/08 19:04

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