この人頭いいなと思ったエピソード

日中戦争当時、中国には三人の指導者が居ました。毛沢東、蒋介石、汪兆銘の三人です。毛沢東は中国人を何千万人も殺したのですから、言うまでも無く指導者として失格です。

蒋介石はその毛沢東と結託し、大日本帝国陸軍と戦い、黄河決壊事件を起こしました。これにより、水死者は100万人に達しました。この死者は、聖書の「ノアの洪水」を除けば史上最大です。

その結果、河南省では水旱蝗湯(すいかんこうとう)と呼ばれる水害、旱魃、イナゴの発生(蝗害)、および湯恩伯による重税により、300万人あまりが餓死した[32]

河南省の人々は日本軍を支持し、日本軍に敗れた中国兵がいたるところで民衆によって襲撃、惨殺、あるいは掠奪され、武器は勿論、衣服までも剥ぎ取られた。3週間以内で日本軍はすべての目標を占領し、南方への鉄道も日本軍の手に落ちた。この結果、30万の中国軍は全滅した。

これでは、蒋介石も指導者としてはダメですね。

つまり、日本軍を支持した汪兆銘だけが、中国の指導者としてふさわしい人物だったということですね?
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汪兆銘政権
1940年3月30日から1945年8月16日にかけて存在した、中華民国の国民政府。日中戦争における日本軍占領地に成立した親日政権。行政院長(首相)は汪兆銘(汪精衛)、汪の死去の1944年11月死後は陳公博が行政院長となった。

標語は「和平・反共・建国」。首都は南京。最大都市は上海。政府は中華民国国民政府と称されていた。中華民国南京国民政府の名で呼ばれることも多い。

汪兆銘政権の中華民国は、一党共和制国家として統治されていた。蒋介石のライバルであり、国民党の平和派であった汪は日本側に亡命し、1940年に占領下の南京(中国の伝統的な首都)で合作政権を樹立した。

質問者からの補足コメント

  • つらい・・・

    戦争の勝者が敗者を裁いた裁判に、古来、正当なものは有りません。

    戊辰戦争後の裁判も同じでした。
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    小栗 忠順(おぐり ただまさ)は、江戸時代末期の幕臣、勘定奉行、江戸町奉行、外国奉行。

    安政7年(1860年)、日米修好通商条約批准のため米艦ポーハタン号で渡米し、地球を一周して帰国した。その後は多くの奉行を務め、江戸幕府の財政再建や、フランス公使レオン・ロッシュに依頼しての洋式軍隊の整備、横須賀製鉄所の建設などを行う。

    同年閏4月、薩長軍の追討令に対して武装解除に応じ、自身の養子をその証人として差し出したが逮捕され、翌日、斬首。

    のちに、明治政府中心の歴史観が薄まると小栗の評価は見直され、大隈重信や東郷平八郎から幕府側から近代化政策を行った人として評価されている。司馬遼太郎は小栗を「明治の父」と記した。

    No.1の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2020/12/23 11:02

A 回答 (1件)

第二次世界大戦の連合国によるポツダム宣言六條に基づき、極東国際軍事裁判所条例第五条(イ)項により定義された戦争犯罪に 引っ掛かり 、極東国際軍事裁判(東京裁判)により 早死の沙汰 を言い渡された者の肩書きを見るにそれらの者が多い。

それらの徴兵煽動に巻き込まれ戦地で爆死・流血死した者餓死した者更に多いとあるような。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

戦争の勝者が敗者を裁いた裁判に、古来、正当なものは有りません。

戊辰戦争後の裁判も同じでした。
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小栗 忠順(おぐり ただまさ)は、江戸時代末期の幕臣、勘定奉行、江戸町奉行、外国奉行。

安政7年(1860年)、日米修好通商条約批准のため米艦ポーハタン号で渡米し、地球を一周して帰国した。その後は多くの奉行を務め、江戸幕府の財政再建や、フランス公使レオン・ロッシュに依頼しての洋式軍隊の整備、横須賀製鉄所の建設などを行う。

徳川慶喜の恭順に反対し、薩長への主戦論を唱えるも容れられず、慶応4年(1868年)に罷免されて領地である上野国群馬郡権田村(群馬県高崎市倉渕町権田)に隠遁。

同年閏4月、薩長軍の追討令に対して武装解除に応じ、自身の養子をその証人として差し出したが逮捕され、翌日、斬首。

のちに、明治政府中心の歴史観が薄まると小栗の評価は見直され、大隈重信や東郷平八郎から幕府側から近代化政策を行った人として評価されている。司馬遼太郎は小栗を「明治の父」と記した。

お礼日時:2020/12/23 11:01

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