アプリ版:「スタンプのみでお礼する」機能のリリースについて

「愛=執着」ですか?
違いがありましたら、教えてください。

質問者からの補足コメント

  • あい 【愛】
    ①親兄弟のいつくしみ合う心。広く、人間や生物への思いやり。続日本紀(8)「周孔の風、尤も仁―を先にし」
    ②(男女間の)相手を慕う情。恋。
    ③かわいがること。大切にすること。御伽草子、七草草紙「己より幼きをばいとほしみ、―をなし」
    ④このむこと。めでること。醒睡笑「慈照院殿、―に思し召さるる壺あり」
    ⑤愛敬あいきょう。愛想あいそ。好色二代男「まねけばうなづく、笑へば―をなし」
    ⑥〔仏〕渇愛。対象に対する強い欲望。十二因縁では第8支に位置づけられ、迷いの根源として否定的にみられる。今昔物語集(2)「その形、端正なるを見て、忽ちに―の心をおこして妻めとせんと思ひて」
    ⑦キリスト教で、神が人間をあまねく限りなくいつくしみ、人間の救いのために自らを与えること。また、この神の愛を恵まれた人間が互いにいつくしみ合うこと。 →アガペー①。
    ⑧愛蘭アイルランドの

      補足日時:2020/06/06 12:07

A 回答 (6件)

文字が違いますから


意味も違います
補足に書いていらっしゃるように
愛の意味の中に
執着とは書かれてないでしょ
    • good
    • 0

「愛」について語るなら、「世界大百科事典」の「愛」の項目を是非一読してほしい。

長文の引用をするわけにもいかないので、「日本語における〈愛〉」のみ引用します。
  以下引用………………………………………………………………………………
『日本語における〈愛〉』
「〈愛〉は外来語」
歴史的に〈愛〉は日本語本来のことばではなく,中国から輸入された,いわゆる漢語である。この事実は,日本語が,もともと,〈愛〉とか〈愛す〉という語を,ことばとして所有していなかったことを物語っている。〈愛〉あるいは〈愛す〉という気持ちを表現する必要があれば,古くは,和語に依存して,名詞〈おもひ〉,動詞〈おもふ〉を用いたこと,たとえば〈にくむ〉の反対語として動詞〈おもふ〉をあげた《枕草子》第71段の記事によってもうかがうことができよう。《枕草子》と並んで,《源氏物語》にも,〈愛〉〈愛す〉の語は1例も使用されていない。
 このように平安女流文学においては,〈愛〉〈愛す〉が使用されていないのに対して,平安末期の仏教説話集《今昔物語集》では,これらの語が頻用されている。しかし,この現象は,必ずしも時代の新古のみによるものとは考えられない。院政時代の古訓集成とも称すべき《類聚名義抄》に,〈寵〉〈恩〉〈恵〉〈寛〉等々の漢字をアイスという語で読むことが示されている以上,漢文訓読の世界では,相当はやくより〈愛す〉という語が普及していたことを推測させる。
「仏教思想と〈愛〉」
さかのぼって,《万葉集》巻五,山上憶良〈思子等歌一首〉の前に置かれている〈釈迦如来,金口正説,等思衆生,如羅睺羅。又説,愛無過子,至極大聖,尚有愛子之心,況乎世間蒼生,誰不愛子乎〉という漢文の序も,〈愛は子に過ぎたりといふこと無し。至極の大聖すらに,なほし子を愛する心有り。況んや世間の蒼生,誰か子を愛せざらめや〉というふうに,当初から,〈愛〉を字音語のまま読んでいた可能性が強い。
 憶良の〈思子等歌〉は子に対する愛を切切と訴えた名歌として知られている。〈瓜食めば 子ども思ほゆ 栗食めば まして偲はゆ いづくより 来りしものそ まなかひに もとなかかりて 安眠しなさぬ〉。しかし,憶良は,このような絶ちがたい子への愛が,釈迦の戒めた煩悩にほかならないことを十分に知っていた。仏教の知識を踏まえて述作された漢文の序は,その線に沿って,〈愛執は子に勝るものはなく〉〈無上の聖人でさえ,子に愛着する心はある。まして,凡人たるもの,子に愛着せずにいられようか〉という意であったと解される。
 儒教における〈愛〉は〈ネンゴロニシタシム心〉(《和漢新撰下学集》)であったが,仏教において,〈愛〉は〈十二因縁〉の一つであり,因果応報の理をまぬかれない。〈愛〉にもとづく後世の悪報は,《今昔物語集》の説話の随所に力説されている。あるいは,わが子を溺愛した罪のために馬身と生まれた親。あるいは,庭前の橘を愛した罪によって小蛇の身を受けた男など。《今昔物語集》がとりあげた〈愛〉は,以上のごとき仏教的見地から見た悪念としての〈愛〉であるが,この考え方は,仏教色の濃厚な中世文学の全般を覆っている。たとえば,〈法華を行ふ人は皆 忍辱鎧を身に着つつ 露の命を愛せずて の上にのぼるべし〉(《梁塵秘抄》)。
 仏教思想による〈愛〉は,男女間においては愛欲,そのもっともいまわしい形態は性愛であると考える。動詞の〈愛す〉も,したがって,中世以降,しばしば性愛の行為をさして使用される場合があった。〈愛〉は,単なる心理ではなく,肉体の生理と直結していたのである。このような用法が普及するに及んでは,〈愛〉という語に神聖な意味・感情を与えることは,きわめて困難となる。室町末期,キリシタンの宣教師が,キリスト教の〈愛〉を説こうとして,本邦の〈愛〉という語を採用しなかった理由はこの点に求められる。彼らは,伝道の便宜上,仏教的な漢語を意識的に多量に導入したが,〈愛〉の語だけは忌避した。彼らは,日本にあって好ましからざる意味を持つ〈愛〉の語を避け〈大切〉〈御大切〉という語を代りに使用した。キリスト教における〈愛〉の概念が,漢語〈愛〉によって示されるようになったのは,明治初年以後のことである。
《近代日本に於ける“愛”の虚偽》
しかし,日本人の精神構造のなかには,元来,キリスト教におけるような,神と人との間の,また,人と人との間の対等の〈愛〉を理解しうる地盤がない。近代の日本人は,なまじ,キリスト教を通じてヨーロッパ系の〈愛〉を輸入したために,われわれの内部に定着しうべくもない〈愛〉の実在を錯覚してしまった。《近代日本に於ける“愛”の虚偽》と題する論文を書いた伊藤整が,〈心的習慣としての他者への愛の働きかけのない日本で,それが愛という言葉で表現されるとき,そこには,殆んど間違いなしに虚偽が生まれる〉〈男女の結びつきを翻訳語の〈愛〉で考える習慣が日本の知識階級の間に出来てから,いかに多くの女性が,そのために絶望を感じなければならなかったろう〉と慨嘆したのは,まさにその意味においてであった。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2020/06/06 12:05

仏教の教えです。


釈尊は愛は執着であり、悟りへの障碍物と教えました。
従って釈尊は、妻をすて、子をすて、家をすてて出家の道に身を投じました。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2020/06/06 12:05

愛? 哀でしょ! たとえ絶世の美女と結ばれようと年老いて醜くなっていく様を貴殿はどう思うのか?

    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2020/06/06 12:05

愛という言葉が執着という意味で使われていたのは


江戸時代以前のことです
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2020/06/06 12:05

「愛=思いやり」でしょうね。

    • good
    • 1
この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2020/06/06 12:05

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!