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私は信じていることこそが真実なのだと思っています。乱暴な言い方ですが。
例えば、すでに死んでしまった犬がいて、犬は私が好きだったと信じていれば私が死ぬまでそれは真実なような気がするのです。例え誰かにそうじゃないとか、犬が私の手を噛む写真や動画を見せられたとかしても、私が信じ続けてさえいれば犬は私が好きだったということは真実だと思うのです。
でも、一方で、東京に向かうと思って乗った電車が山形に向かっていれば、いくら私が信じていても、山形に着いた時にそれは真実じゃなくなってしまいます。
物事には信じることができる真実と、それ以外があらということなんでしょうか。
そしたら、それを見分ける方法はありますか。
今信じているものが、実は信じることができないもので、電車が山形に着くように、いつか真実じゃなくなってしまうことが不安です。
それとも、本当どんな物事にも「本当」があって、それがわかるまでの時間が短いか長いかで、犬のエピソードのようなものは長く人間の一生では見分けられないだけなのでしょうか。

A 回答 (7件)

《信じる》とは 《ナゾなる何かを 無条件に無根拠で心に受け容れること》


です。

この場合 ナゾとは 《それを知り得るか知り得ないかが知り得ない何か》で
す。これを 《非知》と言います。



ただし たとえば人は永遠に生きられるものではないのに 永遠の愛と言った
りしますが それと同じように 《非知なるナゾ》ではない場合にも 言葉の
派生的な用法として 《信じる》と使ったりします。




あなたを信じていたのに・・・といったセリフが その用例です。《信頼して
もよいと 堅く思っていた》というような意味で使っています。

信頼する・信用する・確信するといった意味の《信じる》は 主観真実のこと
です。みづからの――人間としての――思いのことです。




基本の意味をになう《信じる》を使うのは 相対的な《真実》ではなく 《真
理》という概念についてです。


もっとも やはり派生的用法で 絶対性なる真理のことを 《真実》という言
葉で自由に表わしたりしますし 相対的な真実のことを 《真理》と言ったり
することも 自由におこなわれています。


哲学は そのあたりのことを交通整理します。






《現実》というのは ふつうは 相対的な真実とそれを偽る虚偽とが 出回る
人間社会のことを言っています。

真理は 現実を超えているということになります。

《相対的な正負の真実のいとなまれる現実を 超えていると分かったその真理》
は その《分かった》ぶんでは わたしの主観真実であり 現実であるのでは
ないか?

さあ 果たして どうなりますか。
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この回答へのお礼

言葉を整理するとすごいわかった気持ちです。

私の中ではそれは現実です。私は私の人生しか生きられないので、つまり、それは、現実です。でも、相対的な「真実」とも「それを偽る虚偽」とも違う「現実」だということをわかってないとですね。

なんか、すごくスッキリしたのに、難しくて頭が爆発しそうです。
ありがとうございました。

お礼日時:2019/07/26 22:38

アリストテレス以来、真実は基本的に三つの要件を満たさねばならないと考えられてきました。



1. 正当化された(Justified)
2. 真なる(True)
3. 信念(Belief)

英語の頭文字をとってJTBと呼ばれます。

一番の正当化されたというのは、その時点の科学技術で説明がつく事、のような意味です。死んだ犬が生き返ったなどという事は、いくら信じていても正当化できないので真実とは見なしません。

逆に、ブラックホールの中の圧力が何万パスカルだ云々とか言っても、聞いてる人が信じなければそれはその人にとっての真実では無いと考えるわけです。


別の観点では、社会的真実と客観的真実という区別した人がいて(デュルケム、Durkheim)、従軍慰安婦問題など、客観て事実ではなくとも、ある社会では社会的事実として社会を動かすこともあると考えます。
日本における社会的事実と韓国における社会的事実が異なるわけですから、いつまでたっても並行線で、日韓は同意できないという社会学的結論が導き出されるわけです。

ご参考になれば。
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この回答へのお礼

実は私この質問をする時、あなたのように哲学者の名前を挙げてくれる人を待っていました。
哲学を勉強したかったので。ありがとうございます。

お礼日時:2019/07/26 21:53

飼っていた犬がわたしを好きだったことと、東京に向かうと思って乗った電車が山形に向かっていること。

この二つを比較するのは確かに乱暴ですよね。

でも、後者は単なる勘違いで、急いでいたのか思い込みか、行き先の違う電車に乗ってしまったということで、単純なミスということになります。これに比べて前者は、犬とわたしが共有した時間があり、犬とわたしが共有した空間があり関係性があった。

でも、これはあなたが言いたいことではなく
>今信じているものが、実は信じることができないもので
>いつか真実じゃなくなってしまうことが不安です。
そうですね。信じることには結構なエネルギーが要ります。客観的ではなく個別的なもの。そして、時には世の流れに逆らわざるを得なくなることもある。信じることには大きな賭けが伴うかもしれませんね。いつか真実じゃなくなってしまう、このことの中には、やはり物事は変化する、自分の考え方も変わるかもしれない、という不安もあります。でも、私は信じるという過程において、得られるものがあると思います。愛することも忍耐することも、待ち望むことも、信じていく過程において学んでいくものです。pricelessですよ。

現実は真実とかけ離れていることが多いです。
でも、信じる気持ちは大切にしてほしい。
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この回答へのお礼

たしかに仰る通りです。
私は山形行きの電車に東京行きと思い込んで、乗ってしまったんです。信じてたけど、それは、数分のことです。なるほど。なるほどです。
でも、犬が私を好きだと思っていることは、数分じゃないです。なるほど。

あなたの回答を見て、私が本当に不安なのは、信じていたことを、何かのきっかけで信じれなくなる時、そこにあったことが全てが真実じゃなくなることが不安なのかと思いました。でも、複雑な真実を、真実か真実じゃないかで決めることが乱暴なのかもしれないです。
元気湧きました。ありがとうございます。

お礼日時:2019/07/26 21:44

> 誰かに会う約束をしていた場合、2人が会えなければ、これは、どうしたって、真実が終わってしまう気がします。



これは難しい命題ですが、「会う」というのは「会う前」があって「会う」という
結果が発生するので、「会えなかった」というのは「会う」を否定する真実ではなく
単に「会う前」が続いているだけなのかもしれません。
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この回答へのお礼

なるほど…。あなたの回答はいつもすごく納得してしまいます。ありがとうございます。
会う前が続いてるというのは超納得なのですが、後出しでさらに恐縮なんですが、2019/7/18の19:00に会うと決めていたら…お互いが時間を信じていたとして、それは、真実じゃなくなってしまいませんか?

私なりに、何か1つのことを信じていたら、重なり合う事柄でさらに別のことを信じた時、その2つが対立すればどちらかの真実は終わってしまうのではないかと気がつきました。時間も地理も信じず、2人が会う前だということだけを信じていれば、会う前が続いてるから真実は終わらないんですね。

お礼日時:2019/07/26 21:21

先ず『真実』という事と『現実』という事の捉え方が違うような気がします。



『信じる事』=『真実』ではありません。

『真実』というのは、ある事象(現実)に対してその背景にある真の物事を言います。
事象(現実)というものが平面的なものだとして、その奥底に展開される本当の事を
『真実』と言います。
また、この真実の先には、必ずや『真理』が存在します。

森羅万象尽く、この『真理』を見抜いて行く事こそが、物事を判断するためには
不可欠な事だと思います。

次に、、、
>それを見分ける方法はありますか。

全ての物事には『十界』が存在します。

それは、あなたの生命(命)の中にも存在します。

その『十界』の状態を注意深く見ていく事です。

※参考

【十界】

・地獄界・・・苦しみの境涯
・餓鬼界・・・欲深い境涯、どのような状況でも常に満たされない状態。
・畜生界・・・本能のおもむくままに生きる境涯。⇒以上、三悪道
・修羅界・・・憎しみが強く、争いを好む境涯。⇒以上、四悪種
・人 界・・・一般的な『人間』の境涯。
・天 界・・・喜びの境涯。⇒以上、六道。六道輪廻の六道です。
・声聞界・・・悟りを求める、求道の境涯。
・縁楽界・・・自然現象などから、物事の真理を悟る境涯。⇒声聞、縁楽二つの境涯を併せて『二乗』といいます。
・菩薩界・・・悟りの道を開いて、人々を救おうとする境涯。
・仏 界・・・究極の真理を悟った覚者の境涯。

この十種の境涯が、一つも欠けることなく人(衆生)の生命に具わっている事を『十界互倶』と言います。
そして、何かの縁に触れる事によって、瞬間瞬間にその境涯が変化していくのです。
その生命の奥底にある十種の境涯が、意識や言葉、表情や態度や動作にそのまま表れてくるのです。
そしてそうした事が関係して、自身の生活環境や地域社会を形成しているのです。
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この回答へのお礼

あなたの真実の世界は、とても理論整然としてるんですね。
すごいです。
私の真実の世界にも、そういう理論整然なところはあったほうがいい気がします。教えて頂きありがとうございます。

お礼日時:2019/07/26 21:08

> いくら私が信じていても、山形に着いた時にそれは真実じゃなくなってしまいます



山形についた時点で信じるのをやめたから真実ではなくなっただけ

東京ディズニーランドを東京だと信じていれば
田舎の人がTDLに行って「東京行ってきた」といえば
自分も周りもみんな東京に行ってきたという真実しか残りません。
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この回答へのお礼

なるほどです。
私が東京を東京と信じているから、山形に着いた時に信じることをやめてしまうのですね。
また違う例えを出してしまって恐縮なのですが、地理を信じていなくても、誰かに会う約束をしていた場合、2人が会えなければ、これは、どうしたって、真実が終わってしまう気がします。

お礼日時:2019/07/26 21:01

真実は一つじゃないだけです



世の中には「事実」があり、その「事実」に対して各自が「真実」を見るのです
例で言えば、犬があなたに懐いていたのは「事実」ですが、犬があなたを好きだったというのは、あなたの「真実」です
他の人から見れば、餌をくれるから懐いていたという「真実」を見出す人もいるでしょう
電車で言えば、山形に向かっているという「事実」があったとしても、あなたにとっての「真実」は東京行きなのです
まぁ電車の行き先は、簡単に証明できるのでちょっとアレですけど・・・

と、私個人は解釈してますけどね
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この回答へのお礼

真実は1つじゃないって、私も思います。犬が私を嫌いだったと思う人がいれば、それもその人の真実なんだと思います。

お礼日時:2019/07/26 20:48

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