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質問です。

人は、時になぜ、最愛の家族や友人、親戚などに助けを求めず、実体の無い真偽も不明な神に救いを求めるのでしょうか?

A 回答 (16件中1~10件)

成長過程において、習慣的にそう教わってきたからに過ぎません。



教える方も教えられる方も、何が正しくて何が間違っているのかも知らないのです。
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実体の無い真偽も不明なものは神ではありません。

神こそが真であり、真であるがゆえに完全な実体です。
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存在の論理と同じようなものではないでしょうか。


存在が証明されているものなら正解と不正解があるけれど、存在が証明されないものなら何を言っても間違いではないという理屈です。
家族や友人、親戚に対して助けを求める場合、彼らの願いを叶える能力には限界があります。
たとえ彼らにできることをお願いしてもやってくれないかもしれませんし、内容によっては軽蔑されたりするかもしれません。
対して、神はその存在の有無が確かめられないだけに、何でも好き勝手にお願いし放題です。
神は全知全能だし、時には厳しくなることもあるけれど自分の願いをとにかく何でも聞いてくれる、という考えは少なくとも間違いではありません。
誰も「そうじゃない」と断言できないからです。

それから話すだけで楽になる、というのもあると思います。
キリスト教の懺悔室では神父が罪の告白をただ黙って聞き、最後に「悔い改めなさい、されば神は許してくれるでしょう。アーメン」みたいなことを言うそうです(正確には知りませんが)。
これは人に話すだけでも悩みは外に吐き出され頭の中も整理されるため、心理学的に効果があることらしいです。
誰にも言えない悩みや願いを抱いている人にはそっと「神様お願いします」というだけでも、心の捌け口となりうるのではないでしょうか。

神に対する祈りというのはそれ自体が逆説で、むしろ実体の無い真偽も不明なものだからこそ、神に救いを求めるのだと思います。
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人は、歩く時には前方を見る。


生きる時には、なぜ生きるか考える。
何のために生きているか、なぜ存在
しているか、人知の及ばない部分を
全知全能の神に第一原因を求め、死や
天災といった人力の及ばない部分を、
それでも何とかせんと神に祈って
気休めする。

また体制側は、それを利用して人々
の意識の自己中心性をして社会性の
タガにはめるために、アメ=お金と
ムチ=法規&モラル(宗教)を発達さ
せたのだ。
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「どんなことにも、そうであって、別様ではないことの、十分な理由がある」という原理に充足理由律と名づけたのはライプニッツですが、たいていの人はこの原理を無意識のうちに受け入れています。

そして、この原理を厳格に適用すると、どうしても「一番最初の理由」としての神が必要になるのです。
ですから、現実に信じられている神の概念に普遍性があるかどうかは別にして、神を信じるという行為には普遍性があります。現に世界中のどの民族にもそれぞれ固有の神話と神を持っています。

基本的に人間は『信じる』存在者であるということが言えると思います。科学が発達するまでは、一般にシャーマニズムが信じられていました。病気になった時、シャーマンに祈祷してもらうと現実に病気が治るということがあったからです。現在から見れば、それは単なるプラシーボ効果であるとか、単に自然治癒しただけといえるかもしれませんが、当時の人々からすれば信憑するに値する治療であったわけです。もちろん現在では、シャーマニズムより現代医学を信じている人々が圧倒的に多いでしょう。

しかし、シャーマニズムを信じることと現代医学を信じることは「信じる」という点においてはなんら変わらないのです。確かに現代医学の方がより広範で強固な信憑基盤を持っているということは言えます。学校で学ぶいろいろな知識や権威的な人々の言うこと、それらさまざまな情報が矛盾していないということから我々は現代の科学を信じているわけです。しかし、あくまで『信じている』ということを超えているわけではありません。シャーマニズムだって情報の少ない古代ではそれなりの信憑構造を備えていたのです。そういう観点から哲学者に言わせると、「科学も一つの信仰である」ということになります。

だとすると、「実体の無い真偽も不明な神」という言葉は、単に信仰の対象が変わっただけという言い方もできるような気がします。
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初回の回答の修正判です。



飼い犬が飼い主を信じきっているように、“飼い人”も飼い主(神)を信じているからです。
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神に救い求めているつもりは無いです



ただ、願っているだけです
交通安全、商売繁盛、或いは、今苦しい事からの開放

いや、願っているって「誰に?」
誰に「交通安全」を願っているの?
などと聞かれた場合、

その答えが「神」と言われる物にしか当てはまらない
だけの事なんです

神は沢山の数の願いを聞いてきたわけではなく
沢山の「誰に」の部分が無い願いに対して、
数学で言う不明な点は Xに当てはめて解く様に
神と言う言葉を当てはめて話を進めているだけの事です
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人間ではどうしようも無い場合もあります。


その時は、人間以上の存在に頼るしか
ないわけです。
不治の病とかです。

家族には不義理していて頼みづらい、といういこと
も、現実には少なくありません。
神様なら、多少不義理しても何とかしてくれる
かもしれません。

家族やに頼むとなると、連絡し、手土産の一つでも
持って出掛けることになります。
しかし、神様なら、そんな手間暇はいりません。
手軽に頼めます。
使い勝手が良いわけです。
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商売宗教にはまるのは、「弱みを見せたら負け」という


冷たい社会だからだと思います。
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★ 実体の無い真偽も不明な


☆ という無根拠性が 魅力的。あこがれる。ゆえ。
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