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既成宗教は神や仏について途方もなく大きな勘違いをしていますね。
それは恥ずかしくもなく人間が神と対話できるなどと考えているふしがあることです。
人間が神や仏と対話するなんて絶対にできませんよ。
せいぜい人間が神や仏と対話したい、対話できたらいいななんて願っているだけです。
神や仏は人間のことなど一切気にしてませんからね。
神や仏にとっては人間は道端の石ころと同じなんです。
そんな当たり前のことも知らないから宗教は神や仏に祈ったりするのです?
愚かではありませんか?

A 回答 (15件中1~10件)

おいおい


絵巻物の作者が書いた???ェェェェエエエ~

仏教で、経文の冒頭に置かれる言葉は。如是我聞、とあるんだぜ
「かくのごとく、我聞けり」の意だけど
これが絵巻物かよ

さらに、
経典結集が何度も行われ、仏典を正確に後世に残そうとしたんだぜ
そして、
インドや西域の言葉を鳩摩羅什等が漢字に翻訳したのが
今の仏典だぞ

何処が絵巻物だ

質問者:utayomi_2011さんは
・・・・・・あきれ果てるバカ

おい、戒名について
何処の仏典にでているのか?と聞いたが
言えないのなら、お前はペテン師だ
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神との対話は、御指摘のように


出来る、なんてのは思い上がりだと
思います。

人間とコロナウイルスが対話出来る、なんて
のと同じレベルの問題でしょう。

しかし
仏は人間ですから、対話は
出来ると思います。
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この回答へのお礼

仏なる人間は存在しません。
また仏のよーな人間も存在しないでしょー。
忘れてはなりませぬ。
神や仏の前にあって人間はただの石ころにすぎません。

お礼日時:2020/12/14 15:55

「祈り」と云う行為が神との対話です。

言語です。

言語の習得に努力は必要です。

ただ単に“思ってる”だけでは、進歩は有りません。
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言語ゲーム Sprachspiel. by Wittgenstein

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人間が神や仏と対話するなんて絶対にできません・・????


おかしいな
仏典の殆どは、釈迦(仏)への 人々の疑問や悩みに対し
答えたものなんですが

神や仏は人間のことなど一切気にしてません・?????????
おかしいな
仏典や聖書は、人間の立ち居振る舞いについて、
事細かく記載されているんですが

人間は道端の石ころと同じ・・・????
おかしいな
聖書の何処に、仏典の何処にそんな事が記載されていますか
見当たらないんですが

まさか
「口から出まかせ」ではあるまいな
utayomi_2011さんよ
無知無学無能ぶりをバラまくな、恥ずかしくないか
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この回答へのお礼

>仏典の殆どは、釈迦(仏)への 人々の疑問や悩みに対し
答えたものなんですが

もしも答えたのであれば、それは仏ではございません。
ただの絵巻物です。

>仏典や聖書は、人間の立ち居振る舞いについて、
事細かく記載されているんですが

もしも記載されているのであれば、それは仏ではございません。
絵巻物の作者が書いたのです。

ただいたずらに仏典や聖書をもちだす輩は無知無学無能の輩。
自身の恥も知らず、訳も分からず踊る輩。

お礼日時:2020/12/14 09:58

良くわかりませんが、神仏はそもそも人間が創り出した観念。


 しかもその観念の精神作用について、多年に亙る文化的な行動が形成されている。
 従って、人が対話をする相手は、その人の内なる神仏という観念への対話。但し時にはその観念と向き合うために、神主や司祭(牧師)や僧侶を介することを含む。
 だから、神仏が気にしていないのではなく、祖先に感謝し、子孫の幸福と繁栄を願いたいと気にする人が、その観念に向かって思索を巡らす行為を、ある意味での祈りと考えるならば、「気にする」とも言えるのかもしれない。
 従って、生まれ育った過程の中での特異的な体験が元になっている人間特有の観念行動なので、そのような経験を持たない人(神道経験を持たず、神社仏閣を観た事のない地域の人間)や、天涯孤独で生まれ、天涯孤独で生涯を閉じ、言葉も持たず過ごす場合には、こうした精神文化は出現しないと思います。
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長いですが。



ダビデは 敵ゴリアテを倒したあと人びとの人気が出て イスラエルの初代国王サウルはこれをねたみ始めます。とうとう亡き者にしようと謀ったので ダビデはほら穴の中に逃げます。

史実かどうかを別として そのときダビデがうたったといううたです。

▲ (『詩編』 第142篇) ~~~~~~~~~
http://bible.salterrae.net/kougo/html/psalms.html

ダビデがほら穴にいた時によんだマスキールの歌、祈り

わたしは声を出して主に呼ばわり、
声を出して主に願い求めます。

わたしはみ前にわが嘆きを注ぎ出し、
み前にわが悩みをあらわします。

わが霊のわがうちに消えうせようとする時も、
あなたはわが道を知られます。

彼らはわたしを捕えようと
わたしの行く道にわなを隠しました。
・・・
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

☆ この祈りは 対話なのか? 人と神が互いに語り合ったということなのかどうか。



ダビデは:
▲ (同上:138:3 ) 
あなたはわたしが呼ばわった日にわたしに答え、
わが魂の力を増し加えられました。
☆ とも言っています。名もないただの羊飼いの子であったダビデは その後じっさいに第二代の王になります。それで対話は どうか。果たして 成り立ったのか。



あるいは こうも言っています。
▲ (同上 139:1-4 ) ~~~~~~~~~~~
主よ、あなたはわたしを探り、
わたしを知りつくされました。

あなたはわがすわるをも、立つをも知り、
遠くからわが思いをわきまえられます。

あなたはわが歩むをも、伏すをも探り出し、
わがもろもろの道をことごとく知っておられます。

わたしの舌に一言もないのに、
主よ、あなたはことごとくそれを知られます。
・・・
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~



☆ どうなんですかねぇ。

次のように語っていることなどは ダビデ本人の心の内では あたかも神との対話が成り立ち じっさい言葉が交わされたと言うべきなんでしょうか どうですかねぇ。

▲ (同上:139:7-12 ) ~~~~~~~~~~
わたしはどこへ行って、
あなたのみたまを離れましょうか。
わたしはどこへ行って、
あなたのみ前をのがれましょうか。

わたしが天にのぼっても、あなたはそこにおられます。
わたしが陰府に床を設けても、
あなたはそこにおられます。

わたしがあけぼのの翼をかって海のはてに住んでも、
あなたのみ手はその所でわたしを導き、
あなたの右のみ手はわたしをささえられます。

「やみはわたしをおおい、
わたしを囲む光は夜となれ」とわたしが言っても、
あなたには、やみも暗くはなく、
夜も昼のように輝きます。
あなたには、やみも光も異なることはありません。
・・・
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


☆ 自暴自棄。破れかぶれなる心が 神にあ〔るわが心にあっ〕ては そうは成らない。成らせてくれない。




わたしは この種のあたかも神との語らひについては 絶対性なる神について捉える場合に 特殊絶対性〔とよぶ信仰のたまもの〕と言っています。

一般絶対性とは別だと。つまり 一般絶対性が個々の人にも成り立つ個別絶対性――要するに 人びとみなにとって成り立つ神すなわち普遍神という理論――とは別に ひとりの人間の主観内面それぞれにあって現実に成り立つ心の問題であると。

《非思考の庭――信仰――なる動態》にあって得られる主観たるヒラメキ・観想であろうと。

あ た か も 神との対話が成った。――つまりは 神からの一方的なハタラキカケが その経路は決して知られることなく はたらいた。のだと。

《おおいなる自然史過程》とも 別様に よんでいます。(普遍神を《無い神》とよぶ別派のために。これを置いてきぼりにしたら わたしは 普遍神に叱られます)。
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素朴な疑問として・・・・。



お説が正しければ、「神は存在する。」が、
「人間が祈り、対話をしたいと願う神」は、「神ではない。」と
言う理屈になりませんか?

私は、「無神論者」に近いですが、お説の「神」と、
人間が考える「神」は、
異なるものでは有りませんか?

人間が「神」を求めるのは、「気持ちのやり場や希望」の為の
「ゴミ箱」が欲しいからだと、思っています。

人間にとって、利用価値があると思うので、人間は
「神というゴミ箱」を創造したのでしょう。

しかし、お説の神は、人間とは無関係に、「厳として存在する。」
という事のように思います。
そういう存在を、人間は「神」とは、言いません。
「価値がない。」、からです。

「神は居ない。存在しない。」と主張すれば、
「人間の思考範囲を超越したものだ。」みたいな、主張が
ありますが、そんなもの「人間にとっては、全く価値がない。」
存在でしょう。
価値がないところに「信仰」は、存在できません。

人間がそのへんを遊び回っているとき、「粘菌」は、人間の
存在を感じるでしょうか?

仮に、「粘菌」にも思考が有ったとしても、
人間は「粘菌」にとっての「神」ではないでしょう。

粘菌には、役に立たない、からです。

私には、お説の「神」は、人間が創造した「ゴミ箱の神」と
異なるように思えます。

異なるなら、「馬鹿だ、愚かだ。」と言うのも、無意味でしょう。
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宇宙は存在するという事は神や仏が存在するという事の証明になりません。

いると確証があるなら証明が先です。
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神や仏と言うのは、自分の心の中に座しているものなんだと、多くの人が思ってる。

祈りもそこで行われそこを通じてそこに行き着く。
質問者が想定している神や仏と、みんな(祈る人々)が思ってる神や仏は全然別物だと思うよ。
そこら辺の区別が無いと、いや違う、いや違う、NONONONOしか言えない駄々っ子星人になってしまうんじゃない?

祈る人々は、それを心の中の神や仏との対話と言っても、その言葉の意味を察して、そうとも言えるね、って言うと思うよ。
断じて、人間が石ころや塵芥と同じとかいう虚無的な考えは持たないんじゃないかな。
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