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かなしみは明るさゆゑにきたりけり一本の樹の翳らひにけり

という、前登志夫の歌があります。この歌の中には、一本の木が存在します。そしてそれを包む明るさがあります。「かなしみ」「翳らひ」はここでは、必要のない言葉なんじゃないか、という考え方も然りです。しかし、次のような解釈も可能です。かなしみというものは、明るさで代弁されるような、つまり何の障害もなく、すべてを見渡して何の汚点も憂いもない、万人がそれを信じて疑わない状況、そうした中にあって、ふと気がついた時に「かなしみ」「翳り」となって心に去来する。誤謬というものが何もないクリアな状況。それは間違いなく正しいことなのか。それをこの歌は提起していると思います。
歌人の永田和宏は次のようにこの歌を読んでいます。
明るい光の中に、一本の木が立っている。少し小高い丘の上にでも立っている木を想像してもいいだろう。光の中で、その木の幹は一瞬黒く翳って見えたのかもしれない。そのとき、にわかに木の存在感だけが現実の景から抜け出したように、なまなまとした実感として感じられた。木がただそこに立っている。孤り立つという寂しさ。明るさの中に黒い翳を孕んで存在しなければならないかなしみ。人間の、そしてもの皆の<存在する>ということそのもののさびしさ、かなしさを詠ったものがこの一首である、と。

この「一本の木」と「一匹狼」に、私は共通したあり方を感じますが、皆様はどのように思われますか。抽象的で申し訳ないですが、ご意見をお願いします。

A 回答 (11件中11~11件)

木に能動的な意思がないから、一緒くたにするのはちょっとね。


ただその情景に人間の心を映して叙情的に考えるのは良いと思います。
たいてい1本の木に思いを馳せるのはその場所でおきた事件を
ランドマークとして印象に残しているケースが多いので、
それが2本でも3本でも変わらないとおもう。
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この回答へのお礼

ありがとう

木は必ずしも能動的でないとは言えません。
自らすすんで他に働きかけるという意味では
木は周囲の木々や動植物と様々なコンタクトをとっている。
たとえば、ブナは成長するにつれて根から毒を出し
周囲のブナの成長を止めます。
カツラは冷たく清らかな水の流れを好み、
清流をふさぐように立つカツラから
こんこんと水が湧き出る様子は
まるで、カツラが水源になっているかのような
能動性を感じます。
地球上を自由自在に闊歩していた恐竜が
絶滅したのも、常食していた植物(木)が
含有成分を変えたという伏線があったから。

木は人間よりも寿命が長く
同じ場所で生き続けるため
活動的な人間から見ると、変化は見えにくい。
人間は動きすぎて、自分の変化にも
鈍感になっているかもしれない、と
木を見ていて感じます。

うん。私が言いたいことは
木は見かけによらず、能動的だということなんです。
人間の心を映して叙情的に考えるのもアリです。
でも、木も直接、人間とのコミュニケーションとれないだけで
明るくなったり、翳ったり、そよいだり、ギシギシ鳴ったり
木漏れ日を落としたり。
静かに呼吸しながら人間にも語りかけているように思います。

お礼日時:2019/08/09 12:42

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