1つだけ過去を変えられるとしたら?

役行者は全国の霊山と云われる山々をくまなく遍歴し、その足跡は、北は出羽三山から、南は彦山、阿蘇、霧島、高千穂に及ぶとありますが、 本当にそうだったのでしょうか? 私は役行者が修業で跋渉した山野や山岳は近畿一円であって、あとは後世になって誰かほかの修験者をモデルに各地で創作された伝承のような気がします。 現在とは桁違いに情報が乏しい時代であるため、空海と同様に時代の齟齬は何のその、”修験者=役行者”となったのでは、と言うことです。 役行者の確からしい足跡(行動範囲)について詳しい方がおられましたら教えてください。

A 回答 (3件)

どの修行場も役行者が開いたことになっていますね。



>私は役行者が修業で跋渉した山野や山岳は近畿一円であって、あとは後世に
>なって誰かほかの修験者をモデルに各地で創作された伝承のような気がします。

もしろん、そうでしょう。
ウィキの役行者の生涯の項目をご覧ください。以下、引用します。
------
舒明天皇6年(634年)に大和国葛城上郡茅原郷(茅原村)(のち掖上村茅原、現在の奈良県御所市茅原)に生まれる[注 2]。父は、出雲から入り婿した大角、母は白専女(刀良女とも呼ばれた)。 生誕の地とされる場所には、吉祥草寺が建立されている。

白雉元年(650年)に京の志明院を創建したと云われている。

17歳の時に元興寺で孔雀明王の呪法を学んだと伝わる。その後、葛城山(葛木山。現在の金剛山・大和葛城山)で山岳修行を行い、熊野や大峰(大峯)の山々で修行を重ね、吉野の金峯山で金剛蔵王大権現を感得し、修験道の基礎を築く[注 3]。20代の頃、藤原鎌足の病気を治癒させたという伝説があるなど、呪術に優れ、神仏調和を唱えた。また、高弟にのちに国家の医療・呪禁を司る典薬寮の長官である典薬頭に任ぜられた韓国広足(韓國 廣足)がいる。

文武天皇3年(699年)5月24日[注 4]に、人々を言葉で惑わしていると讒言され、役小角は伊豆島に流罪となる。人々は、小角が鬼神を使役して水を汲み薪を採らせていると噂した。命令に従わないときには呪で鬼神を縛ったという[6]。

2年後の大宝元年(701年)1月に大赦があり、茅原に帰るが、同年6月7日に箕面山瀧安寺の奥の院にあたる天上ヶ岳にて入寂したと伝わる。享年68。山頂には廟が建てられている。

役小角(wiki)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BD%B9%E5%B0%8F …
    • good
    • 0

山伏(修験者)は神社仏閣に所属する僧侶や神職が多く、普段は社会人として働く在家の信者が、「講」を組織して修行の時だけ山伏となることも多い(各地)


山伏が各地の山を修行して回る場合、宿所・食料は里人や寺院の接待に頼った。
国東半島(大分県)では、古からあった山伏修行が復興した。
    • good
    • 0

役行者を追いかけていらっしゃる方です。


私は地元のブログを書いていて、一度コンタクトがあり役行者像を捜した事があります。
同じ名前で本も出版されています。
  
http://ozunu.net/index.html
https://www.amazon.co.jp/%E6%84%9B%E7%9F%A5%E3%8 …
    • good
    • 0

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!


おすすめ情報