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とは世界の内への超越、と考えてよいのでしょうか?

A 回答 (1件)

 こんにちは。


 お応えします。
 お察しのようにわたしは 哲学史をわきまえていませんので 誰がこう言ったかれがそう言ったというかたちでお答えできません。考えるところを記します。
 
 まづ全体として
 ★ 世界内属 / 世界の内への超越
 ☆ という表現について その骨格としての認識を同じくしつつも 意味あいや語気において違和感があります。言い過ぎあるいは冗長に感じます。
 つまり その表現をもって ことさら取り立てて自己の存在を意識するというまでになるなら それは頭で立って逆立ちをしているような姿に映ります。
 つまり こうです。
 ○ 人間存在は そのまま世界にあって 自然および社会(他者)と共生しているなら 《内属》しているでしょうし 或る種の仕方で《世界の内への超越》を果たしている。
 ☆ と考えます。後者の表現をもう少し別の言葉でいえば こうです。
 ○ その内属している世界において 《わたし》の自立および《わたしたち》互いの共生を果たすなら この世界を突き抜けるかのようにして 《内への超越》も見られるかも知れない。言いかえると 〔或る種の仕方で〕外へも あたかも窓をひらいたかのようにして〔のみだが〕 超越しているかも知れない。
 ○ ただし そのような現実は――現実であると言っていいが―― 経験合理性を超えていて 非思考の世界である。非思考の対象は 無根拠だが この無根拠と対面するわたしは 非思考なる意志(こころの明けと伸び)として 経験現実である。

 すでにお伝えした次の質問へのわたしのほかの投稿も よろしかったら参照してください。
 【Q:現代日本に必要な哲学は?】
 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4151421.html
 そのNo.8&9です。

 別様の説明を掲げます。
 次の 《イリ(入り)歴史知性》が 《世界の内への超越》を潜在的にしろ持ちます。
 ☆☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  
 -1:原始心性=《ヨリ(憑り)》:アニミスム&シャーマニスム
 0 :歴史知性=《イリ(入り)》:世界への入り
 +1:超歴史知性=《ヨセ(寄せ)》:《ヨリ》を束ね 《イリ》をも 
     社会力学上(政治的に) 寄せる。

 ヨリ→イリ→ヨセの順序を想定したのですが では なぜ 最後にヨセが 出て来たのか。ここでは これは 要らぬものという理解に立ちます。(人によっては 必要悪と言ったりします)。これは 宗教の始まりです。

 言いかえると イリなる歴史知性においても ヨリなる原始心性におけるアニミスム自然本性のほうを備えているでしょうから(つまり むやみに捨て去ることはないでしょうから) その非科学的な――反科学的ではなく 非科学的な――心性として いわゆる信仰(非思考)をも持っています。単純に 超自然のちからを かみと呼んだことでしょう。
 さて ここから スーパー歴史知性とよぶべき《ヨセ》なる人間類型が出ました。
 単純に言えば ヨリ・アニミスムを備えたイリ歴史知性は その信仰において 神との共生をふつうの社会的な(村の)人生としており 実際に或る種の儀式として 神との共食を持ちます。つまり 食物の収穫に感謝し供え物をして 共に味わうわけです。つまり《まつり(奉り・祀り・祭り)》です。
 ヨセは このマツリを 一段高いところから(ふつうのイリ歴史知性を超えたところの精神において) 《まつりごと》として制度化したというものです。マツリゴトとは 個人の信仰を束ねる宗教であり政治です。
 古事記には こうあります。

   その(仲哀タラシナカツヒコ天皇の)大后 オキナガタラシヒメのミ
  コトは 当時(そのかみ) 神を帰(よ)せたまひき。
  
 四百年ごろのことだと推測されますが 具体的には九州のクマソもしくは半島の新羅を討つというくだりで出て来ます。
 これは あたかも その昔のシャーマンを思い起こさせます。そして 違いは すでに人びとは一般に イリ歴史知性なる有限な存在としての自覚を持ったあとだということです。かくて ヨリ・シャーマニスム+イリ歴史知性で ヨセなるスーパー歴史知性の誕生というわけです。鬼っ子かも知れません。

 つまりは その昔のシャーマ二ストは まだ 人びと(アニミストの)と同じ地平に立っていたところがありますが このヨセなる超歴史知性は この同じ水平を嫌ったようです。
 嫌ったので 強引に社会のいわば第二階に みづから上がって行ったのか それとも人びとが その新型シャーマンに辟易してこれを敬遠し 人びとの合意で これを社会の神棚に据えてまつろうということにしたか いづれとも推し測られます。(《国譲り》説は 後者です。社会が 二階建てになりました。アマアガリが完成しました)。
 要するに ここに 神の代理が 出現しました。見えない神との共食(供え物をしてのまつり)が 見える神との共食(貢税を伴なうまつりごと)になったという話です。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ このようにして 《世界内属存在》は――《イリ歴史知性》として―― 《世界の内への超越》を宿しており どんな社会制度が現われても つまりは歴史知性の類型としてどんな人間が来ても 認識しうると言っていいと考えます。それをどうするかは 万機公論に決すべしとでも ここでは言っておきましょうか。
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この回答へのお礼

どうもありがとうございました。

たいへん参考になりました。

お礼日時:2009/09/19 11:03

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