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人は知性によって幸福を享受出来ているのでしょうか

A 回答 (5件)

物質には意識はない以上、幸福も不幸もありません。


認識の発達=意識の発生は、幸福感の発生(プラス)でもあり、不幸(マイナス)の発生でもあるのです。
しかし、本来、環境認識と自己認識が充分であれば、その相互作用において、精神的な充足感の増大を指向できるはずです。

物質に「目的」はありませんが、その「無目的=エントロピー増大」は淘汰となり、二次的に進化を導きます。
「いや違う!」と主張する事は可能ですが、厳しい生存競争の中で、生き残るために努力しない個体の遺伝子が次世代に伝わり、種の形質となる事はなく、進化は常に、「生きる事」を目的とするよう導くのです。
(あなたが死にたいと思っても、死ねばそのような形質は遺伝せず、やはり全体は「生きよう」とする)

一方、どのような行動も、本質的には任意=意志の充足であり、「意志の充足じゃない」というのも一つの意志として、精神的充足の追及という方向性から逃れることはできません。
生きる事の本質的目的は、人生を通算した充足量の最大化(生理的拡大×欲求の強さ×それを「人生通算での最大」にコントロールする認識力×その達成度×それを把握する認識力)に収束します。
「精神的充足感のため」というのは、刹那的な快楽主義に帰結するのではなく、最大限の大きな目的、最大限の愛と、最大限の認識を兼ね備えたものになるのです(短絡的な快感の帰結は麻薬だが、それが最大充足でないのはご存知の通り)。

であるならば、人は無意識(死)による幸・不幸±0の状態から、認識の発達に応じて充足量の増大(認識の深まりによる精神的豊かさ×認識的社会性の発達による物質的豊かさ)を目指して生きているのであり、大事なのは意志の充足=社会生命的自覚化=愛による自律的社会行動です(お金をもらうためにイヤイヤ働くのではなく)。

しかし今、そうした「他人を助ける」=愛のために働いている人が、どれほどいるでしょう?
人がとらわれているのは、“お金(や、その源泉としての出世)”という虚構の価値であって。
原始共産制の助け合いから、組織が分業化&拡大する上で、人の意識の社会性を発達させずに、お金や権力といった“馬車馬の目の前のニンジン”で、他律的に社会行動をとらせる道をとったのです。

本来、社会的生命として助け合うために集まっている人々をして、弱肉強食のジャングルに変える、悪魔のツール。
要するに今の人は、自ら喜び(自己存在の本質に根ざした生)に目をそむけ、死による幸・不幸±0の状態からプラスを目指して生きていたはずが、いつの間にか他律的な苦痛(マイナス)から逃げる事による、かろうじて±0に近づく死人に等しい生に堕してしまっているのです。

この回答への補足

大変詳細な回答ありがとうございます。
幸福感の要素として、社会的認識(認識社会性)の発達は不可欠である。そうであるならば、知性は人が幸福感を得るためには必要なものであり、知性によって人は幸福をより感じる事が出来るが、人類は少なくとも幸福感の為に知性を、適切に磨き用いてこなかった(誤った方向へ用いた)、という事でしょうか?

※私は、認識・意識(の発達)は、知性に属する(知性を磨いて到達し得る)ものと捉えております。

補足日時:2013/07/08 21:27
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この回答へのお礼

先日七夕の日、twitter上にて以下の呟きを見ました
「昔は短冊に、消防士になれますよう・警察官になりたい、等の願い事を見たが最近は、宝くじ一億円が当たりますように、との願いをよく見る」とありました。
実は、それほど難しくない事を為す作業を面倒臭がって、目先のニンジンに齧り付く事ばかり優先し自らを幸福から遠ざけているだけかも知れませんね。

当方の愚故、後回答の真意を未だ十分には把握できておりませんが、今後貴殿より頂いたその至言を真に理解すべく自己研鑽に励む所存です

回答ありがとうございました

お礼日時:2013/07/10 19:43

知性より教養。

しかし教養は、知性がないと成り立たない。

知性だけだと、背負い投げをくらう。教養がないと、弱者目線の思いやりや情緒が欠落し、人生行き詰まる。

知性ありきで、下から目線を知らない人は、人生見えるものが少なくて、点として存在するだけになるから不幸だろうね。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
下から目線ですか、なるほど、横から上からのみならず下からもと、多彩な視点を持つ程に知を磨かねばならないですね。知を磨き上げていった究極には完全客観視点の獲得があり、そこまでの領域に到達すると、何が最適な行動かは明白でありそれを実行するのは容易になっていますね。
それこそが仁徳精神とも思えます

お礼日時:2013/07/10 05:36

知性があってもなくても幸福でいることはできます。



知性をどのように使うかによって、より高い幸福が期待できます。
知性が高ければ、使い方によって最悪の状態も簡単に作り出すことができます。

幸福は高い知性を要しないが、より多くの人と共に幸福を目指すとき
より高い知性を必要とするだけだと思います。

よって、知性だけでは幸福は享受できないでしょう。
残念なのは点数だけを目指す知性は、ご満悦になるだけの価値に成り下がります。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
知性の使用方(利用方)次第でプラスにもマイナスにもなりますね。
更に他者あってこその幸福実感も納得です。五感とは違う幸福感こそ人間特有の性質といえるのかも知れませんね。

お礼日時:2013/07/10 02:29

何の相関関係もない。

釈迦の説話の一つに、
毒矢の譬えがあります。それを考えましょう。
目的と手段の違いと言ってもいいかも。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました

お礼日時:2013/07/08 20:54

漠然と幸福では何を意図しているのかが不明です。


仮に絶対的幸福と相対的幸福と定義するものであれば、
知性のみによっては、後者の獲得が可能であっても、
前者の獲得は極めて稀と言わざるを得ません。

この回答への補足

失礼しました。
幸福=各人が幸せと感じること です。
質問文を換言すれば「人は知性によって幸せを感じられるか」となります。

※幸福(幸せ)の定義についての質問が主ではありませんが、自分がここでいう幸せとは凡そ主観的なものに過ぎない幸福(幸せ)です

補足日時:2013/07/08 16:08
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