▲ (アウグスティヌス:《心の欠けなる傷》について) ~~~
かの全能者は
最初の人(アダムとエワ)からであれ
その後に加えられたわたしたちの意志からであれ
わたしたちに起こっている悪を
その満ちあふれる恩恵によって
滅ぼしている。
(『ユリアヌス駁論』1・5 金子晴勇訳)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ のではないか?
信仰の有る無しにかかわらず。
それでこそ普遍神である。
☆
信仰の〔意識の〕有る無しにかかわらずというのは 《恩恵・めぐみ grace 》には 《只(無料) gratis 》という意味があるということです。
人間の・おのが能力と努力だけによってはなほすことが出来ない場合がある。という含みを持たせています。
一方で わたしたちはそれぞれ悩むわけですが 他方ではそれらの苦悩にあたかも関係なく 知らないうちに知らないところでチカラがはたらき すでに癒されているというなほりである。のではないか?
☆
過去の自分の振る舞いを振り返り反省し または罪を知り悔いたゆえに いのりを通してやっと 恩恵を享けることができるといったみみっちい恩恵ではなく ――つまり 《只》なのですから――《満ち溢れているめぐみ》なわけなのではないでしょうか。
《有料》ではないんですよね。
――という神論です。これを問います。
A 回答 (5件)
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No.5
- 回答日時:
たぶん、議論は無駄。
平行線です。この後、質問者さんの人生に、雷に打たれるような瞬間があり、それこそ神の啓示を受けるような経験がなければ、そのままでしょう。それも、傷ましいことだと思います。
イエス生誕の時、天使に呼ばれたのは、神に捧げる神聖な羊を育てる御料牧場の羊飼いだったそうです。彼らは、救世主を目撃します。呼ばれて、ゆかなかったなら、どうだったでしょうか。
同じように、私達の生活の中でさえ、心を柔らかに保てば、神の力を見ることができます。そして、従順であることが、非常に重要になります。行け、と言われたら、素直に行くのです。
聖書を知ると知らない(ただ理解するだけと霊感を与えられる)とでは、感度が違うと私は思う。釈迦の焼け火箸のたとえのようなものです。
最後の回答にしますので、お礼は短めにお願いします。
★ たぶん、議論は無駄。平行線です。
★ この後、質問者さんの人生に、雷に打たれるような瞬間があり、それこそ神の啓示を受けるような経験がなければ、そのままでしょう。それも、傷ましいことだと思います。
☆ 議論としてなら 聖書にもとづいておこなっています。
★ イエス生誕の時、天使に呼ばれたのは、神に捧げる神聖な羊を育てる御料牧場の羊飼いだったそうです。彼らは、救世主を目撃します。呼ばれて、ゆかなかったなら、どうだったでしょうか。
☆ 御料牧場というのは 初耳です。無知でしかないとすれば したがいますが 考えてみれば 各所帯ごとに初穂は神にささげるんではなかったでしょうか。そして呼ばれたのは 少年たちだった。・・・
★ 同じように、私達の生活の中でさえ、心を柔らかに保てば、神の力を見ることができます。そして、従順であることが、非常に重要になります。行け、と言われたら、素直に行くのです。
☆ アブラム(のちのアブラハム)の事例は 実際上の信仰が かたちを持って始まったというひとつの象徴として話となっているのでしょう。
その前にすでに神は アブラムをえらんでいた――ということです。アブラハムは 神を信じた それで義とされた――というふうにパウロは書いていますが 理論としては かれアブラハムから多くの――信仰上の――子孫を登場させるという神のはかりごとがありました。つまり その中でえらばれた。
人間が:
★ 心を柔らかに保てば、神を見る / 従順であることが重要
☆ といった条件づけにおいて説明する以前に 神にあってはその計画や人をえらぶことは始まっています。
★ 聖書を知ると知らない(ただ理解するだけと霊感を与えられる)とでは、感度が違うと私は思う。釈迦の焼け火箸のたとえのようなものです。
☆ 聖霊がくだるのなら それは神に――その計画の一端をにないなさいというふうにして――えらばれたということです。
★ 最後の回答にしますので、お礼は短めにお願いします。
☆ これは 自己表現の問題ですから いつもどおり普通に応答いたします。
No.4
- 回答日時:
当然にあると思います。
何か,難しい論争をされているようですが,単純に考えればいいのでは?
スミマセン。
ご回答をありがとうございます。
★ 単純に考えれば こころのきずがなほらないことが 当然にあると思います。
☆ ですね。単純に考えるからには そういった直感ないし漠然とした常識であるということでしょうか。
そうですね。
問題は 《こころの》ですよ? 身体の傷は 跡としてでも残りますが 心は どうですか?
すっかり晴れ晴れとした状態になりませんか?
タカマノハラでもめ事があってそこを追い払われたスサノヲであったのですが イヅモに来て 人びとと共にヤマタノヲロチを退治したとき 《吾が心 すがすがし》と言って 全快を宣言しました。
世間と和解し得てわれみづからとも和解できたのではないでしょうか。
富士山の日本晴れは ないですか?
No.3
- 回答日時:
お礼をいただきました。
世俗です。収入の1/10を神に戻せ、すべては神の恵みだから、というのは、旧約聖書にありますか。パウロがコリントの信徒への手紙で、その可否を説明しています。二通目、9:7です。
律法の細かな規定を守れば天国、そうでなければ神は怒るという、律法重視のユダヤ教の常識を覆しに来たのがイエスなのはご存じのはずです。
とても寄付ができなければ、ほんの少しでも良いんです。新約聖書にたとえ話があります。その代り、教会の庭を掃除したり、近所で困っている人に食べ物を分けたりすればよい。神の恵みを返すのは、教会宛である必要はないです。パウロは心のままにせよ、と言っています。
大本の教えをしっかり守っていれば、それでいいんです。”ユダヤ教やイスラム教は規則がはっきりしているから逆に簡単よね。キリスト教はゆるいから、逆に難しい”と嘆いていたキリスト教徒の友人がおります。
洗礼派、ですから、日本ではガチガチの原理主義とみなされています。
ただ、神の存在を”認知する”だけ、聖書を読んで理解するだけでは自然治癒には至りません。生き方を変えてゆくことが、成長に繋がります。神の愛を隣人に敷衍する。
イエスのように生きよ、というのがテーゼですが、彼はいつも人の中にあり、問いかけ、話しかけ、一人一人の、人の心に触れたところが尊いのだと感じます。
他の質問で、他人への善き行為が、偽善にしか見えないとおっしゃる方がおり、どうして彼の心がそんなにかたくなになってしまったのか、痛ましい想いです。
★ 世俗です。
☆ ハスの花もそうだと誰かが言っています。
★ 収入の1/10を神に戻せ、すべては神の恵みだから、・・・パウロ・・・
▲ (コリント後書 9:7 ) 各自は惜しむ心からでなく、また、しいられてでもなく、自ら心で決めたとおりにすべきである。神は喜んで施す人を愛して下さるのである。
☆ 《自ら心で決めたとおりにすべきである》とパウロが言ったから献金するのではなく まして《神は喜んで施す人を愛して下さる》〔とやはりパウロが言っている〕そのためにするのでもないと思います。
(パウロの神観は 参考にしますが 人それぞれにおのが神観があります。支配従属の関係ではありません。そう宣言して パウロを愛します)。
申命記の聖句は 律法が社会生活そのものである場合だと思います。食べてはいけないものの規定があれば それに従うという場合であると。
★ ”ユダヤ教やイスラム教は規則がはっきりしているから逆に簡単よね。
☆ それに コリント後書の場合は エルサレムのユダヤ人クリスチャンたちへの気遣いがあって パウロは献金を――どうしても――奨励するようなニュアンスを出さざるを得なかったかと。
★ 律法の細かな規定を守れば天国、そうでなければ神は怒るという、律法重視のユダヤ教の常識を覆しに来たのがイエスなのはご存じのはずです。
☆ ええ。
★ とても寄付ができなければ、ほんの少しでも良いんです。・・・パウロは心のままにせよ、と言っています。
☆ 原始クリスチアニズムの情況では 《おろかな手段である宣教》が先に来ますし 団結と助け合いが――迫害を受けているのですから おのおのの自由な神観より先に(または神についての主観と同時に)――来ます。
★ 大本の教えをしっかり守っていれば、それでいいんです。
☆ わたしの考えでは はっきり言いますが《オシへは 糞くらえ》ということです。義無きを以て義とす。
★ 洗礼派、ですから、日本ではガチガチの原理主義とみなされています。
☆ 日本人は その問題から 大方の人びとは 自由です。
★ ただ、神の存在を”認知する”だけ、
☆ ここが違います。神が認知するのです。
つづく
No.2
- 回答日時:
キリスト教では、一番大切な概念ではないでしょうか。
神は、私達が、(神を喜ばすようなことを何もしないうちに)私たちを愛してくださった。そして、子をこの世に遣わしてくださった。私たちの罪を許してくださった。
過去も現在も未来もひっくるめて、すべてです。
もう、すでに、許されている、ということです。
ご回答をありがとうございます。
わざと・敢えて・ぶっきらぼうに応答しましょう。
つまり おっしゃる通りであってそのような認識が共有されているとしても・されているにもかかわらず
たとえば 《お賽銭(十分の一税?)が要りますよ。よき信徒はじゅうぶん従っていますよ》とか
《ただしいオシへをきちんとしっかりと学びなさい。そしてようくまもるんですよ。一字一句もおろそかにせずに》とか 言ってません?
もっと言うなら けっきょくすべては自然治癒であるのではないか?
その心は 神は そのような自然治癒に際してまったく口も出さずましてや顔はいっさい出さないでいる ということにあるのですが いかがお考えでしょいう。
デウス・アブスコンディトゥスですが。
No.1
- 回答日時:
全体主義から考えたら
個人の努力や成果って
何の意味も持たないですもんね
成果てのが、利益や不利益どんな益でも
成果ですもんね
でも、資本主義の世の中だと
全体主義では考えられなくなるから
個人の成果は、すべて個人の責任になりますもんね
人の人生
善い事も、悪いことも
全体主義なら
すべての事柄は、bragelloneさんの仰有る
普遍神に帰属するんだけど
個人主義だと
普遍神には帰属しない
( ̄~ ̄;)
お賽銭とか会費とか
個人の財産を提供するのは
社会全体が、資本主義制度や貨幣制度に支配されてるからであって
資本主義制度や貨幣制度があったとしても
心の何処かに
全体主義的な気持ちは持っていたいですね
的はずれになってるかな?
( ̄~ ̄;)
ご回答をありがとうございます。
★ 全体主義から考えたら
☆ ふむ。全体観ですかね。
★ 個人の努力や成果って
何の意味も持たないですもんね
☆ いや。そこまで見通しますか? でもたぶん ふつう 個人(直接たずさわった人たち)の功績という見方よりも――社会悪を犯した場合にも同じような見方がなされ得るごとく―― その組織そして大きく社会や時代といった確かに全体情況のほうの所為だと捉えられるでしょうね。
★ でも、資本主義の世の中だと
全体主義では考えられなくなるから
☆ ええ。それは 褒賞の制度としてですね。それは確かに特定の個人に行きますから。
★ 個人の成果は、すべて個人の責任になりますもんね
☆ 責任ですか。ちょっと 話が大きすぎるようにも感じられますが。
★ すべての事柄は、bragelloneさんの仰有る
普遍神に帰属するんだけど
☆ ということは 社会とその成員の一人ひとりの成果であるとも見られます。個々の人が たたえられます。
★ 個人主義だと
普遍神には帰属しない
☆ 先ほどの褒賞制度ですね。本庶氏なんか 製薬会社に金よこせって言ってますね。
★ ~~~~
お賽銭とか会費とか
個人の財産を提供するのは
社会全体が、資本主義制度や貨幣制度に支配されてるからであって
資本主義制度や貨幣制度があったとしても
心の何処かに
全体主義的な気持ちは持っていたいですね
~~~~
☆ と同時にですね。ここでは 病ひが癒されるという問題を取り上げています。けっきょく簡単に言って 自然治癒なんだと。どうでしょう。
お賽銭で心の傷が癒されるのではなく 無償でという――虫のいい――議論です。
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№3つづき
★ 聖書を読んで理解するだけでは自然治癒には至りません。
☆ 荒れ野で羊を見守っていた少年たちが 《かの人》の誕生のときには――聖書の理解に関係なく――呼ばれました。大いなる自然が オシへより先に来ます。
★ 生き方を変えてゆくことが、成長に繋がります。
☆ それは 人間の考える思想です。
★ 神の愛を隣人に敷衍する。
☆ 無理です。その意図を起こす前に神は ご存じです。
★ イエスのように生きよ、というのがテーゼですが、
☆ 人間の倫理思想にすぎません。
★ 彼はいつも人の中にあり、問いかけ、話しかけ、一人一人の、人の心に触れたところが尊いのだと感じます。
☆ そういう神観は 自由だと思います。
★ 他の質問で、他人への善き行為が、偽善にしか見えない・・・
☆ それは 偽善の問題ではなく 人間の善意・善行が 有限で相対的なものであるという問題だと。
№3お礼欄の補いです。
☆☆ ~~~
★ 大本の教えをしっかり守っていれば、それでいいんです。
☆ わたしの考えでは はっきり言いますが《オシへは 糞くらえ》ということです。義無きを以て義とす。
~~~
☆ すなわち 《義無きを以て義とす》と言ったそのあと 神の場ないしチカラを見るのでなければウソです。