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八十年戦争、1568年から1648年(1609年から1621年までの12年間の休戦を挟む)ネーデルラント諸州がスペインに対して反乱を起こした戦争。これをきっかけに後のオランダが誕生したため、オランダ独立戦争と呼ばれる。

三十年戦争
1621年に停戦が終わると、独立戦争はヨーロッパ全体を巻き込んだ三十年戦争(1618年 - 1648年)にもつれ込んだ。

1637年、オラニエ公フレデリック・ヘンドリックによる第四次ブレダの戦い(英語版)によってブレダは解放された。マールテン・トロンプ率いるオランダ海軍は、1639年2月にダンケルクの海戦でスペイン艦隊を破り、同年10月のダウンズの海戦(英語版)で上陸軍を含むスペイン・ポルトガルの大艦隊を撃破した。
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1607年、サン・ブエナ・ベントゥーラ(120トン)が徳川家康の命令でウィリアム・アダムスによって伊豆国伊東の松川河口で建造された。

日本で最初に建造された西洋式の大型帆船である。当時、フィリピン総督ドン・ロドリゴら一行が、マニラからアカプルコへ向けての航行中に台風に遭い、房総の御宿海岸で遭難し地元民に救出されていた。

その後、一行がアカプルコへ帰還する際にサン・ブエナ・ベントゥーラ号を使用した。本船には田中勝介ら日本人22人が同乗し、アメリカ大陸へ渡った初めての日本人となった。

帰国したドン・ロドリゴは、有名な航海士セバスティアン・ビスカイノを返礼の大使として日本へ派遣した。しかし、ビスカイノの帰国時に船が大破した為、伊達政宗が別のガレオン船建造を幕府に願い出て、承認された。
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日本製のガレオン船

サン・ファン・バウティスタ号。

第一回航海
1613年、サン・ファン・バウティスタ号は当時ノビスパン(新イスパニア)と呼ばれていたメキシコのアカプルコを目指して、月浦から出航した。船の乗員は180名余り。

支倉常長を含めて12名、別に幕府関係者10名、南蛮人40名ほどが船に乗っていた。ノビスパンで洗礼を受けた日本人は78名で、常長と共にヨーロッパに渡った随員は40名ほど。

航海にはアンドレス・デ・ウルダネータが1565年に開拓しマニラ・ガレオンが用いていたウルダネータの航路が使われた。3ヶ月の航海でアカプルコに到着した。

当時はパナマ運河がないため、支倉とソテロは陸路でメキシコ市を経由して大西洋側に移動して別船にてヨーロッパへ向かった。

サン・ファン・バウティスタ号の到来はスペイン側に歓迎されたわけではなかった。これについてソテロは、日本とノビスパンの直接貿易が行われた場合、ルソン(フィリピン)で活動しているスペイン商人の独占的権益が脅かされるから、日本人使節団は歓迎されなかったとする。

サン・ファン・バウティスタ号は1615年4月に、スペイン国王使節として贈答品を携えたディエゴ・デ・サンタ・カタリーナ神父やサンフランシスコ派修道士らを乗せて出港した。

船はマニラ・ガレオンが用いていた北赤道海流に乗ってフィリピン東方に達し、ここから黒潮に乗って北上し1615年8月15日3ヶ月半の航海で浦賀に到着した。

第二回航海
1616年9月30日、浦賀を出航した。スペイン人10人、日本人200人が同乗した。その航海中に悪天候で約100名の水夫が亡くなった。

船は1617年2月23日にカリフォルニアのロス・モリネスに到着。この頃、日本とスペインの関係は冷え切っており、前回同様、サン・ファン・バウティスタ号の再来は歓迎されなかった。

ヨーロッパから戻ったソテロと支倉は日本へ帰る為にメキシコで再会し、彼らを乗せたサン・ファン・バウティスタ号は1618年4月2日にアカプルコを出航した。

一行は1618年8月10日にルソンのマニラに到着したが、そこでサン・ファン・バウティスタ号はオランダへの防衛を固めていたスペインに半ば強制的に買収された。

使節団は約2年のマニラ滞在後、別の船で、1620年8月下旬、長崎へ到着。一行が帰還した時、日本の情勢は出発前のそれと大きく変化しており、キリシタン弾圧が始まるなど、鎖国に向かっていた。
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The History of North America: Every Year

「この北アメリカ歴史地図を見れば1620年」の質問画像

質問者からの補足コメント

  • HAPPY

    1607年、サン・ブエナ・ベントゥーラ号(120トン)による太平洋往復。
    1613年、サン・ファン・バウティスタ号による1回目の太平洋往復。
    1616年、サン・ファン・バウティスタ号による2回目の太平洋往復。

    以上、日本は自分たちが建造した船を用いて、3回も太平洋往復に成功しています。

    「この北アメリカ歴史地図を見れば1620年」の補足画像1
    No.1の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2020/02/13 09:49

A 回答 (2件)

五体投地様



 ご投稿された文章を読むだけで、血沸き肉躍るロマンを感じます。
 サン・ファン・バウティスタ号は、ものすごくかっこいいですね! このような偉大な艦を建造出来る技術が我が国にも有ったのに、徳川のバカどもが全てを破壊して引き籠ってしまい、本当に残念でなりません。
 弊職は幼稚園の頃、学研の図鑑「探検」を読んで、アステカ帝国やインカ帝国がスペインの侵略者どもに滅ぼされ、その貴重な文物が殆ど失われてしまった事を知り、大変な怒りに燃えたものです。そして、その頃日本人が彼らを助けに行かれなかったものかと、長年に亘って夢想しておりました。
 そもそも貴殿のご紹介した事例のように、1600年代には日本にもガレオン船のような、強力な遠洋航海能力と戦闘能力が備わった艦を造る技術が合った訳です。
 あの徳川の馬鹿どもが鎖国などせず、秀吉のように海外に打って出るのであれば、スペインの侵略者どもをアジアやアメリカ大陸から追い出すことが出来たはずです。
(中国も明帝国の初期、2万数千人もの人員からなる“無敵艦隊”を建造し、アフリカまで遠征させたのに、馬鹿な事に海禁策(=鎖国)をして世界のリーダーになるチャンスを失いました)
 
 そこで、実際に北米からスペイン人を叩き出すプランですが、大西洋と違い、太平洋は恐ろしく広く、また対抗策としての沿岸航法も出来ませんので、中継地無しに大兵力を北米西海岸に送り届けるのは困難です。
 また、中国の航海者と違い、壊血病への対抗法を知らなかったのもネックです。(上述の明帝国の艦隊では、モヤシなどのビタミンC源の生野菜を生産しておりました。しかしヨーロッパ人が壊血病を打倒したのはキャプテン・クックの時代になってからです)
 そのため、当時繁栄していたハワイ諸島に辿り着ければ、かなり見込みが出てくると思います。日本からは黒潮が発出しておりますから、ヨーロッパ人よりは容易に辿り着けるでしょう。(史実では、ハワイはクック提督が18世紀後半に“発見”)

 そしてもう一つ朗報が在ります。北米の先住文明社会は、アステカ帝国とマヤ文明が有名ですが、実はマヤ文明には、1697年にスペインの侵略者に滅ぼされるまで「タヤサル王国」という独立国家が存続しておりました。
 そこで、メキシコに上陸した日本人がタヤサル王国に到達し、そこで馬の繁殖方法や騎乗法、また砂鉄からの製鉄技術や、そして火薬の製造法(馬尿とヨモギ草を発酵させて硝石成分を生産する方法が日本では行われておりました。硫黄はメキシコの火山でも簡単に採れます)を教え、また米や大豆の生産方法、そして簡単な文字の使用法を伝授するのです。(元々マヤ文字は有ったのですが、この頃は衰退していた模様)
 そのようにタヤサル王国を強化し、白人に負けないほど強化した後同盟を結べば、あとは簡単です。インドやエジプトや中国のような文明社会がヨーロッパ人の前に屈したのは産業革命後の話ですから、当時のヨーロッパ人如きなら、上記のような文明力を保持していれば負ける事は有りません。しかもこの頃になると、マヤ文明地域の人々は旧大陸の伝染病への抵抗力も付いてきており、その点でも反撃可能なポジションに有ります。
 ちなみに、更に北東のミシシッピ河流域には1600年代まで「カホキア王国」というものがあり、文字や金属器は有りませんが、土製の巨大なピラミッド(高さ30m、幅300mほど)を建設し、トウモロコシを栽培、ピラミッドのある街の人口は1万人以上とされております。ここにも、出来れば支援を送るべきでしょう。

 後は、オスマン・トルコ帝国を支援してヨーロッパ本土に敵兵力を釘付けにしたり、インドやアフリカ東海岸の諸王国を支援してヨーロッパへの資源や奴隷等の流出を妨害出来るようになれば、日本による北米経営は盤石なモノとなるでしょう。
(但し、ロシアによるシベリアからのアラスカ進出は、別途気を付ける必要が有ります)

 このように書くと、中には「日本のような島国根性の者が、そんな事出来るか」と卑下する者も毎度出てきますが、「島国」イギリスや、九州程度の面積しかないオランダですらあのような偉業が出来た訳ですから、日本人だけ出来ないなどという事は無いでしょう。
 事実、開国してから僅か50年で産業革命を成し遂げ、ヨーロッパ最強の軍事帝国ロシアの主力艦隊を全滅させるほどの偉業を成し遂げた訳ですから。


タヤサル王国
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%83%A4 …

カホキア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%9B …
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数日前の幕末特番は江戸幕府に顧問として招かれたフランスの将校が榎本武揚と共に五稜郭で錦旗とたたかった筋書きが映像化されていましたが、幕府の最新艦をだ捕しに行った榎本艦隊は1隻2隻 ..とあらしとトラブルで遭難していた。

 太平洋を渡るにしても、ミッドウェーのあたりで全没していたかもしれない。後続も海の藻くずと消えていたかもしれない。 赤い十字はナイチンゲールかなにかになっていますが、緑の十字は安全・現場ではないでしょうか。
よくよく、注意してあたらないことには、どこで、沈んでもおかしくはない。
この回答への補足あり
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