一回も披露したことのない豆知識

1. 《信じる》とは 人知を超えたナゾの何ものかを 無条件で無根拠にてわが心に受け容れること。

2. 対象は――ふつう《かみ》と呼ばれているが―― やはり認識を超えている。認識を超えているものを 唯一か多数かで判別しいづれを採るにしてもその説を絶対性のもとに捉えることは あり得ない。

2-1. その対象――つまり神――が 《有る》か《無い》かについて 人間が規定することなどは お呼びでない。

2-2. わづかに《神は存在するんだ》とか《神がいるわけないぢゃん》とかとそれぞれ互いに自由に忖度するのみなのだ。

2-3. 人間の信じる神は じんるいに共通の絶対性たる普遍神でしかなく その絶対性には 人間にとっての――思惟・行為にかんする――よき自由度がある。


3. 信仰に 排他性はない。あり得ない。

4. ここから 《要らんもん》を派生させるべきではない。そうするのは どこのどいつぢゃ!?


☆ ご見解をどうぞ。

A 回答 (2件)

3と4に関して、信仰するあまりに自分の信仰と異なる信仰をする者を排除し憎みテロをしかけて殺そうとする者がいます。

「信仰に 排他性はない。あり得ない。」のでしょうが、現実には、信仰が排他性を伴う場合があります。
信仰の過程で《要らんもん》を派生させる者がイスラム原理主義を唱えるグループの中に居る様です。
《信じる》対象は、父や母や兄弟姉妹、友人、恋人などの場合もあります。これらを無条件/無根拠/無批判で我が心に受け入れる場合です。
悲しい事に信じていたのに裏切られる事も多々あります。
回答は、ここまでです。全くの別件ですが下記のブログを御覧戴ければ幸いです。
http://blog.livedoor.jp/satou_hiroshi_4649/archi …
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


★ 3と4に関して、信仰するあまりに自分の信仰と異なる信仰をする者を排除し憎みテロをしかけて殺そうとする者がいます。
☆ 現実は そう見えます。しかしながら それは 信仰の問題ではなく 信仰からオシへを抽出してそれを信奉する宗教のそれだと見ます。


じっさい信仰は いくら考えても:
★ 自分の信仰と異なる信仰
☆ といった識別は 無理なのです。《非思考》なのですから。

識別できるというのは 宗教のオシへのほうなのです。思考において弁別され得るということです。



★ 「信仰に 排他性はない。あり得ない。」のでしょうが、現実には、信仰が排他性を伴う場合があります。
☆ 信仰という名を借りた宗教運動家ですね。


★ 信仰の過程で《要らんもん》を派生させる者がイスラム原理主義を唱えるグループの中に居る様です。
☆ 《オシへ》となると――つまりは 思考すべき思想を無条件で受け容れるとなると(つまり 信じるとなると)―― 《余計な夾雑物》が付いてきます。


★ 《信じる》対象は、父や母や兄弟姉妹、友人、恋人などの場合もあります。これらを無条件/無根拠/無批判で我が心に受け入れる場合です。
悲しい事に信じていたのに裏切られる事も多々あります。
☆ 非経験なるナゾではなく 経験事象(つまり たとえば人間や思想)を《信じる》となると・・・というよりは それは《信じる》ではなく 《考えたことを絶対だと思い込む》ことなわけです。

《信じる》の原義から 派生した用法ですね。《人間を信じる》という表現は。



あなたの思想については 質問とからませてくれるとよいかと思います。

自然科学のお話は いまひとつ食指が動きません。(苦手ゆえ)。

お礼日時:2020/12/20 09:29

流石は、大学院に進まれた方だと思っています。

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この回答へのお礼

《信じる》に排他性は ない。

――このように直接明言したことはなかったので 事項をあらためて問いたいと思いました。



ご回答をありがとうございます。




オシへを信奉する宗教には 自己の絶対化や排他性が生じますね。

お礼日時:2020/12/20 08:34

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