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中世ヨーロッパのフランク王国について質問なんですが、トゥール・ポワティエ間の戦いでウマイヤとフランク王国が戦ったと思うんですが、結果としてはイスラームは領土を拡大し、カール・マルテルが食い止めたって感じでちゃんとした勝敗はついてないんですかね?

あと、その後のカロリング朝ではカール・マルテルの子、ピピンがメロヴィング朝を滅ぼしたと習いましたが、この時にはカール・マルテルは既に亡くなっているのでしょうか?
自分の親が支えた王朝をなぜピピンは滅ぼしたのでしょうか?
回答お願いします。

A 回答 (1件)

>トゥール・ポワティエ間の戦い



攻めてきたウマイヤ軍を撃退したわけですから、この戦いの勝敗は、フランク王国の勝利でしょう。この場合の負け=撃退できなかった、ということなので。イスラーム勢力はこの敗北によって、ピレネー以北への侵攻ができなくなっています。
ただ、フランク軍が食い止めたのはピレネー以北への侵攻だけで、それ以外のイスラーム勢力の領土拡大については止めていませんね。トゥール・ポワティエ間の戦いの結果によるものではありませんが。

「メロヴィング朝」というのは、メロヴィング家が王位に就いていた時代のことです。
カール・マルテルはメロヴィング朝の宮宰ですが、宮廷の実権を握り、737年に国王テウデリク4世が死去すると、後継の王を立てず、カール・マルテルが事実上の国王のような状態になっていました。
741年にカール・マルテルが亡くなると、その役職は彼の息子達に継承され、その中でピピン(小ピピン)が他の兄弟を押さえて権力を掌握しました。
743年に即位した国王キルデリク3世に実権はなく、ピピンが実権を握っていました。
父カール・マルテルは宮宰の地位のまま「実質的な国王」でありましたが、ピピンはそれだけにとどまらず、「国王の実権も称号も」自分のものにしようとしたわけです。
そこでローマ教皇の支持を取り付けて、メロヴィング家の国王を追い落として、自分自身が名実ともに国王になった。これが「メロヴィング朝を滅ぼした」ということです。
王朝を滅ぼしたというと「国を滅ぼした」というイメージになるでしょうが、メロヴィング家から国王の地位を奪った、と考えるとわかりやすいでしょう。それはカール・マルテルの時代から、その下地はあったということです。
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