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もうすぐ敬老の日ですね。
どんなおじいちゃん、おばあちゃんでしたか?あれば思い出やエピソードを教えて下さい♪(´∀`*)

A 回答 (6件)

ふうりんこさん、


祖母に思い入れがあります。いつか写真をお見せした母の母です。
母を幼いころに亡くしましたので、おばあちゃんに可愛がられました。
夏休みや冬休みには、居心地のよくなかった生家から逃れるように祖母の家に連泊したこともあって、祖母の家が故里のようなものです。
その祖母も1991年に83歳で亡くなりましたが、今でもたまに夢に出てきます。祖母と祖母の家が恋しくてたまりません。
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この回答へのお礼

乙さん、回答ありがとうございます(^^♪
見つけてくれて、嬉しいです。乙さんは、幼い頃 お母様を亡くされ、おばあちゃんに可愛がられて育ったんですね。おばあちゃん子だったんですね( *ˊᵕˋ)❅॰ॱ
以前 乙さんの「嫌がらせ弁当」の質問で、継母が作ってくれないこともあった、持たせてくれるだけで愛情を感じることが出来た筈なのにという、甘えきれなかった継母の思いがありますのお礼のコメントに、私も胸が締め付けられるような気持ちになりました(。>ㅿ<。)
甘えたくても、甘えられない寂しい思いしたんだろうなと…
そんな孫をおばちゃんは、分かってくれ、とても可愛がってくれていた事と思います。
おばちゃんが大好きだったんですね⸜(๑'ᵕ'๑)⸝*
私も、おばちゃん大好きでしたよ。
そんなお孫さんが、とても心の優しい、ユーモアのセンスもある立派な大人(?)になり、おばあちゃんも、きっと喜んでいると思います。
又、おばあちゃんとの楽しい夢でも見れるといいですね。
(*ˊ˘ˋ*)。♪:*°

お礼日時:2019/09/14 21:28

お礼ありがとうございます。



父方の祖母はよく太っていてあっけらかんとした
おばあちゃんでしたね。
子供の頃は一年に一度田舎から出てきて
一週間くらい我が家に滞在して
料理を作ったり縫物をしたりして過ごしていました。
祖母の作るエビの天ぷらはいつも殻が残っていましたね(笑
冬場は祖母が作ってくれた半纏を愛用してました。
一緒に寅さんの映画を観に行ったときは
大声で笑ってまわりのお客さんに恥ずかしかったと
母が言っていましたが
母は実の母親より姑の方が好きだったそうです。
祖父はお妾さんを作ってよそで暮らしていたりと
なかなか苦労したようです。
10年ほど寝たきりになって亡くなりました。
質問のおかげで
祖母の浅黒い大きな顔を久しぶりに思い出しました。
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この回答へのお礼

こやぎさん こんばんは⸜(๑'ᵕ'๑)⸝*
今度は、父方のおばあちゃんのお話ですね( *ˊᵕˋ)❅॰ॱ
おばあちゃんが、家に遊びに来ると、とても嬉しいですよね。٩(ˊᗜˋ*)و♪
私の母方の祖母は、伯父夫婦と住んでいましたが、年に数回程度、タクシーに乗り、遊びに来ました。
こやぎさんちと一緒で、来ると一週間くらい いましたよ。
ある日、学校から帰ると、おばあちゃんが、帰ってしまっていて、とてもガッカリした事がありました(ó﹏ò。)
ただ、おばあちゃんがいるだけで、とても楽しかったです。お母様が実の母親より、好きだったってことは、きっと、あっけらかんとした、楽しくて明るいおばあちゃんだったんでしょうね。
再回答、ありがとうございましたヽ(*´∀`)ノ゚:.。+゚

お礼日時:2019/09/12 00:26

鈴子さん、こんにちは



私は祖父とは縁が無かったよ、父方は父が12歳の時亡くなり、母方は私がお腹の中にいる時に…

父方の祖母は、私が3歳の時亡くなりました

唯一、母方の祖母が私が大人になるまで居てくれて 元々京都の人で祖母が生まれて母親が亡くなり施設へ

流れ着いたのが長崎の五島、そこで義父母に虐められ育ち、祖父と出逢い結婚

戦争から帰って来た祖母の父親が、サーカス団に入り祖母を捜し回り、祖母が二人目(10人子供産みました(笑))の子供を生んだ時に会えて、それからは良くしてもらったそうです

小説が出来るような人生だったと思います

祖母には姉がいて、その方は祖母の親に引き取られ蝶よ花よの生活したけど、子供に恵まれず、祖母に「貴女は子供という宝物たくさん良いね」と言ってたと

だから結構、厳しい祖母でしたね、しかし苦労した分、真の愛情がある人だったと思います

昔の人は逞しい!
見習わないとと思います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます(^^♪
私も、祖父とは縁がなかったですね。

おばあちゃんは、波乱万丈の人生だったんですね。
仰るように、小説が出来そうですね(*゚∀゚*)
でも、とても苦労されたとは思いますが、10人の子供と言う宝物があって、ある意味 姉より幸せだったのではないでしょうか?

苦労した分、厳しく、愛情のあるおばあちゃんだったんですね(*ˊ˘ˋ*)。♪:*°
昔の人は、苦労された方、多かったですね。

お礼日時:2019/09/11 15:04

母方の祖父は母が幼い頃に亡くなっていて


もちろん私は会ったことがないです。
中学の先生で、お茶とお花を若い娘さんたちに教えていて
お茶会かなにかで沢山の娘さんと一緒に写っている写真を
見たことがあります。
祖母は「乳母日傘」で育った人でしたが
祖父が亡くなってから人に騙されて大貧乏になり、
母は中学を出て働きました。
祖母は87くらいで所謂「ピンピンコロリ」で亡くなりました。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます(^^♪
おじいちゃんは、自慢出来るおじいちゃんだったようですね。おばあちゃんは「乳母日傘」で、大事に育てられたんですね( *ˊᵕˋ)❅॰ॱ
おじいちゃんが亡くなったあとは、人に騙され大貧乏となり、おばあちゃんも、こやぎさんのお母様も苦労された事と思います。
私も「ピンピンコロリ」で逝くのが理想です(*ˊ˘ˋ*)。♪:*°

お礼日時:2019/09/11 13:59

初めて病気で入院したのは99才の秋。


100才と半年で逝きました。
看護師さんたちにモテモテの爺ちゃんでした。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
初めて入院したのが99才ですか?
健康なおじいちゃんだったんですね。
100才と半年、長生きでしたね。天寿を全うされた事でしょうね。

お礼日時:2019/09/10 22:49

大して世の中の役にも立てずに生きてきたため、最後くらいは人に役立ち人の人生も蚊得られるかも知れないと、40歳代の頃に「献体」に登録しており、死後は直ちに大学病院へ。


お骨になって帰ってきたのは2年後でした。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
おじいちゃんでしょうか?
最後くらいは、何かしらお役に立てればという思いだったのでしょうね。
最近は、献体を希望する人も年々、増えてるそうですね。
医学に貢献出来たと思いますよ。

お礼日時:2019/09/10 22:34

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