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下記の続きです。
「~やすい」について伺いたいです。その2

1)仕事がやりやすい広い机
2)仕事をやりやすい広い机
3)仕事のやりやすい広い机 

1)〜3)の違いはなんなのでしょう。/

という質問ですが、質問者は【助詞の互換性 複数の助詞が使える場合〈3〉】と自身の考えを提示している通り、格助詞「が」「を」「の」の互換性の問題と捉え、回答者も同様の発想から回答をされています。

また、これを互換性の問題と捉える典型的な次の解説が紹介されています。

鈴木 基伸「日本語難易文における格の選択と意味 」
https://otemae.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view …

これらは、現在の言語実体観というソシュールパラダイム下の発想に呪縛された解釈に過ぎず、言語本質に即した科学的な回答ではありません。

このような問題提起、回答をいくら繰り返しても何ら問題の解決にはならず、質問者が類似の質問、ピント外れな回答をゴミ屋敷のように貯め込み、弄んでブログを展開している事実がこれを明かしています。
https://ameblo.jp/kuroracco/

では、この問題はどのように捉えられ、解明されるべきでしょうか。
これを明らかにし、諸賢の見解を伺えればと考え問題提起させていただきます。

言語は話者の認識の表現であり、言語規範を媒介とした話者の個別認識の表現です。
ここに提示された文の相違は話者の認識の相違に基づく、その表現の相違によるものであり、話者の認識の相違が明かにされなければならず、単なる格助詞の形式の相違ではありません。これでは、表現結果を現象的に解釈した形式の比較に過ぎません。

文が話者とは無関係に実在するという生成文法的な発想から、文脈とは無関係に、この形式をもとにコーパスを検索し、そこから得られた文の意味の比較から何かを導き出そうとしたのが上記の鈴木論文で、単に形式の比較から何かが得られるだろうというのは学問的態度ではありません。

時枝誠記は、

ただ現象的なものの追求からは文法学は生まれて来ない。
(時枝誠記『日本文法・口語篇』)

正しい方法を持たないのに、「事実を山ほど集めて、そこから素晴らしい結論が出るだろうなんて期待するのは、学問の邪道」
(時枝誠記『国語学への道』)

と警告を発していますが、これが全く無視されているのが現状です。

さて、問題の文ですが、

1)仕事がやりやすい広い机
2)仕事をやりやすい広い机
3)仕事のやりやすい広い机 

これらは名詞句で、「広い机」の具体的、立体的な在り方が条件として示されています。

それぞれ「仕事のやり易さ」を述べていますが、その捉え方が異なっています。

2)は、「仕事≪を≫」と動詞「やる」の目的として仕事を捉えています。「仕事をやる」という他動の目的としての現実の自然な過程的構造を表現しています。

3)では、「仕事≪の≫」と、「やりやすい広い机」との単なる関係認識が表現されています。

これに対し、1)では「仕事が」と格助詞「が」により「仕事」という実体と「やりやすい」という属性の関係を「花が咲く」「空が青い」などと同様に直接的に実体と属性の関係として捉え表現しています。

実際には、仕事がやりやすいか否かは、机の広さや手段、方法等の種々の条件を媒介とした過程的構造の結果であり、単なる実体と属性の関係ではありません。しかし、この過程を短絡し実体と属性の統一である直接的同一性として捉え「が」と表現したのが「仕事がやりやすい」という表現です。

これは、現実の過程的構造を短絡した表現で、格助詞「が」の短絡的使用と呼ぶべきものです。

時枝誠記は、「水が飲みたい。」の水を「水を飲みたい。」に対し、<対象語>と名付け、この「が」との関係を対象語格と呼んでいます。しかし、この<対象語>という名称は、話者による対象の扱い方ではなく、その表現の客観的な論理構造を取り上げたもので、客観的な論理構造からいえば「が」ではなく「を」を使用し「水【を】飲みたい」と表現する場合でも、「水」はやはり<対象語>であることに変わりはありません。

問題は、「水」にではなく「が」にあるのであり、この場合にはやはり、【格助詞「が」の短絡的使用】と呼ばなければなりません。

こうした使用法は、

あいつ【が】なぐりたい。
頭【が】かゆい。
採点【が】あまい。

や、

砂糖【は】甘い。
映画【は】娯楽だ。
これ【は】素晴らしい。

と同じで、過程を短絡し、媒介関係にあるものを直接的なものと見做して多用しています。

このような短絡的表現は、論理的ではありませんが、日常生活では単純化された発想としてそれなりの有効性と単純故の直接的な訴求力があり活用されているわけです。

なお、「ミスが犯しやすい学生。」は「ミスを犯しやすい学生。」に対し、「犯す」の動作主体が実際には「学生」であるため、主体の判断が混乱し不適切な表現になります。

このように、「~しやすい」の「~」は他動の目的を表わすもので、この関係を話者がどのように捉えるかで格助詞が決まるもので、単なる形式的な互換性の問題ではなく、その認識過程を正しく捉えないと論理的な解明はできません。

語の連結により語の意義が連辞により意味に変化するというソシュールパラダイム化の発想ではこの認識過程を正しく理解することはできないという現在の言語論、文法論の限界をご理解いただけましたでしょうか。■

質問者からの補足コメント

A 回答 (3件)

「が」は古くは単なる連体格の助詞で、同じ「連体格」と並んで使われたが、(ただし、「が」と「の」には使い分けがある)室町時代に「天草本・平家物語」で、「が」が主格として使い始められた、と大野晋氏は述べています。

と同時にこの時代から「水が飲みたい」・「水を飲みたい」が平行して使われています。「を」が対格であり、上代から使用されているも知られています。「水が」が対象語であるも常識であると思われたのに、(しかも、時枝氏が「対象語」と判断したのに)「日本語文法」の研究者「金谷武洋氏が「が」は主格であると批判しました。そのとき以来「主格説」と「対象語説」を誰か解き明かしてくれないかと考えていました。
 アスナロウさんによって、『格助詞「が」の短絡的使用と呼ぶべきものです。』という回答を得て、一応納得しました。(それですんなり話が終わろうとは思いませんが)
 あいつ【が】なぐりたい。
 頭【が】かゆい。
 採点【が】あまい。
この具体例の内、「あいつ【が】なぐりたい。」は了解。しかし、「頭が」「採点が」は明らかに主格ではありませんか。どうでしょう。
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この回答へのお礼

早速の応答を有難うございます。

>>「頭が」「採点が」は明らかに主格ではありませんか。

「痛い」「かゆい」なども主観的な感覚であって、頭や足の属性ではなく、媒介的な感覚を短絡して属性扱いしたものと考えられます。

頭の中心部が痛む、足の上部の中心部に痒みを感じる、などが自然な表現で、お医者さんは頭が痛い、足が痒いと言われても治療できず、具体的な症状、因果関係を明らかにしなければ対応のしようがありません。

「採点が甘い」は確かに、採点という行為の属性が「甘い」、つまり「事を処理するのに考えや力が不十分である。」と言う意味で主格と考えられ不適切な例でした。

「砂糖は甘い」「塩は辛い」の方が短絡的な表現です。■

お礼日時:2019/10/22 16:20

ちょっとだけ時間ができたから、ちょっとだけ付き合ってあげよう。




> 1)仕事がやりやすい広い机
> 2)仕事をやりやすい広い机
> 3)仕事のやりやすい広い机 

> 1)では「仕事が」と格助詞「が」により「仕事」という実体と「やりやすい」という属性の関係を
> 「花が咲く」「空が青い」などと同様に直接的に実体と属性の関係として捉え表現しています。
> 2)は、「仕事≪を≫」と動詞「やる」の目的として仕事を捉えています。
> 「仕事をやる」という他動の目的としての現実の自然な過程的構造を表現しています。
> 3)では、「仕事≪の≫」と、「やりやすい広い机」との単なる関係認識が表現されています。


また「お念仏」かと思ったが、意外に常識的じゃないか。
つまりさ、あなたの嫌いな「ソシュールパラダイム化の発想」と同じってことさ。
悔しいかい?

どの言語理論でも同じようなことを言っているが、例えば生成文法なら、
[VP 仕事を [V やr ] ] -i やすい
[IP 仕事が [AP [V やr- ] -i やすい ] ]
[DP 仕事の [NP やりやすい 机 ] ]




> 「ミスが犯しやすい学生。」は「ミスを犯しやすい学生。」に対し、
> 「犯す」の動作主体が実際には「学生」であるため、
> 主体の判断が混乱し不適切な表現になります。

そんな理由で表現が不可能になるなら、どうして
・太郎が好きな花子
・猫が嫌いなネズミ
のように、どっちだどっちを好いているのか/嫌っているのか、分からない文はどうして可能なの?




> 語の連結により語の意義が連辞により意味に変化する

実のところ、あなたも同じことをしている。
パラダイムの中から、話者の意図に合った表現を選び、シンタグムに並べていくというのが、ソシュールの範列と統辞の概念さ。


大体さ、ソシュールの講義を弟子が自分のこの見合うように編集した物を、小林英夫が訳した物を、時枝誠記が批判したもので語ろうとするから、おかしな事になる。
どうせ日本語でしか読んでないんだろ?
知的怠慢というのかな。
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この回答へのお礼

>>ちょっとだけ付き合ってあげよう。

お忙しい中、稚拙な拙論にお付き合いいただき恐縮です。
しかし、この断片的な回答にも言語実体観というソシュールパラダイム下の発想の限界が露呈しており興味をそそられました。

>>あなたの嫌いな「ソシュールパラダイム化の発想」と同じってことさ。
悔しいかい?

いえいえ。
対象→認識→表現という過程的構造を捉えられない欠陥を理解できないという事実を露呈されており、頭隠して尻隠さずと云う実態が露わですね。提示された図式は、認識の構造ではなく、表現結果を対象と関係付ける解釈の絵ずら(図式/ダイアグラム)で、因果が逆転しています。これを同じ発想としか捉えられないのが言語実体観というソシュールパラダイム下の発想です。

>>どっちだどっちを好いているのか/嫌っているのか、分からない文はどうして可能なの?

良い質問です。
表現とその解釈をごたまぜにし、同一平面で論ずるしかないのが、意義と意味の相違と関連を捉えられないソシュールパラダイム下の発想の限界です。

言語は話者の認識の表現で、その解釈は規範を媒介とした聞き手による追体験に基づきます。超感性的な話者の認識は規範を媒介とした調和する矛盾としての間接的な表現です。解釈には多義性があり、一義的な解釈を夢想するのは媒介の構造を捉えらえない形而上的なカント哲学に依拠するソシュールパラダイム下の発想の限界です。

>>パラダイムの中から、話者の意図に合った表現を選び、シンタグムに並べていくというのが、ソシュールの範列と統辞の概念さ。

おっしゃる通りで、実体としての語をシンタグムに並べるというソシュールの範列と統辞の概念という結果論、因果を逆転した発想の誤りで、話者の概念認識の規範を媒介とした表現という言語表現の立体的、過程的構造を捉えらえないのがソシュール言語論の根本的な欠陥です。

>>ソシュールの講義を弟子が自分のこの見合うように編集した物を、小林英夫が訳した物を、時枝誠記が批判したもので語ろうとするから、おかしな事になる。
どうせ日本語でしか読んでないんだろ?

いえいえ。
正しい翻訳に依拠すれば何の問題もありません。正解な翻訳を提供できないことこそ知的怠慢そのものです。
松澤和宏らが自筆草稿などを翻訳、解釈していますが所詮その依拠する哲学的立場の限界を超えることはできません。■

お礼日時:2019/10/23 11:16

いろいろとお考えのようで、楽しまれているようで、結構なことだと思います。

でも、あなたの視点で大きく欠けていることは、文法全体をどう捉えるか、そして、その中にある個々の文法規則がお互いにどう働きあうか、を展望していないことです。

文法を書く、ということは、いかに少ない文法規則で、いかに多くの言語現象を合理的に説明できるか、ということです。そのためには、まずは、用語の意味を確立しなくてはなりません。

あなたが「可能」という時、それは「難易」も含めて言っているのでしょうか、別なのでしょうか。そういうことは、あなたの質問複数から見えてこないんですね。というか、ご自身ではっきり概念化していないのではないか、ということです。

1) 仕事がやりやすい広い机
2) 仕事をやりやすい広い机
3) 仕事のやりやすい広い机

を比べて、あなたは何をなしとげたいんでしょうか。あなたの長い「記述」から見ると、それは、大昔の記述文法と変わらなく見えます。一般的には、概念を導入すればするほど、記述が複雑になります。そして、その概念が意味で支えられていればいるほど、その概念によって記述される文法は意味を失っていきます。昔の「動詞は動作を表すものである」という、あれですね。あ、そ、じゃあ「動作も動詞ね」という。

以上の3例の構造は、
「仕事◯やりやすい+広い机」
でよろしいですか。

1) 仕事がやりやすい
なら、「仕事が」+「やりやすい」でしょうか。

2) 仕事をやりやすい
なら、「人が仕事をやり」+「やすい」でしょうか。

3) 仕事のやりやすい
なら、その「の」は、後に「広い机」があるために
他の助詞の代わりに使われている、でしょうか。
(ここでは、歴史的にどちらが先かは、論じていない。)

こういう分析は、主格だの、体格だの、持ち出す以前の観察でわかる分析です。文法家が観察をせずにどうします。あなたが言葉を尽くせば尽くすほど、分析からは遠ざかっているのです。繰り返しますね、いかに少ない文法規則でいかに多くの言語現象を説明することができるか、が文法の価値を決めます。

それから、ここでは「は」は持ち出さないようがよろしいです。
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この回答へのお礼

早速の応答を有難うございます。

文法とは何かの考え方が異なるようです。

>>文法を書く、ということは、いかに少ない文法規則で、いかに多くの言語現象を合理的に説明できるか、ということです。

これは、単なる効率を問題にしたプラグマティック(pragmatic)な発想でしかなく、対象の本質を明らかにする論理的、科学的なな学問としての資格を持ち得ないと考えます。

私見では、文法とは概念表現のための規範であり、動詞とは時間的に変化する属性を概念化した語です。

単なる対象の観察は現象論の段階でしかなく、実体論、本質論へと認識を深化させないかぎり科学的な進歩、発展はありえないのが人類の歴史が明かしているところです。■

お礼日時:2019/10/24 10:49

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