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聖徳太子は どうして
天皇になれなかったの?

A 回答 (6件)

簡単に言うと、血統や年齢などによるタイミングの問題。


血統は直系が優先され、兄弟間では正妃(皇后)の子が優先です。
ただし、有力な後継者の有無や年齢で変わります。


・敏達天皇の後継

敏達天皇が崩御された時、本来の後継はその子らが優先されるべきでしたが
いずれも幼いため、弟の橘豊日尊が即位し、用明天皇になられました。


・用明天皇の後継

用明天皇(聖徳太子の父)は即位後2年で急逝されたので、
その後継として敏達帝の子と用明帝の子は幼いので(聖徳太子は14歳)
蘇我氏の推す泊瀬部皇子と物部氏の推す穴穂部皇子が争い
蘇我氏が穴穂部皇子を弑逆し物部氏を破ったので泊瀬部皇子が即位し
崇峻天皇になられました。
ちなみに、敏達帝の子、竹田皇子や聖徳太子は蘇我氏について戦いました。
この時に聖徳太子が「この戦いに勝ったらここにお寺を建てる」といって
その後に建てたのが四天王寺です。


・崇峻天皇の後継

崇峻天皇は蘇我氏のおかげで即位できましたが、その後は蘇我氏と対立し
即位後5年で暗殺されました。
ちなみに、天皇が在位中に臣下(皇族を除く)により暗殺された唯一の例です。
一部では蘇我氏の横暴を嫌って敏達天皇の直系を推す意見もありましたが
(聖徳太子を含め)いずれもまだ年齢的に若く、その繋ぎということにして
敏達天皇の妹(かつ妃)の額田部皇女が即位し推古天皇になられました。
推古天皇の母親は蘇我稲目の娘、蘇我堅塩媛で
(摂政の聖徳太子の母親も蘇我稲目の娘、穴穂部間人皇女)
蘇我氏の影響力を維持するための人事でした。
聖徳太子は推古天皇が摂政としての政治を任せたので様々な施政を行いましたが、
推古天皇が退位される前に亡くなられたので天皇に即位されませんでした。


当時の政治の中心が天皇でした。
推古天皇は蘇我氏の外戚としての横やりに反対するなど
天皇としてそれなりの政治力を発揮しています。
記録として残る最初に置かれた摂政が聖徳太子です。
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この回答へのお礼

もしかして、蘇我氏に
太子は殺害?

お礼日時:2020/04/15 09:24

聖徳太子(厩戸皇子)は天皇になれなかったのではなく、ならなかったのです。

その理由としては
天皇になると政治を思うようにできなくなるからです。当時の天皇の仕事は政治ではなく、祭典などで豊作や国の安全を祈ることが中心でした。逆に政治を行う役職、摂政(今でいうと、内閣総理大臣)という役職の人が天皇の代わりに政治を行なっていました。
古墳時代までは各地の豪族が土地を支配するような政治体制でしたが聖徳太子は中国の文化にならって天皇中心の国家にしたかったのです。
なのであえて、摂政という役職に就き天皇の政治を補佐するという形で冠位十二階や十七条憲法を行い天皇中心の国家を作ろうとしたのです。
しかし、聖徳太子の一族、蘇我氏は聖徳太子の死後、独裁政治を行い645年大化改新で中臣鎌足、中大兄皇子(後の天智天皇)らにほろぼされます。(蘇我入鹿が殺された=大化改新)
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この回答へのお礼

的確に回答有り難う

お礼日時:2020/04/15 09:28

新説がでると、ちゃんと読んで考察もしないで切れ端の情報を振り回して知ったかぶっている人が多いですね。


読解力がないのか思考力が残念なのか、両方なのか。


確かに、厩戸皇子が聖徳太子という称号で呼ばれていた事や、聖徳太子の功績は本当に彼一人のものか?という事については疑問視されています。

しかし、厩戸皇子という人物が存在した事 は否定されていません。
「聖徳太子は どうして 天皇になれなかった」の回答画像4
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この回答へのお礼

的確な回答有り難う御座います

お礼日時:2020/04/12 19:43

実在しなかったから

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権利闘争に勝ち残れなかった

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聖徳太子は架空の人物で、実在しなかったからです。

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