「これはヤバかったな」という遅刻エピソード

0. 神は 人間がいかなる座標を設定して捉えようとしても 必ずその座標
や場を超えている。ゆえに 想定しているというかたちを哲学は採らざるを得
ない。

0-1. 想定(アブダクション)に際して シューニャター(空)として規
定することはできる。⇒7‐B。



1. 特殊絶対性とは 《われ 神を見たり》と言い張る主観を 傍から否定
も肯定も成し得ないというとき その神観としての主観を言っている。

1-1. 独り善がりであっても 特殊に絶対性だと見なすことになる。これ
は・そしてこれが 信教・良心の自由に見合っている。

2. 言いかえると 《われ 神の声を聞けり》と言う主観は 主観の外へ出
かけるなら意味を成さない。意味を成すとすれば 神を人間の認識しうる概念
としてのみ扱った場合に限る。

2-1. 概念のみの言葉をもって主観の外に出かけたならば――すでに そ
の言葉≒《経験事象に基本として対応する概念》にもとづくことになるからに
は―― 思考や想像の産物としての《観念の神》でしかない。

2-2. それは 或る種の信念を形成するかも知れないが 《神》としては 
実質的な意味を成さない。成すかどうかが どこまで行っても 人間には決め
られないのである。⇒(#0)

3. ゆえに 宗教は それがもし神を他人に向けておのが心に受け容れなさ
い(つまり 信じなさい)と説くのならば ただの譫言である。主観の外に出
かけているから。

3-1. 特殊絶対性は 外出無用である。つまり 神なる概念の弄びになら
ざるを得ない。

3-2. 組織宗教に 存在理由は無い。主観のおままごとは せいぜい一個
人の内面にとどめなさい。





4. 《絶対》とは 経験事象としてのものごとが有るか無いかの問いを超え 
ており 因果関係からまったく自由である場ないしチカラである。《非経験の
場》とよび そう想定する。

5. 非経験の場は 認識のあり方として 《非知》である。

  経験事象(相対世界でありこれは経験合理性にて認識する)

    可知(認識しうるものごと)

      既知(間違いだったと分かることもあるが 知ったとする)
      未知(いづれ既知になるであろうと推察されている)

    不可知(未知のうち知り得ないと証明し得たものごと。証明を間
      違い得る)

  非経験の場(絶対性)

    非知(知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ)


6. 非知なる非経験の場 これを――《神 またはその一定の名》において
――無条件でわが心に受け容れたとき・つまり 信じたとき わが心には
《非思考の庭》が成る。

6-1. ヒトたる生物の身と心とから成る自然本性に ぷらす α としてや
どる何ものかの自覚が起きる。生きている間のその自覚の動態が 《庭》だ。

【 +α : 霊我】:信じる:非思考の庭:クレド:(*ヒラメキ・**良心)
---------------------------------

【心:精神】:考える:思考の緑野:コギト (*直観) 
【身:身体】:感じる:感性の原野:センスス・コムニス(**ヤマシサ反応・恥ぢ)


7. 非思考の庭は 受け容れる器(ミクロコスモス)とその対象(マクロ
コスモス)との一体性として示される。類型として《梵我一如》とよぶとよ
い。または 《霊霊一如》である。

  A. ブラフマニズム:梵我一如
   梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神
   我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我

  B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)
   無梵:空(シューニャター)・ゼロ
   無我:アン‐アートマン;ニルワーナ

  C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)
   仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)
      / マハーワイローチャナ・タターガタ(大日如来)
   仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)

  D. クリスチアニズム:霊霊一如
   霊:神・聖霊
   霊:《神の宮なるわれ》

  E. (プラトン?):霊霊一如
   霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)
   霊:《われ》

  F. 《もののあはれを知る》:霊霊一如
   霊:かみ(超自然およびその依り代としての自然)
   霊:われ(自然本性 +α )

  G. ユダヤイズム:霊霊一如
   霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)
   霊:われ

  H. イスラーム:霊霊一如
   霊:アッラーフ(イラーハ=神)
   霊:われ

  I. タオイズム:道人一如
   道:かみ
   人:われ

8. したがって これら前項の霊なる神はそれぞれ人間が 非経験の場・
ないし非知なる神を それぞれの言語で名づけたものである。

8-1. 非知なる神は 不可変性において《普遍神》である。

8-2. また それら有神論に対して《無い神》としての無神論も 普遍
神についての・互いにまったく差の見出せない同等の説明である。(神は人
知を超え 経験世界の有る無しを超えている)。

9. これが 《一般絶対性》である。






10. 《個別絶対性》とは 人間一般ではなく 特定のひとりの人の信仰す
なわち 《普遍神と個別なるわれとの関係》をめぐって 一般絶対性をさらに
説明する視点である。

11. というのは 普遍神を具体的によぶ名前がひとによって異なっている
だけではなく 個人ごとの信仰が――対象(非対象)である神は 普遍神ひと
つであると想定されるにもかかわらず―― 互いに同じであるか どう同じで
あるかが 人間には分からないからである。

11-1. それは いわゆる証明抜きの公理として持たれる信教・良心の自
由という内容につながっている。

12. 目に見える現象としては互いに異なるところがあると言わねばならな
いはずだが その信仰は 個人ごとの個別絶対性として捉えられる。つまり 
一般絶対性のもとに そのように具体性を帯びた姿を採っている。

12-1. 個人ごとの個別絶対性として 一般絶対性ないし普遍神は とう
とばれるのだ。つまり――循環論法ながら―― 神とわれとのカカハリとして
は 信教・良心の自由のもとにある。ここから あらゆる自己表現の自由が出
る。


13. 個別絶対性は 神が普遍神であること および その神とわれとのカ
カハリとしての信仰が霊霊一如なる普遍的な類型において成ること――つまり
は 一般絶対性理論――からみちびかれる。



14. 個別絶対性は さらに具体的な個人にあって《普遍神とわれとの関係》
が――生身の人間においてであるゆえ――多様性を持つと見られる。このとき 
神の名の違いだけではなく その《関係のさらに具体的なあり方》が おのお
の主観の内にあっては 《特殊絶対性》という側面を持つと捉えられる。

14-1. (12-1)に見たごとく 信教・良心の自由にもとづき その
信仰なる動態についてさらになお自己表現するときの《表現の自由》というこ
とになる。

14-2. 誰かが おれは現人神だと言ってもその表現までは だれも 否
定も肯定も出来ない。

14-3. 特殊絶対性はそれぞれ神観なる主観として――内面にて〔のみ〕
――持たれ得る。・・・〔ダ・カーポ〕。

        *

15. 信仰から得られたヒラメキないし観想を――その己れの神観としての
自己表現からさらに外に出て――倫理規範として整序し・また宇宙観や世界観
にまで展開したのが 宗教のオシヘである。

16. けれども ひとりの主観が内面においていだいた特殊絶対性としての
神観から飛び出して来たオシヘというのは すでに人間の言葉で考え表現した
《思想》である。

16-1. 神という言葉をまじえながらも 基本として経験思想なのである。
信じるではなく 考えるものと成ったことを意味する。

16-2. 一般に《オシヘ》は 普遍神という正解をみちびくためにと人間
が人間の言語を用いて引いた補助線である。どこまでも 指の先に指し示され
た正解にみちびかれるための補助線であり その《ゆび》である。

16-3. この《ゆび》を信じなさいと説くのが 宗教である。

16-4. 人びとも 仏《教》を信じるとか・キリスト《教》を信じないと
かという表現で捉えてしまって 平然としている。これは 哲学から見れば 
無意味である。世界各地で起きている長い歴史を持つ集団痴呆現象なり。



17. オシヘは 相対的な経験思想であり 思考の緑野の中に完全におさま
る。飽くまで 《考える》ものである。《信じる》とは げんみつに言って何
の関係もない。痴呆――思考停止――とよぶ所以である。


18. 重ねて言おう。神とわれとのタテの関係である神観としての主観(つ
まり 特殊絶対性)を われわれなるヨコの人間関係の世界に持って来てその
倫理(つまり 善し悪しを意識した人間関係)や宇宙観として 自己増殖させ
たものが シュウキョウである。

18-1. 主観の外に出るとは 神とのタテの関係を 人間どうしのヨコの
関係に移して 寝かすことである。

18-2. シュウキョウは 寝技である。これは 神論(一般および個別絶
対性理論)としてアウトである。

18-3. このようなシュウキョウは 絶対性を知らない者の道楽かまたは
ただの商売である。 



☆ いかに?

質問者からの補足コメント

  • №2お礼欄つづき



    ちなみに 人間の心は 他人の言動によって傷つくというようなことはい
    っさいありません。

    自分が自分の心にやましいところをかかえているならそれによって――人
    格否定の言動を受けたことがきっかけになるにせよならないにせよ――傷
    つくのです。

    つまり 自業自得です。




    ★ 代替案のない否定は、日本の無能な野党のやることです
    ☆ ええこと言いますね。グレタ氏は どうなりますか?

    No.2の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2020/01/23 14:23

A 回答 (5件)

本当にそうですね。

トレーニングも神との再集合のうちですね。
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この回答へのお礼

永遠の現在なる理論は アウグスティヌスからの請け売りです。かれに
声をかけてやってください。



ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2020/01/23 17:33

魂が永遠ならば、疫病経験も人の魂へのお試し、トレーニングではないですか。

我々は常に試され鍛えられ、最終的には神に再集合と、私は正直思ってます。すみません、非哲学的発言で。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


★ 魂が永遠ならば、疫病経験も人の魂へのお試し、トレーニングでは
ないですか。
☆ これは:
★ すみません、非哲学的発言で。
☆ とおっしゃていますが この仮説理論で言う《特殊絶対性》の問題
なんでしょうね。

特殊絶対性としての主観神観を他人に説き説くだけではなく信じなさい
と迫るとすれば それは いただけません。

もっとも このような主観的な神観を 自由に気軽に話し合うのは――
表現の自由で――問題ないでしょうね。

結論は 出ないはずですが。



ということは 《お試し》説というのは おのれの信仰の動態をつよく
するために思うところなのかも知れません。



★ 我々は常に試され鍛えられ、最終的には神に再集合と、私は正直思
ってます。
☆ なるほど。

そうですね。いぢわるコメントの可能性としては――という腹黒いこと
を考えてみたのですが―― そうですね。

《神との再集合》というとき わたしなら すでに集合が いま・ここ
なる現在(実存)において成っている。と思うかも知れません。

永遠の現在 です。

お礼日時:2020/01/23 17:20

人間が神に座標を設定するのではなく、神が人間に座標を設定してるのでしょうね。

プロヴィデンスと言うものですよね。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。



★ 人間が神に座標を設定するのではなく、
☆ ただし たとえば造物主といった役割りをあたえていますよね。

それは:
★ 神が人間に座標を設定してるのでしょうね。
☆ というような受け身の立ち場で 言わば人間の条件をとらえる
ということになった状態で役割りをえがいているんでしょうかね。


★ プロヴィデンスと言うものですよね。
☆ と捉えることがあり得ましょうし たとえば疫病が猛威をふる
うといった事件になれば その摂理のことわり(理)は どうなっ
てるんだ? とも人間は考えます。




ナゾがいっぱいではないかと思ってしまいます。

お礼日時:2020/01/23 17:02

> 表現の自由



それはあなたの人格を否定してもよいということでしょうか?
宗教を信じるひとにとってアイデンティティになっている場合も多いでしょう
宗教を否定することはその方の人間性を否定することになりかねません。
いわば私があなたに「あなたの人間的な価値は皆無だ」というようなものです。
(もちろん、思ってないので言いません、あくまでも例です)

代替案のない否定は、日本の無能な野党のやることです
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


☆☆ > 表現の自由

★ それはあなたの人格を否定してもよいということでしょうか?
☆ どう考えますか?

表現の中身におうじて まちまちでしょう。でも 自己表現の自由は原則
として掲げられています。(信教・良心の自由にもとづくのでしょう)。




★ 宗教を信じるひとにとってアイデンティティになっている場合も多い
でしょう
☆ その場合は 《宗教を信じる》という表現そのものが―― 一たん自由
でありつつ―― 根本的に人間性を表わすにあたってあやまちである と
いう批判を展開しているのです。

宗教は 神をあつかっておりその神は 人知を超えており人為を超えてい
ますが 宗教のオシヘは 人間の言葉で表現された人為的なもの・経験思
想です。

人為ないし人知を あなたは《無条件で心に受け容れるのか? つまり信
じるのか?》 という問いかけです。



その人のアイデンティティのあり方がまちがっているのではないですか?
と語りかけています。




★ 宗教を否定することはその方の人間性を否定することになりかねませ
ん。
☆ 経験思想として《考えなければいけない》オシヘを 信じなさいと説
き また信じているというのは そのこと自体が――思考と信仰とを混同
してしまっているからには―― 人間性を否定しているのです。


いわゆる原理主義の思想・行動ですね。


宗教批判は 《人間性の否定〔としての宗教行為〕を否定して 人間性を
回復する総合の段階》です。そういう弁証法過程です。




★  いわば私があなたに「あなたの人間的な価値は皆無だ」というよう
なものです。
(もちろん、思ってないので言いません、あくまでも例です)
☆ アラシ投稿では 数えるにキリのないほど そういった《表現の自由》
がまかりとおっていますよ。

おまえはクズだ――病院へ行け――死ね といった三点セットが はなや
かでした。

何とか 落ち着かせてやりたいとは思うものの ままならぬようです。



つづく

お礼日時:2020/01/23 14:21

宗教を否定するのは簡単ですが、じゃああなたはどうやって


悩める子羊たちを救ってあげるのでしょうか?
できないなら黙っておいたほうがよいでしょう
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


★ 宗教を否定するのは簡単ですが、
☆ どう簡単でしょうか?

だいいち表現の自由があります。ちなみに 結社の自由も――自己表現の
一つのかたちになりますから 同じ事ですが―― あります。


問題は 人間の言葉で書かれたオシヘを――それは 考えるべき対象であ
るのに―― 無条件で受け容れなさい(つまり 信じなさい)と説くとこ
ろにあります。

神ではないものを――神として――信じなさいと 鉄面皮にて説くことが
人道に悖ることろです。



ですから 《宗教への絶対的批判》というのは 宗教という自己表現〔の
自由〕を否定するのではなく あくまでその中身が人間性を知らないあや
まちを侵していると指摘する・自由なあるべき対話です。





★ じゃああなたはどうやって 悩める子羊たちを救ってあげるのでしょ
うか?
☆ ① 神とは何か・したがって《神とわれとのカカハリ》としての信仰
とは どういう意志行為か? また 併せて宗教とは 信仰とどう違うの
か? これを明らかにしています。

② しかしながら 人間の活動というのは おのれの見解を述べることに
尽きており 《他人(ひと)をすくう》といった概念や目標を持つことは
ほんとうには ありません。


③ 馬を水飲み場まで連れて行くことは出来ますが 水を飲ませることは
できません。

④ この③も 自由意志の問題です。《悩める》状態にあるからと言って
何でもいいからと藁でもつかませればよいとはなりません。あやまった方
法でまちがった水を しかも飲みなさいと説く神経は どうしたものか。


⑤ 一人ひとりが おのが人生と生活を日から日へ うんうんと自分を推
して地道にまじめにふつうに自然に生きる。そして われも生きる なれ
も生きる かれも生きるという心がまえで生きればいいんです。




★ できないなら黙っておいたほうがよいでしょう
☆ グレタ・トゥンベリの逆転した変種になったんかいな。

お礼日時:2020/01/23 10:04

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