1. 善を損傷させる意志行為とその欠けた善の状態があるのみ。
2. つまり その損傷行為およびその結果の状態を ひとことで悪と呼ぶのみ。
3. どこにも 悪というものが 独立して存在することはない。
4. 損傷させる意志行為は 善なのか? 悪ではないのか?
5. 生命として・生きる存在として・死ではないという意味で その意志行為は 善である。
6. しかし――いかんせん・かなしいかな・神 あわれみたまえかし―― この人間の存在と意志行為は 有限で相対的な善である。
7. 人間は・その精神は――神は ほむべきかな―― 移ろいゆかざるを得ず 朽ちることが可能な存在なのだ。
☆ ご見解をどうぞ。
No.18ベストアンサー
- 回答日時:
①.そうすると そうだとしても 地獄界を表わしているわたしは つねに同時に仏界もが具わっています。
地獄界は わたしを離れてあたかもそれのみが独立した境涯として現われるわけがありません。つまり わたしをとおして 地獄界と仏界とは つねに同時に具わっています。
・仰る通りです。それを『十界具足』といいます。
②.地獄界が現われているとき わたしには 仏界がつねに同時に具わっています。つまり 生命の奥底では 何か一つの境涯が独立してしまうわけではありません。
・仏界がつねに同時に具わっています。⇒『十界具足』
・何か一つの境涯が独立してしまうわけではありません。⇒独立するというよりも、地獄界なら地獄界の様相が現れる。
③.■ ・地獄界だけではなく、十界のそれぞれの境涯は、独立した形で現れるのですよ。だから、当然現れる様相も全く違うのです。
☆ いいえ。十に区分したのだから それぞれが他とは違った様相を表わします。けれども 別々の様相を表わすからといって 他の境涯と――わたしの生命の奥底では――つながっているはすです。
④.☆ そしてそれらはすべて 十界を具えたわたしの心身におこる現象です。わたしを離れて起こるものではありません。十界のそれぞれは わたしにおいて互いにつながっています。
・>わたしを離れて起こるものではありません。
当然です。『十界具足』ですから。
・>十界のそれぞれは わたしにおいて互いにつながっています。
繋がっていたとしても、現れてくるものは一つの境涯です。
ただし、以前にもお話しをした通り、何かの縁に触れ瞬間瞬間と変わりゆくものです。その時その時現れる境涯というものは変わってきます。
⑤.独立ということは 地獄界のわたしと仏界のわたしとがまったく別の境涯を表わすだけではなく 存在がふたつ分離しているということになります。
・なりません。
地獄界にしろ、仏界にしろあなたの生命の奥底にあるのですから。
⑥.十界は 独立国が十個あるのではない。日本なら日本というわたしの国に 十種のあたかも地域があるに過ぎません。
・同上。
地獄界が現われているときにも それが 仏界やほかの界から《分離するかのように独立する》ことは ない。
――これでいいですね。
《独立》という表現は 撤回します。――と言ったらどうなんです?
つまり 地獄界などの《悪》は それが 善と同じように《悪という独立した存在ないしチカラ》としてあるわけではない。
それは 善の損傷として 善の前提のもとにだけ現象する。
《善》とは 仏界の具わった一人ひとりの人間つまりわたしという存在のことです。
――となるはずです。これが この質問の趣旨になります。
No.17
- 回答日時:
>☆☆ >>わたしの地獄界をわたしの仏界とどうして切り離すのですか?
■・切り離すわけではありません
☆ いいえ。次のように述べておられます。
■■ (№13) ~~~
☆ 地獄界などの悪趣は 仏界や菩薩界から独立したチカラなのですか?
・独立した形です。
~~~
■ 地獄界が強ければ、地獄界が出てその様相を表す。仏界が強ければ、仏界が出てその様相を表す。ということです。
☆ そのとき ほかのひとつの法界が現われていなくても じゅうぶん同時に存在しているはずです。つまり 地獄界は 現象としてそのものだけの様相を表わすけれども つねに仏界の具わったわたしの一部として作用しているに過ぎない。
>>わたしの一部として、、、
・そうです。それを、法界というのです。
仏界に、地獄界が含まれているわけではない。
地獄界の様相は、仏界に影響されない。そうした意味で『独立している』と言っています。
もし、地獄界が仏界に影響され、何らかの違った様相が現れるのであれは、それは『仏界』が現れているという事です。
>■ これは、袋に入った、ボールの譬でお話ししました。同じ縁を受けたとしても、その人の境涯によって、現れ方には違いがあるのです。
☆ 現われ方がそれぞれであることは 共通の前提になっています。
・では、こちらは宜しいですね。
>■ 十界というものは、具足ですから、全ての人に十種の境涯が具わっている事は以前にも申し上げた通りです。
☆ でも 地獄界は 《独立した形》で現われるのですよね? ――そこがおかしいのでは?
・地獄界だけではなく、十界のそれぞれの境涯は、独立した形で現れるのですよ。だから、当然現れる様相も全く違うのです。
餓鬼界は餓鬼界の様相を、
畜生界は畜生界の様相を、
修羅界は修羅界の様相を、
人界は人界の様相を、
天界は天界の様相を、
声聞界は声聞界の様相を、
縁覚界は縁覚界の様相を、
菩薩界は菩薩界の様相を、
仏界は仏界の様相を、
各々に現じます。
☆☆ つまり 地獄界は 現象としてそのものだけの様相を表わすけれども つねに仏界の具わったわたしの一部として作用しているに過ぎない。
>>わたしの一部として、、、
■ ・そうです。それを、法界というのです。
仏界に、地獄界が含まれているわけではない。
☆ 十界互具を無視していますが いまは それをも保留としましょう。
そうすると そうだとしても 地獄界を表わしているわたしは つねに同時に仏界もが具わっています。地獄界は わたしを離れてあたかもそれのみが独立した境涯として現われるわけがありません。
つまり わたしをとおして 地獄界と仏界とは つねに同時に具わっています。
■ 地獄界の様相は、仏界に影響されない。そうした意味で『独立している』と言っています。
☆ そんなことは そういう区分をしているからには当たり前です。
《影響される》かどうかは 十界互具の問題です。
■ もし、地獄界が仏界に影響され、何らかの違った様相が現れるのであれは、それは『仏界』が現れているという事です。
☆ 地獄界が地獄界としての様相を呈し・それだけの境涯を意味することは 十界に区分したからには 当たり前です。
地獄界が現われているとき わたしには 仏界がつねに同時に具わっています。つまり 生命の奥底では 何か一つの境涯が独立してしまうわけではありません。
■ ・地獄界だけではなく、十界のそれぞれの境涯は、独立した形で現れるのですよ。だから、当然現れる様相も全く違うのです。
☆ いいえ。十に区分したのだから それぞれが他とは違った様相を表わします。けれども 別々の様相を表わすからといって 他の境涯と――わたしの生命の奥底では――つながっているはすです。
■ ~~~
餓鬼界は餓鬼界の様相を、
・・・
仏界は仏界の様相を、
各々に現じます。
~~~
☆ そしてそれらはすべて 十界を具えたわたしの心身におこる現象です。わたしを離れて起こるものではありません。十界のそれぞれは わたしにおいて互いにつながっています。
独立ということは 地獄界のわたしと仏界のわたしとがまったく別の境涯を表わすだけではなく 存在がふたつ分離しているということになります。
十界は 独立国が十個あるのではない。日本なら日本というわたしの国に 十種のあたかも地域があるに過ぎません。
No.16
- 回答日時:
>☆☆ 仏性が衆生にそなわることと 人が地獄界に落ち入ることとは 別だと言っておられます。
■■・別ではないですよ。
十界(十法界)があるから、仏界もあり、地獄界もあるのです。
☆ つまり 十界があるのは ひとりの人間です。そこに地獄界も仏界もあるのです。
ですから:
■ 十界論をベースに考えるなら、地獄界に仏界は具わりません。
☆ という区分そのものについては言えても わたしたる人間にこそ 地獄界も仏界も具わっているのです。つまり わたしの地獄界をわたしの仏界とどうして切り離すのですか? わたしという同じ存在に言わば同時に具わっているものをです。十界論をベースにしてもです。
>>わたしの地獄界をわたしの仏界とどうして切り離すのですか?
・切り離すわけではありません。地獄界が強ければ、地獄界が出てその様相を表す。仏界が強ければ、仏界が出てその様相を表す。ということです。
これは、袋に入った、ボールの譬でお話ししました。同じ縁を受けたとしても、その人の境涯によって、現れ方には違いがあるのです。
十界というものは、具足ですから、全ての人に十種の境涯が具わっている事は以前にも申し上げた通りです。
■■(№2お礼欄)
【十界】
・・・
この十種の境涯が、【一つも欠けることなく】人(衆生)の生命に具わっている事を『十界互倶』と言います。
◎『十界互倶』⇒これが訂正個所で、『十界具足』となります。
■■(№3お礼欄)
仏教理論の中の『十界論』ですが、人間の生命(命、精神)の奥底にある『法界』を十種に建て分けたものです。
☆ 十界に分けたら その一つ一つの境涯は 独立してしまうのですか? どちらもわたしの生命の奥底にあるものが まさかでしょう。
・上記回答参照。
十種類の境涯の内、その縁によりいずれかが強く出るのです。
しかし、その出た境涯も、永続するわけではなく、次々と瞬間瞬間に変化して行くものです。
☆☆ >>わたしの地獄界をわたしの仏界とどうして切り離すのですか?
■・切り離すわけではありません
☆ いいえ。次のように述べておられます。
■■ (№13) ~~~
☆ 地獄界などの悪趣は 仏界や菩薩界から独立したチカラなのですか?
・独立した形です。
~~~
■ 地獄界が強ければ、地獄界が出てその様相を表す。仏界が強ければ、仏界が出てその様相を表す。ということです。
☆ そのとき ほかのひとつの法界が現われていなくても じゅうぶん同時に存在しているはずです。つまり 地獄界は 現象としてそのものだけの様相を表わすけれども つねに仏界の具わったわたしの一部として作用しているに過ぎない。
■ これは、袋に入った、ボールの譬でお話ししました。同じ縁を受けたとしても、その人の境涯によって、現れ方には違いがあるのです。
☆ 現われ方がそれぞれであることは 共通の前提になっています。
■ 十界というものは、具足ですから、全ての人に十種の境涯が具わっている事は以前にも申し上げた通りです。
☆ でも 地獄界は 《独立した形》で現われるのですよね? ――そこがおかしいのでは?
■■(№2お礼欄) ~~~
【十界】
・・・
この十種の境涯が、【一つも欠けることなく】人(衆生)の生命に具わっている事を『十界互倶』と言います。
~~~
■◎『十界互倶』⇒これが訂正個所で、『十界具足』となります。
☆ 問題は そこではなく 【一つも欠けることなく】にあります。そうであれば 地獄界がほかの仏界などから独立した形だというには どう考えてもおかしい。
No.15
- 回答日時:
>②
■・ここでは、十界論をベースに回答しています。
十界論をベースに考えるなら、地獄界に仏界は具わりません。
☆ 受け容れられません。十界と十界互具とが 別々であるとは考えられません。
仏性が衆生にそなわることと 人が地獄界に落ち入ることとは 別だと言っておられます。
・別ではないですよ。
十界(十法界)があるから、仏界もあり、地獄界もあるのです。
>③.
☆ 精確に尋ねます。
○ 地獄界を例にして十界を取り上げるとき そのときには―― 一念三千は別として――十界互具が関係ないということですか?
☆ そんなはずはないでしょう。
・一念三千法門(十界互具)を用いると、百界となるので面倒ですからここでは十界(十界具足)を用いると言っています。
④.>☆ 十界論は 十界互具論とは別に独立しているのですか? そんなはずはないという意味で 批判しつつ 尋ねています。
■ ~~~
『十界論(十界具足)』というものは、既に法華経において展開されているものです。
『一念三千法門(十界互具)』というものは、天台大師が『十界論(十界具足)』をベースに、より細かく摩訶止観において体系付けたものです。
分かり難くなるために、ここでは『十界論』を用いています。
~~~
☆ どうして 十界を問題にするとき 十界互具が関係ないとなるのですか?
いつ説かれたかは 重要ではありません。結果として どういう理論になっているかが 問題です。
なんで 十界論と十界互具とを分けるのですか?
・説明するのに面倒臭いから。
■■・ここでは、十界論をベースに回答しています。
十界論をベースに考えるなら、地獄界に仏界は具わりません。
☆☆ 受け容れられません。なんで 十界論と十界互具とを分けるのですか?
■・説明するのに面倒臭いから。
■ ・一念三千法門(十界互具)を用いると、百界となるので面倒ですからここでは十界(十界具足)を用いると言っています。
☆ いいでしょう。では 十界論だけで議論するというところまでゆづりましょう。
☆☆ 仏性が衆生にそなわることと 人が地獄界に落ち入ることとは 別だと言っておられます。
■■・別ではないですよ。
十界(十法界)があるから、仏界もあり、地獄界もあるのです。
☆ つまり 十界があるのは ひとりの人間です。そこに地獄界も仏界もあるのです。
ですから:
■ 十界論をベースに考えるなら、地獄界に仏界は具わりません。
☆ という区分そのものについては言えても わたしたる人間にこそ 地獄界も仏界も具わっているのです。つまり わたしの地獄界をわたしの仏界とどうして切り離すのですか? わたしという同じ存在に言わば同時に具わっているものをです。十界論をベースにしてもです。
■■(№2お礼欄)
【十界】
・・・
この十種の境涯が、【一つも欠けることなく】人(衆生)の生命に具わっている事を『十界互倶』と言います。
■■(№3お礼欄)
仏教理論の中の『十界論』ですが、人間の生命(命、精神)の奥底にある『法界』を十種に建て分けたものです。
☆ 十界に分けたら その一つ一つの境涯は 独立してしまうのですか? どちらもわたしの生命の奥底にあるものが まさかでしょう。
こんな面倒な話がありますかいな!
No.14
- 回答日時:
>②■・独立した形です。
☆ ここが この質問のキモのキモです。
では お尋ねしますが 地獄界には つねに仏界が互具されているのではありませんか? それなのに《独立した形》なのですか?
・ここでは、十界論をベースに回答しています。
十界論をベースに考えるなら、地獄界に仏界は具わりません。
>③.■
・一念三千訪問(法門)⇒含まれている。
・十界論⇒含まれていない。
☆ では 十界互具の理論では どうですか?
前回の訂正で申し上げた通り、十界互具の理論⇒一念三千法門ですので、地獄界に仏界(以下9界も)具足され(具わり)ます。
④.>十界論は 十界互具論とは別に独立しているのですか? そんなはずはないという意味で 批判しつつ 尋ねています。
『十界論(十界具足)』というものは、既に法華経において展開されているものです。
『一念三千法門(十界互具)』というものは、天台大師が『十界論(十界具足)』をベースに、より細かく摩訶止観において体系付けたものです。
分かり難くなるために、ここでは『十界論』を用いています。
>②
■・ここでは、十界論をベースに回答しています。
十界論をベースに考えるなら、地獄界に仏界は具わりません。
☆ 受け容れられません。十界と十界互具とが 別々であるとは考えられません。
仏性が衆生にそなわることと 人が地獄界に落ち入ることとは 別だと言っておられます。
>③.
☆ 精確に尋ねます。
○ 地獄界を例にして十界を取り上げるとき そのときには―― 一念三千は別として――十界互具が関係ないということですか?
☆ そんなはずはないでしょう。
④.>☆ 十界論は 十界互具論とは別に独立しているのですか? そんなはずはないという意味で 批判しつつ 尋ねています。
■ ~~~
『十界論(十界具足)』というものは、既に法華経において展開されているものです。
『一念三千法門(十界互具)』というものは、天台大師が『十界論(十界具足)』をベースに、より細かく摩訶止観において体系付けたものです。
分かり難くなるために、ここでは『十界論』を用いています。
~~~
☆ どうして 十界を問題にするとき 十界互具が関係ないとなるのですか?
いつ説かれたかは 重要ではありません。結果として どういう理論になっているかが 問題です。
なんで 十界論と十界互具とを分けるのですか?
No.13
- 回答日時:
①.>>☆ (№4お礼欄)けっきょく十界互具つまり 十界の中のひとつのボールには 十界のそれぞれのボールがふくまれている。
という点■・言われている意味が良く分かりません。
☆ 一念三千を持ち出さなくても 十界互具の理論までをあてはめればよいはずです。
>☆ けっきょく十界互具つまり 十界の中のひとつのボールには 十界のそれぞれのボールがふくまれている。という点を重ねてつけ添えれば よく分かりましたとなると思います。
・これは、質問者様が仰ったこと。
それに対して、、、
>>■ 一念三千であれば、それで良いと思います。
そう反論したまでの事です。
②.>>○ (No.7お礼欄) 苦しみの境涯に浸る悪なる状態は 地獄界という契機(?)が ほかの仏界などから独立してはたらいて陥ってしまうものなのか?
>☆ 《悪は 独立したチカラですか?》
■ 、、、とは? どういった意味でしょうか?
☆ 地獄界などの悪趣は 仏界や菩薩界から独立したチカラなのですか?
・独立した形です。
③.■・生命状態(十界)で言えば、それは悪の要素をもった何らかの生命状態が独立してなるものです。
☆☆ その《独立した悪の要素〔を持った何らかの生命状態〕》は どこから来るのですか? それは 十界の中の一つなのですか?
■・ ~~~
十界の中の一つ、あるいは十界の中の複数の要素が連動しておこります。
例えば:餓鬼界(欲深さ)⇒修羅界(妬み)⇒畜生界(本能)、、、など。
~~~
☆ それは 仏界とは別に独立しているのですか? つまり 十界互具ではないのですか?
つまり 餓鬼界(欲深さ)⇒修羅界(妬み)⇒畜生界(本能)のそれぞれに 仏界がふくまれている・・・のではないのですか?
・一念三千訪問⇒含まれている。
・十界論⇒含まれていない。
※No.7の冒頭において、、、
*****************************************************
『十界互倶』・・・この言葉の意味は、法界に十種の境涯がある事ではなくて、『一念三千法門(天台大師:智顗)』において、『十界の中にそれぞれ十界を具し、百界となる。』。その事を『十界互倶』と言います。
※ただし、ここでは一念三千を用いると、話がややこしくなるのでこの場での訂正に止めたいと思います。
*****************************************************
『十界互倶』⇒一念三千
『十界互倶』⇒十界
という事で、訂正いたしました。
その中で、、、
>※ただし、ここでは一念三千を用いると、話がややこしくなるのでこの場での訂正に止めたいと思います。
と、申し上げました。
④・>☆ 《悪は 独立したチカラですか?》
■ 、、、とは? どういった意味でしょうか?
☆ ②に同じです。
・独立した形です。
②
☆☆ 地獄界などの悪趣は 仏界や菩薩界から独立したチカラなのですか?
■・独立した形です。
☆ ここが この質問のキモのキモです。
では お尋ねしますが 地獄界には つねに仏界が互具されているのではありませんか? それなのに《独立した形》なのですか?
③.■
・一念三千訪問(法門)⇒含まれている。
・十界論⇒含まれていない。
☆ では 十界互具の理論では どうですか?
十界論は 十界互具論とは別に独立しているのですか? そんなはずはないという意味で 批判しつつ 尋ねています。
No.12
- 回答日時:
①.>>☆ (№4お礼欄)けっきょく十界互具つまり 十界の中のひとつのボールには 十界のそれぞれのボールがふくまれている。
という点>■ 一念三千であれば、それで良いと思います。
>☆ 十界互具までは いまの仮説理論なのではないですか?
・言われている意味が良く分かりません。
②.>>○ (No.7お礼欄) 苦しみの境涯に浸る悪なる状態は 地獄界という契機(?)が ほかの仏界などから独立してはたらいて陥ってしまうものなのか?
>■ 多少なりとも関連性は有ると考えます。
>☆ 《多少なりとも》なんですか? 十界互具ではないのですか?
■・何かの『縁』により起こるものです。地獄界が起こすものではない。
☆ 《縁起》というとき その縁に触れて《自分の意志行為として》 地獄界なる悪のほうへ歩み寄る・・・のでは?
《魔が差した》のだとしても 事後においてでも それはわたしの所為です 自業自得ですとみとめるものと考えます。つまりは 悪や魔が 独立したチカラとして起こすものでは ない と。
・>《悪は 独立したチカラですか?》、、、とは?どういった意味でしょうか?
③.■・生命状態(十界)で言えば、それは悪の要素をもった何らかの生命状態が独立してなるものです。
☆ このご意見には 真っ向から反対します。
では その《独立した悪の要素〔を持った何らかの生命状態〕》は どこから来るのですか? それは 十界の中の一つなのですか?
・十界の中の一つ、あるいは十界の中の複数の要素が連動しておこります。
例えば:餓鬼界(欲深さ)⇒修羅界(妬み)⇒畜生界(本能)、、、など。
④.>>☆ 法界を擁する一念三千の全体たる人間存在が――仏界をやどしているからには 善であって その――善なる心身から 地獄なら地獄という悪に陥る。しかもそのとき 善なる主体が 悪を成そうという意志行為としてそう成って行く。――のではないか?
>■・その通りです。
>☆ 一貫しておられません。《悪は 独立したチカラですか?》――これが 問いです。
・>《悪は 独立したチカラですか?》、、、とは?どういった意味でしょうか?
⑤.>・『南無妙法蓮華経』という『仏の当体』であり『法』の事です。
>☆ 法華経・如来寿量品・文底秘沈のブッダとは 普遍神のことです。
いいえ違います。普遍神ではありません。
※これは、以前にも論議している事です。
①.>>☆ (№4お礼欄)けっきょく十界互具つまり 十界の中のひとつのボールには 十界のそれぞれのボールがふくまれている。という点
■・言われている意味が良く分かりません。
☆ 一念三千を持ち出さなくても 十界互具の理論までをあてはめればよいはずです。
②.>>○ (No.7お礼欄) 苦しみの境涯に浸る悪なる状態は 地獄界という契機(?)が ほかの仏界などから独立してはたらいて陥ってしまうものなのか?
>☆ 《悪は 独立したチカラですか?》
■ 、、、とは? どういった意味でしょうか?
☆ 地獄界などの悪趣は 仏界や菩薩界から独立したチカラなのですか?
③.■・生命状態(十界)で言えば、それは悪の要素をもった何らかの生命状態が独立してなるものです。
☆☆ その《独立した悪の要素〔を持った何らかの生命状態〕》は どこから来るのですか? それは 十界の中の一つなのですか?
■・ ~~~
十界の中の一つ、あるいは十界の中の複数の要素が連動しておこります。
例えば:餓鬼界(欲深さ)⇒修羅界(妬み)⇒畜生界(本能)、、、など。
~~~
☆ それは 仏界とは別に独立しているのですか? つまり 十界互具ではないのですか?
つまり 餓鬼界(欲深さ)⇒修羅界(妬み)⇒畜生界(本能)のそれぞれに 仏界がふくまれている・・・のではないのですか?
④・>☆ 《悪は 独立したチカラですか?》
■ 、、、とは? どういった意味でしょうか?
☆ ②に同じです。
⑤.>■・『南無妙法蓮華経』という『仏の当体』であり『法』の事です。
>☆ 法華経・如来寿量品・文底秘沈のブッダとは 普遍神のことです。
■ いいえ違います。普遍神ではありません。
※これは、以前にも論議している事です。
☆ もし普遍神でないとすれば 絶対性ではないとなります。
No.10
- 回答日時:
No.4お礼の回答。
>☆ けっきょく十界互具つまり 十界の中のひとつのボールには 十界のそれぞれのボールがふくまれている。という点を重ねてつけ添えれば よく分かりましたとなると思います。
・今回、一念三千ではなく、十界をベースにしましたので、その点は省きました。仰る様に、一念三千であればそうした書き方になります。そうしようと思いましたが、あえて止めました。一念三千であれば、それで良いと思います。
No.7お礼の回答。
>>○ 苦しみの境涯に浸る悪なる状態は 地獄界という契機(?)が ほかの仏界などから独立してはたらいて陥ってしまうものなのか?
>■ 多少なりとも関連性は有ると考えます。
>☆ 《多少なりとも》なんですか? 十界互具ではないのですか?
・生命状態(十界)で言えば、地獄界の状態を『苦しみの境涯に浸る悪なる状態』というのであって、地獄界に限らず何かの『縁』により起こるものです。地獄界が起こすものではない。では、同じ縁が起きたとしても、菩薩界であれば、全く違った様相を表すのです。
>>○ 悪は悪 善は善として 一念三千の当体たるわれわれここ(個々)の人間においてはたらいている・・・ものなのか?
>■・結果として、善にもなりうるし、悪にもなりうるという事です。
もちろん、『法界』が根底にある以上、そもそもが人間の生命(命)において、既にその要素を持っていると言えます。そしてそれが、結果的に『善』や『悪』になりうる。
☆ いえ。なおあいまいです。《結果として》では 不服です。
>《悪に成り得る》というとき それは 《悪という何らかのチカラが独立してはたらいて 成る》のか? という問いです。
・生命状態(十界)で言えば、それは悪の要素をもった何らかの生命状態が独立してなるものです。
>法界を擁する一念三千の全体たる人間存在が――仏界をやどしているからには 善であって その――善なる心身から 地獄なら地獄という悪に陥る。しかもそのとき 善なる主体が 悪を成そうという意志行為としてそう成って行く。――のではないか?
・その通りです。
>細かく言えば 地獄に落ちるのは 知らず知らずにそう成る場合があるかも知れない。けれど その地獄の状態にあり続けるというのは もしそうだとしたら 人間の意志行為としてそういう状態に居続けることである。――と考えるのですが どうでしょう?
>>人間の意志行為として
①.意思行為というよりも、人間自体がそうした生命状態(境涯)というものが何たるかを知らない。
②.また、そうした状況をどう改善したら良いかという知識を持ち得ない。
③.『人間の意志行為として』⇒どうしていいか分からない。もしくは、『どうにもならない』という諦めの心から何もしない、何も出来ない。
■まぁ、こうした事は一般的には学習しませんから、分からなくて当然かもしれません。
>■付録:
釈尊は、『法華経』の中で何を『善』とし、何を『悪』としたのかと言ば、
法華経を読み、書き、広める事を『善』とし、法華経を謗り、法華経を広める人を誹謗する事を『悪』としています。これこそが、人として最高レベルの『善』と『悪』を意味しています。
☆ 主観としてあり得ましょうが その仮説は一般的ではないですね? 法華経の何がよいのかを明らかにしないと。
・『南無妙法蓮華経』という『仏の当体』であり『法』の事です。
>☆ (№4お礼欄)けっきょく十界互具つまり 十界の中のひとつのボールには 十界のそれぞれのボールがふくまれている。という点
■ 一念三千であれば、それで良いと思います。
☆ 十界互具までは いまの仮説理論なのではないですか?
>>○ (No.7お礼欄) 苦しみの境涯に浸る悪なる状態は 地獄界という契機(?)が ほかの仏界などから独立してはたらいて陥ってしまうものなのか?
>■ 多少なりとも関連性は有ると考えます。
>☆ 《多少なりとも》なんですか? 十界互具ではないのですか?
■・何かの『縁』により起こるものです。地獄界が起こすものではない。
☆ 《縁起》というとき その縁に触れて《自分の意志行為として》 地獄界なる悪のほうへ歩み寄る・・・のでは?
《魔が差した》のだとしても 事後においてでも それはわたしの所為です 自業自得ですとみとめるものと考えます。つまりは 悪や魔が 独立したチカラとして起こすものでは ない と。
■・生命状態(十界)で言えば、それは悪の要素をもった何らかの生命状態が独立してなるものです。
☆ このご意見には 真っ向から反対します。
では その《独立した悪の要素〔を持った何らかの生命状態〕》は どこから来るのですか? それは 十界の中の一つなのですか?
>☆ 法界を擁する一念三千の全体たる人間存在が――仏界をやどしているからには 善であって その――善なる心身から 地獄なら地獄という悪に陥る。しかもそのとき 善なる主体が 悪を成そうという意志行為としてそう成って行く。――のではないか?
■・その通りです。
☆ 一貫しておられません。《悪は 独立したチカラですか?》――これが 問いです。
>☆ 地獄の状態にあり続けるというのは 人間の意志行為としてそういう状態に居続けることである。
■ ①.意思行為というよりも、人間自体がそうした生命状態(境涯)というものが何たるかを知らない。
☆ いや 地獄界ならそれとして――いづれは――知るでしょう。
■ ②.また、そうした状況をどう改善したら良いかという知識を持ち得ない。
☆ でも そこから抜け出る場合すらありますよね? 特別に何もしなくても 地獄界はいやだという心と意志がありさえすれば。
つづく
No.9
- 回答日時:
人が生きる為に動植物を捕食する事…
その破壊行為は善なのか悪なのか?
弱肉強食や種の保存に関わる行為は善行?
殺す事、壊す事の正当な理由は?
生産する事の正当な理由は?
個人によって変わるのか、気分によって変わるのか?
組織や立場で変わるのか?
嗜好によって変わるのか?
一般的な普遍的正義は有るが、絶対では無いでしょう。
嫌な事や痛い事が嫌いな人とその様な行為によって自己の存在を感じる人もいる様に善悪でルールは決められないと思います。
★ 人が生きる為に動植物を捕食する事…
その破壊行為は善なのか悪なのか?
☆ たとえば《動物にとっては 悪だよね》という見解は 《人間が 動物の心(?)を忖度したもの》です。
そのように どこまでも人間原理での判断になります。
この場合は 無記――善とも悪とも言わない――でいいのでは?
(人間の独り善がりではあります)。
★ 弱肉強食や種の保存に関わる行為は善行?
☆ ヤマシサ反応をおぼえる人もいるでしょうね。ただ この反応をおぼえそれに逆らっているという場合にも 生きるという目的があることが そのうしろめたさ感をしのぐでしょうね。
★ 殺す事、壊す事の正当な理由は?
☆ ころすことは 絶対的に《負の善》です。
★ 生産する事の正当な理由は?
☆ 生きることにもとづくんでしょうね。
★ ~~~
個人によって変わるのか、気分によって変わるのか?
組織や立場で変わるのか?
嗜好によって変わるのか?
~~~
☆ ヤマシサ反応は 個人差があるとしても 普遍性があるとみとめ合われて行くものと思います。
★ 一般的な普遍的正義は有るが、絶対では無いでしょう。
☆ 《正義》は ウソです。主観真実までです。
★ 嫌な事や痛い事が嫌いな人とその様な行為によって自己の存在を感じる人もいる様に善悪でルールは決められないと思います。
☆ 感性としてのヤマシサ反応が基準です。
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№10つづき
■ ③.『人間の意志行為として』⇒どうしていいか分からない。もしくは、『どうにもならない』という諦めの心から何もしない、何も出来ない。
☆ 稀ですがあるかも知れない。
■ まぁ、こうした事は一般的には学習しませんから、分からなくて当然かもしれません。
☆ 今回 触れないこととします。
>■付録:
・『南無妙法蓮華経』という『仏の当体』であり『法』の事です。
☆ 法華経・如来寿量品・文底秘沈のブッダとは 普遍神のことです。