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1. 《究極の悪(または 人間の存在や心にとっての真の敵)》とは 
何か。

2. じつは 神学には 悪の究極の形態について理論がつくられてい
ます。その実在性を問います。

3. 悪は こころのへそ曲がりに発します。うそ・いつはりのことで
す。ウソと言う限りで ウソでない心のありか または あり方がある
はずです。それを 善と呼ぶとすれば 悪は 善のひねくれ・ねじ曲が
りでありそれが くせとなれば 善が損傷を受け欠けていきます。
 

4. つまり悪は 悪というものが なにか・どこかに他の一切のもの
から独立して存在するのではなく 善が減少していくにつれ 現われる
と考えます。

5. 自然本性と言うべき心としての善が減ること・また善を減らすこ
と これを分かりやすくひと言で 悪と呼び 善が減った状態のことも 
悪と呼ぶという見方です。

6. さすれば 悪の究極とは 人間存在にそなわった善が すべて欠
如した状態を言うと推し測られます。



7. これは 単純な例として 身体の抹殺(つまり 殺すことですね) 
あるいは 精神的に無視し無関心となること(あるいはつまり 虫けら
扱いして ひとをないがしろにすること)を挙げることができます。
 
8. 言いかえると 悪の究極とは 身体にとっても精神にとっても 死
のことです。存在ないし人格の消滅のことです。



9. ところが 《悪は 存在しない》という基礎命題は この究極の
悪としての《死》が死ぬということを 内包しています。悪という死は
悪が存在しないのですから 死にます。消えてしまい得ます。

9-1. 悪は 善が欠けただけなのですから 埋め合わされ得るとい
う見方です。減った分を 増やせばよいとなります。すっからかんとな
って なくなっても まだなお 善を回復すればよいと考えられないで
はありません。



10. ここで 悪の究極の究極とは この《〈善の完全な欠如である
究極の悪である死〉が 死ななくなる》ことだと言います。

10-1. 悪としての初めの究極の死が 第一の死だとすれば その
死が死ななくなるということは 死の固定・確定を意味するようです。
つまり 善の完全な欠如のままであるという意味です。

11. これが 究極の究極としての《とどのつまりの悪》であり 死
としては《第二の死》と呼ばれるという説明です。

11-1. 第一の死〔たる・善の欠如〕は 消えることができると言
います。《ゆるし》があり得ます。第二の死〔たる・善の欠如の確定〕
は ゆるされることが無いと考えられるわけですが いったいどういう
状態になることなのでしょう?


 
12. 果たして この もはや元の善に戻ることのないと捉えられた
《第二の死》たる最終的な悪は 実在するものでしょうか。ぜひ お考
えをおしえてください。

13. 質問者の感触としましては いまのところ このように《第二
の死》としての悪が 想像上で考えられているというその理論を知れば 
初めの善なる存在ないし《わたし》に人は立ち還ることができる。とい
うふうに捉えられている。それで じゅうぶんではないかという見方で
す。

14. 果たして どうでしょう。みなさんのお知恵を拝借します。



             *



15. 第二の死に落ち入ったあと 人びとに向けてこの死を引き起こ
す《仕事》をするようになったのが 悪魔だと言います。

15-1. 死をめぐる仲間をつくるということです。死の制作者たる
悪魔の軍門に下ってその家来となった場合は 悪鬼と言うことであるら
しい。

15-2. ――このあたりに成ると 文学の領域に入るかと思います
が ひと言触れました。

質問者からの補足コメント

  • №6つづき

    悪と呼ばれる心の(自然本性たる善の)傷を その溢れるめぐみにて
    次から次へとほろぼしている。自然治癒を神学的に言いかえればです。


    ★ とてつもなく不幸な人が存在するという事実を受け入れ、それで
    も神を信じるか、又は信じるに値しないと判断するかは難しいテーマ
    で信仰心が試されると思います。日本人のほとんどはそんな神など信
    仰に値しないと考えるのではないでしょうか・・・・?
    ☆ 《とてつもなく不幸な人》が その自分をめぐる《ものごとの仕
    合わせ》についてその正負の判断を見方を 少しづつ変えるようにな
    るかも知れません。どんでん返しがあるかもです。

    No.6の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2020/07/01 06:03

A 回答 (17件中1~10件)

悪は、自己存在に由来します。

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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


たしかに《生理現象》として 胸の動悸や顔の赤らめが起きている
のに――そしておそらくその《やましさ反応》は やばいからやめ
ようと言っているはずなのに――それに逆らってわれは 《自由意
志》のヘンな自由度を行使して いまやろうとしたことを敢行する。

つまり 初源の悪は ウソをつくことだと思われます。

つまり そういったかたちで:
★ 悪は、自己存在に由来します。
☆ ね。

お礼日時:2020/06/30 09:43

広島の強欲夫婦でございます。


特に爬虫類顔の馬鹿嫁が逮捕寸前に文春の記者にペラペラしゃべった内容をご覧頂ければ
如何に奴らが屑で滓で強欲・傲慢な外道であるか、一目瞭然でございます。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 広島の強欲夫婦でございます。
☆ 時期として旬かも知れませんね。

どうですかね。その強欲による悪・そしてその悪に応じた精神の死。
この死からの生還は もうないですか?



★ 特に爬虫類顔の馬鹿嫁
☆ 顔で決まるんですか?

★ 特に爬虫類顔の馬鹿嫁が逮捕寸前に文春の記者にペラペラしゃ
べった内容をご覧頂ければ 如何に奴らが屑で滓で強欲・傲慢な外
道であるか、一目瞭然でございます。
☆ うらやましいってわけではないですよね?

かなり悪の悪度がつよい・・・ということですね。うけたまわりま
した。

お礼日時:2020/06/30 09:48

普通ならクーデターが究極の最高の犯罪ですが、


クリスチャンにとって、もっと究極の悪とは神に背くことじゃないでしょうか?

すなわちモーセの律法をダビデ大王のようにすべて破ることなど。
でも、ダビデ大王はそれにも関わらず神に愛されましたよね?

エサウとヤコブの物語にあるように、
神は人間が生まれてくる以前から愛する者と憎む者との選別を行うようです。
そして、神に愛された者は例えモーセの律法を破っても愛されるみたいです。

結構、神様は残酷な存在ですよねえ・・・・
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


★ 普通ならクーデターが究極の最高の犯罪ですが、
クリスチャンにとって、もっと究極の悪とは神に背くことじゃない
でしょうか?
☆ ううーん。《神に背く》のは どう分かりますか? 

わたしの場合も うそ・いつはりといった主観的な確認による悪を
初源の悪としていますが。


★ すなわちモーセの律法をダビデ大王のようにすべて破ることな
ど。
でも、ダビデ大王はそれにも関わらず神に愛されましたよね?
☆ ダヰデは 石打ちの死刑をまぬかれましたね。

だとすれば 律法に背くことは――たしかに一点一画をも守らなく
てはならないようなのですが―― 例外的なゆるしを許容している
ようです。

ゆるしなど例外のあり得ない究極の悪とは 何か? がなお問いと
なるかも分かりません。


★ エサウとヤコブの物語にあるように、
神は人間が生まれてくる以前から愛する者と憎む者との選別を行う
ようです。
そして、神に愛された者は例えモーセの律法を破っても愛されるみ
たいです。
☆ たしかに双子を胎内にあるときから その兄を憎み弟を愛した
とあります。

★ 結構、神様は残酷な存在ですよねえ・・・・
☆ 風は気ままに吹くらしいです。


問題は もし残るとすれば 神に背いたということが どのように
分かるか? ではないでしょうか?

バテシバに懸想したとき ダヰデに悪ないし罪の自覚はなかった?
kのじょの夫ウリヤに対していろいろ画策したときは どうだった
か?

わたしは 嘘・イツハリといった自覚によってであり それは お
のれのであれ相手のであれその意志と心とを踏みにじるという要因
によるとは見ます。

悪魔ともなると 自分の心であれ相手の意志であれ・そしてそれら
をうわべで尊ぶにしろ蔑ろにするにしろ すべてがウソでありすべ
てが 相手の精神を死に到るようにみちびくための発言と行動であ
る。

(これは 実在するだろうか?)



☆ [2]項で《神学》と言ったのは かなりわたしの独善的なも
のです。アウグスティヌスにまなび・しかもそれらを勝手に脚色し
ていますから。その点おわびしてお知らせいたします。

お礼日時:2020/06/30 21:58

>問題は もし残るとすれば 神に背いたということが どのように


分かるか? ではないでしょうか?

まず、神に背いたことが初めにわかるのは「自分(己)」です。
そして、超常的な話になりますが、神は全人類の個々の中まで「見ておられる」。
これを信じるかどうかは「信仰心」の問題です。
若干関係がある物語は「ヨブ記」で、神は個人個人の髪の毛の数まで把握しておられます。

神と自分はごまかせない所以です。


>ゆるしなど例外のあり得ない究極の悪とは 何か? がなお問いと
なるかも分かりません。

これはすべてが「神に愛された者」かどうかで決まると思われます。
すなわち「神に愛された者」にとっては例外のあり得ない究極の悪など「存在しない」です。
何をやっても「祝福された者」ゆえにうまくいく。
たとえ、うそ、いつわりがあってもです。

そして、「神に憎まれた者」はまったくその逆となります。
どんなに能力が高くとも、うまくいかない、裏目に出る。

神の残酷さです。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ まず、神に背いたことが初めにわかるのは「自分(己)」です。
☆ そうでしょうね。リアルタイムでなくても あとで分かります。

★ そして、超常的な話になりますが、神は全人類の個々の中まで
「見ておられる」。
☆ そういう視点を想定し得ましょう。

★ これを信じるかどうかは「信仰心」の問題です。
☆ そうですね。そして あたかも別様に 想像と思考とでその神
の視点を思い描くことも それとしてあり得ます。

★ 若干関係がある物語は「ヨブ記」で、神は個人個人の髪の毛の
数まで把握しておられます。
☆ 話を端折りますが ヨブがさとったのは 創造主としての神を
知ったときです。つまりは 神の絶対性と人間としての己の相対性
との関係――そこにある絶対の隔たり――の自覚だと見ます。

★ 神と自分はごまかせない所以です。
☆ ですね。

☆☆ >ゆるしなど例外のあり得ない究極の悪とは 何か? 
★ これはすべてが「神に愛された者」かどうかで決まると思われ
ます。
☆ ううーん。これも 《神に背く》と同じように分かりづらいで
すね しょうじきに申せば。

★ すなわち「神に愛された者」にとっては例外のあり得ない究極
の悪など「存在しない」です。
☆ ユダヤ民族の神たるヤハヱーが イエスによって普遍神へと揚
げて棄てられたと見るのですが その神としてなら ひとは例外な
く《愛されています》。

究極の悪も たしかに無いでしょう。
(原罪があがなわれたのですし 悪魔ははりつけのイエスの死の淵
にまで来たかも知れないけれど その死を共有しえなかった。そう
いう荒業をやってのけられて悪魔は その腹の中にたくわえた死の
仲間たる悪鬼らを みな吐き出さざるを得なかった。文字どおり腑
抜けになった。死よ おまえの棘はどこにあるか?)

★ 何をやっても「祝福された者」ゆえにうまくいく。
たとえ、うそ、いつわりがあってもです。
☆ それは 善の損傷が 自然治癒するというふうに翻訳するとよ
いと思っています。

★ そして、「神に憎まれた者」はまったくその逆となります。
どんなに能力が高くとも、うまくいかない、裏目に出る。
★ 神の残酷さです。
☆ 煮詰めた言い方ではそれは 不遇や逆境は 前世からの因縁だ
よと言っているようなものではないですか?

お礼日時:2020/06/30 23:17

もちろん、そんな残酷な神なんか信仰しないという人も少なくないと思います。


世間一般の「神」に対するイメージは「みんなを幸せにする存在」。
無神論者がよく言うのは「なぜ、神がいるのなら不幸な人が存在するのか?」という疑問です。
しかし、聖書を読むと、神は不平等で残酷な判断をする存在なのだとわかります。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


★ もちろん、そんな残酷な神なんか信仰しないという人も少なく
ないと思います。
☆ よその民は皆殺しという聖絶を命じるくらいの民族神の時代に
は その一定の社会が秩序を保ち安全を守るためには 必要だった
ものと思われます。



★ 世間一般の「神」に対するイメージは「みんなを幸せにする存
在」。
☆ ううーん。そうではなく 《人びとよ 神を知れ! とは言わ
ないし 互いにオシへを教え合いなさいとは言わなくなる》(エレ
ミヤ書31:31f.⇒へブル書8章)ようなごくふつうの――しかもすで
に普遍的な――神をのぞんでいましょう。



★ 無神論者がよく言うのは「なぜ、神がいるのなら不幸な人が存
在するのか?」という疑問です。
☆ たぶんそれは 無神論に成る前の段階で持つ疑問でしょう。無
神論にいたれば 幸不幸の原因を 超自然なるものに求めませんか
ら。


★ しかし、聖書を読むと、神は不平等で残酷な判断をする存在な
のだとわかります。
☆ そのようないわゆる現実の事態を知るのは 或る日或る時どこ
からかやって来た信仰――非思考の庭あるいは無根拠なる根拠――
を持ったあとのことでしょう。


▲ (ハバクク書 2:4 )義人は 信仰によって生きる。


ですから その過酷な現実を知ったあとも たとえば:
▲ (ローマ書 12:19 ←申命記 32:35 ) 
「復讐はわたしのすること、わたしが報復する」と主は言われる
☆ とさらになお知ります。世間とそしてわれ自身と 和解するに
到っています。

あるいは ヤハヱ―神のときから すでにこう言われています。:
▲ (マタイ福音 9:13 ←ホセア書 6:6 ) 
「わたしが求めるのは、あわれみであって、いけにえではない」


普遍神の問題は そんなこんなだと思います。

お礼日時:2020/06/30 23:59

☆ ユダヤ民族の神たるヤハヱーが イエスによって普遍神へと揚


げて棄てられたと見るのですが その神としてなら ひとは例外な
く《愛されています》。

ひとは例外なく愛されているというのは個人的に別の解釈をしています。
たとえば、ソドム、ゴモラ、パリサイ派、神殿で商売をしている者たちなどはイエスに敵対するものとして描かれているではないかと。
イエスを信じる者のみが愛されているのではないかと限定されているような解釈をしています。
つまり例外的にすべての人間が愛されているとは言い難いような・・・・
イエスを認め、イエスの教えを信じている者のみが愛されると限定されているような・・・・

☆ 煮詰めた言い方ではそれは 不遇や逆境は 前世からの因縁だ
よと言っているようなものではないですか?

個人的には前世などは関係ないと思っております。
よく現世で不幸な人が存在するのは前世での悪行ということを根拠にしている人たちがおりますが、聖書を読む限りでは前世の話はまったく出て来ず、個人的に関係ないのではないかと・・・・
また、そのように解釈されたなら私の書き方が悪かったです・・・・

ただ、神は人間が生まれてくる以前から選り好みをする残酷な存在であると解釈しているだけです。
とてつもなく不幸な人が存在するという事実を受け入れ、それでも神を信じるか、又は信じるに値しないと判断するかは難しいテーマで信仰心が試されると思います。日本人のほとんどはそんな神など信仰に値しないと考えるのではないでしょうか・・・・?

と、以上のように個人的には思います。間違っているかも知れません。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ ひとは例外なく愛されているというのは個人的に別の解釈をして
います。
☆ はい。

★ たとえば、ソドム、ゴモラ、パリサイ派、神殿で商売をしている
者たちなどはイエスに敵対するものとして描かれているではないかと。
☆ ええ。たしかに 敵対していてそれらは 永遠の火の中へ・つま
りは 死が死なない第二の死へと行きなさいと言われた恰好です。

★ イエスを信じる者のみが愛されているのではないかと限定されて
いるような解釈をしています。
☆ これはですね。ひと言で申せば:《悪魔はしりぞけられたが・原
罪はあがなわれたが なお信仰の実践にかんしては 〈活躍〉してい
るのだとか・アダムらの負い目を受け継いでいるのだとか そういっ
た物語としてそしてさらには理論としても 聖書記者たちは 表現す
るのを避けなかった》のだと。

じっさいイエスも 信仰にちなんだパン屑でも欲しがった老婆に イ
エス自身はユダヤ民族の外には遣わされていないのだと言っています。


★ つまり例外的にすべての人間が愛されているとは言い難いような
・・・・
イエスを認め、イエスの教えを信じている者のみが愛されると限定さ
れているような・・・・
☆ たとえば神にとっては 千年が一日であるとか。民主制は《二日》
を要しています。死刑はなお存続しています。

☆☆ 煮詰めた言い方ではそれは 不遇や逆境は 前世からの因縁だ
よと言っているようなものではないですか?
★ 個人的には前世などは関係ないと思っております。
☆ いえ。それなのにです。認識も判断も能力として尽くし得ない場
の問題として説明しているという意味です。《きみは 神から嫌われ
たのだよ》という説明ですよね?


★ ただ、神は人間が生まれてくる以前から選り好みをする残酷な存
在であると解釈しているだけです。
☆ エサウとヤコブの話で決定的にそうですね。そうして イエスは
どうなのか? その原則を変えておらず しかもあたらしい天と地と
の神は えこひいきやいぢめをしなくなる・・・というのでは?

心の燈心の灯に火をつけることだけはしている。汲めども尽きぬ泉の
水をその人の内で川となってのように湧き出させている。

つづく

お礼日時:2020/07/01 06:00

☆ たぶんそれは 無神論に成る前の段階で持つ疑問でしょう。


神論にいたれば 幸不幸の原因を 超自然なるものに求めませんか
ら。

そう言われるとその通りですね。

☆ ううーん。そうではなく 《人びとよ 神を知れ! とは言わ
ないし 互いにオシへを教え合いなさいとは言わなくなる》(エレ
ミヤ書31:31f.⇒へブル書8章)ようなごくふつうの――しかもすで
に普遍的な――神をのぞんでいましょう。

そうでしょうか。意見の分かれるところだと思います。

☆ そのようないわゆる現実の事態を知るのは 或る日或る時どこ
からかやって来た信仰――非思考の庭あるいは無根拠なる根拠――
を持ったあとのことでしょう。


▲ (ハバクク書 2:4 )義人は 信仰によって生きる。


ですから その過酷な現実を知ったあとも たとえば:
▲ (ローマ書 12:19 ←申命記 32:35 ) 
「復讐はわたしのすること、わたしが報復する」と主は言われる
☆ とさらになお知ります。世間とそしてわれ自身と 和解するに
到っています。

あるいは ヤハヱ―神のときから すでにこう言われています。:
▲ (マタイ福音 9:13 ←ホセア書 6:6 ) 
「わたしが求めるのは、あわれみであって、いけにえではない」


普遍神の問題は そんなこんなだと思います。



よく理解できない点もありましたが、ブラジェ先生の仰ることに概ね納得・同意できました。
今日は良い勉強をさせて頂き、ありがとうございました。
造詣と見識の深さに感服いたしました。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

☆☆ たぶんそれは 無神論に成る前の段階で持つ疑問でしょう。
無神論にいたれば 幸不幸の原因を 超自然なるものに求めません
から。
★ そう言われるとその通りですね。
☆ 無神論という――つまりは 普遍神を《無い神〔という神〕》
として信じる――信仰の一種にまで到らない経験思想にとどまって
いる場合には 神についての批判をやらかしますね そう言えば。

☆☆ ううーん。そうではなく《人びとよ 神を知れ! とは言わ
ないし 互いにオシへを教え合いなさいとは言わなくなる》(エレ
ミヤ書31:31f.⇒へブル書8章)ようなごくふつうの――しかもすで
に普遍的な――神をのぞんでいましょう。

★ そうでしょうか。意見の分かれるところだと思います。
☆ ふむ。スリリングですね。

☆☆ ~~~~
そのようないわゆる現実の事態を知るのは或る日或る時どこからか
やって来た信仰――非思考の庭あるいは無根拠なる根拠――を持っ
たあとのことでしょう。

▲ (ハバクク書 2:4 )[省略しました]

ですから その過酷な現実を知ったあとも たとえば:
▲ (ローマ書 12:19 ←申命記 32:35 ) [・・・]
☆ とさらになお知ります。世間とそしてわれ自身と 和解するに
到っています。

あるいは ヤハヱ―神のときから すでにこう言われています。:
▲ (マタイ福音 9:13 ←ホセア書 6:6 ) [・・・]

普遍神の問題は そんなこんなだと思います。
~~~~~



★ よく理解できない点もありましたが、ブラジェ先生の仰ること
に概ね納得・同意できました。
☆ いやあ ちょっと肩透かしの感じですが いいんですかね。


★ 今日は良い勉強をさせて頂き、ありがとうございました。
造詣と見識の深さに感服いたしました。
☆ とんでもない。もしよいところがあるとすれば 発想も初源の
理論的要素も みなアウグスティヌスのものです。『三位一体論』。

しかもわたしは――水によるバプテスマを受けていませんし 水に
よる洗礼は要らないとさえ言って 師匠のアウグスティヌスに謀叛
を起こしていますが そういったように――繰り返しますが 勝手
な脚色をもおこなっています。


正され洗練されていくことがあるなら この上ないよろこびです。

お礼日時:2020/07/01 06:22

シヴァ神の踏んづけてるものは「無知」と言うものです。

無知こそ根元的な悪だと思います。
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この回答へのお礼

ふうーむ。――まづは ご回答をありがとうございます。


一見そして二見すれば考えられる回答かと思いますが そう来ま
したか。


ううーん。

まづ
★ 無知
☆ と言っても 一方ですでに《無知の知》として捉えられてい
る場合があり 他方では無知からの暴走があったり 無知を省み
ずに部分知でやはり突っ走ったりする場合があります。


〇 無明
☆ といってしまえば 明知なるさとりの反対の極致になり か
なり:
★ 根元的な悪
☆ と見られたりします。


★ シヴァ神の踏んづけてるものは「無知」
☆ ということで シヴァあるいはヴィシュヌあるいはけっきょ
くブラフラマン神とかかわっていますか? ちょっとこの点わた
しは 無知ですが。


ううーん。どうなりますか。

無知が 悪であることは――特に知識というより話し合いでの作
法を身につけていず やり取りに支障をきたすときに悪であるこ
とは―― 身近に感じますね。

ただし そのほかの場合には どうしても《根元的な悪》だと規
定するその理由が 必ずしもわたしに明らかではありません。

知らなければ 尋ねておしえてもらえばよい・・・とまで思って
いるわたしにとってはです。

もう少し決定打をくれますか?

お礼日時:2020/07/01 11:51

ビシュヌという創造者だけでは不足では宇宙世界は成立せず、またシヴァの創造したものの破壊と再生でも宇宙と世界はもの足らないです。

それは創造と破壊再生に対する、ブラフマンの結果、効果への意識の目覚め、覚醒がなければ、世の中、世界の車輪はうまく回らないのではないでしょうか。無知から来る、人の失敗、罪、悪=あるべきではないこと、にたいする見通し、覚醒といったブラフマンが人の中に宿らないと、人や社会は成立しないのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


★ ブラフマンが人の中に宿らないと、人や社会は成立しないの
ではないでしょうか。
☆ なるほどね。梵我一如。ブラフマンの霊性が アートマンの
霊我と一如となる。

この――信仰の領域にまで入りますが―― いわゆる原理ですね。

この梵我一如あるいは一般に霊霊一如についてその対極が 無知
として規定されているとしたら それは 知りませんでした。




それと 少々重箱の隅を突っつくとしますと:
★ 無知から来る、人の失敗、罪、悪=あるべきではないこと〔に
たいする見通し、覚醒といったブラフマンが人の中に宿らないと、
人や社会は成立しないのではないでしょうか。〕

☆ ここで これらの悪は まだその善の欠けとしての死が死ぬ・
つまり 消えてゆき もとの善が復活するといった段階でないのか
どうか。

善の欠け〔たる死〕の固定・確定に到っているかどうか。究極のそ
の究極の悪になっているか?

――とは思いました。


分析家さん しばらくです。

お礼日時:2020/07/01 12:17

日本では外患誘致が極悪ですね


最低でも死刑です
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この回答へのお礼

ゆるせない・・・ってことですね。ぜったいに。



ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2020/07/01 17:07

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