システムメンテナンスのお知らせ

目に見えないものを哲学する時間です
(。-人-。)

人の心や精神など、日頃考えてる
このシリーズなんですが!

今回は、ちょいと別枠を儲けてみました

今回の哲学の御代は!
【民主主義】Σ(゜Д゜)確かに見えないね

国民が主になってるこの主義なんですが!

皆様は、どのように目に見えてますか!

ワシも日本に産まれて、育って
46年
色々と人生経験をしてきたけどね
今さっき、この日本的な民主主義について
教えられた事柄があったんですよ

ちょいと、落ち込むような内容なんですけどね

日本的、民主主義とは

国民が主になって働く
Σ(゜Д゜)当たり前じゃねえかょ

はい、ここまでなら。当たり前でね
国民が困ることを、国民がみんなで投票して
代表を決める!
Σ(゜Д゜)さらに、当たり前じゃねえかよ

確かにですね
国民の代表が、陣頭指揮をとって
国民のすみやすい街づくりをする
Σ(゜Д゜)当たり前じゃ~このボケ、なにを当たり前のことを話してるんじゃ

はい、ここら辺から
嫌な話になるんだけどね

国民の代表が、国民に奉仕するための人達の陣頭指揮をして
すみやすい街づくりをするてのが
日本的な民主主義なんですけどね

かりにね、
国民の代表が、国民に奉仕する人達のすみやすい街づくりをしてたら

泣けてきませんか?

コロナ対策の200兆円も、国民に還付されたのはわすまかでね

大半は、国民の代表と仲良くしてる人達にいきわたってるみたいだし


国民に奉仕する人達は、仕事がなくなる訳でもないから
収入が途絶える心配もないから
コロナ対策の費用が、どんな風につかわれても
別に、気にもとめないもんね
ボーナスもでるみたいだしね
すみやすい街だもんね

大昔に、国民の代表を、まったく違う人に切り替えたけど

この国民に奉仕する人達に
あっさりと支配されて

無能な醜態をさらしまくったのは
記憶にあるとは思うんですけどね

すみやすい街づくりのお金って
誰が稼いでるの?
企業なの?
代表なの?
奉仕する人達なの?
違うよね、民主主義ですもんね
( ;∀;)
だからこそ、【働いたら負け】なんてな言葉もあるのが皮肉にも事実にも思えてしまい
転売ヤーが増えるのも納得しますね


さてさて、前ふりがながくなったけど
質問です

民主主義の民主って
本質的にはなんなのか?
( ̄~ ̄;)なんだろね
人生経験を踏まえた上で、回答を頂けると助かります!

でもね
日本的民主主義が、やはり大好きでね
社会主義や共産主義なんか
糞喰らえだと思ってるから

そこら辺は、御理解頂いたうえで
御回答お願いしますね。

ちょいと難しいお題だけど
気軽に思うことを回答していただいても
個人的には
質問の手助けになりますので
軽い回答なんかもおまちしてますね

質問者からの補足コメント

  • ベストアンサーは
    もちろんこちらの方に
    (  ̄▽ ̄)にっこり

    沢山の話を(^人^)感謝いたします

      補足日時:2021/01/07 05:59
gooドクター

A 回答 (9件)

ここに、普段は隙があれば掠め奪るのに長けた野良猫がいて、その時、食べ物を目の前に見せても見向きもしないならば、その猫は空腹ではないと人は判断する。


けれども、暗くてし湿っぽい隠れ場所に凝じっと踞うずくまったまま数日も食べ物を摂ろうとしないならば、病気で食欲がなく体力が落ちて動けないのだ、と思うかも知れない。
無理矢理にでも食べさせてやりたいと猫の口をこじ開け流動食を流し込もうとする。
猫は固く歯を食い縛ったまま決して食べようとはしない。
ひどくすると攻撃の身振りをする。
猫は食べないのだ。
病原体の侵入を受けた猫の身体は、その身体を生き延びさせる食物を摂取しない事で同時に細菌への栄養補給を遮断する。
そうした戦略を採っている。
うまくいけば、衰弱と引き替えに猫は病気から帰還できる。
衰弱を持ちこたえる事ができなければ、侵入者と共に猫の身体も死に陥おちいる事になる。
 勿論、言語というものを持たない猫に、私たちが理解できる範囲における判断 - 選択があるのかどうか、計り知る事はできない。
また、猫は食べない事が、病原体との闘いであるのだと知っているわけではない(だろう)から、病原体を殺すために食べないのではないだろう。
更に、病気の苦痛や病気の苦痛をどう受け止めているかもわからない。
ただ単に、病気のもたらす消耗のために食欲が起きないのかも知れない。
だが確かに、猫は今、空腹を欠如としてではなく、あたかも痒みのように身体と親和しつつ空腹を生きているのだ。
外側から食物を提供される、その誘惑に耐え、怒りながら、怯えながら、猫の身体は差し出された食物を拒否する。
この時、空腹はもはや欠如ではい。
徹底した無力さの中に在りながら、猫は完全である。
イデアとしてではなく、その猫がその猫として健康に完全なのである。
 誤解してはならないのは、猫と身体が親和して内部で生きているというのが、外部を遮断し内側に閉塞しているのではないという事だ。
外部(環境)と絶えず接触し、鬩せめぎあい、拒否し、手を差し伸べ、自らの身体をも一旦外部として晒しつつ引き戻し、この往還おうかん運動を繰り返し、怯えながら判断 - 選択の過程を生きる。
過程の騒めきを自らのエコロジー的配置とする。
疾病を蒙こうむっていようが、狂気を生きていようが、また仮に障害があろうが、そうゆう事には関わりなく健康な身体とはこうゆう事であるのではないか。

 自分の身体は自分のものである、という事の自明さはこうして不意に揺らぎ始める。
 価格切り下げ商品として自己決定権論(?)が或る種の退屈さを伴った違和感を抱かせるのは、判断 - 選択の過程を切り取った時に瞬時あらわれる結果としてに過ぎない決定に物質性を与え、それを主体なるものに押し付け覆い被せてしまう。
その陰険な作用をどこかに隠蔽しているからである。
しかも、他者危害排除の枠組みを設定し、その領域内に於いては個人の自由(?)を保証するという事とは逆に、その領域を踏み越えたものを調整・処罰する機関と装置、究極的には強い国家と法を必要としているのだ、という前提すら不可視のものにしている。
この国家こそが、自由決定権では所与として在る。
勿論周知のように自由主義に於ける他者危害排除の原則は、元来国家の個人への介入を制限するものであった筈であるが、しかしこの事は既存の国家(実体としてではなく作用としての)を所与として認定、確認しているに過ぎない。

 身体としての存在が様々なレベルで交差する現実平面に於かれている以上、私の行為は、他者との関係性の中にあるのであって、つまりは他者と無関係に行為する事はできない。
他者危害排除といった場合、現実に危害は法によってしか定義もしくは線引きされ得ないが、その線引きが言語によってなされるから、あらゆる解釈が差し挟まれる。
過度の煙草やアルコールは身体に悪影響をもたらす。
その情報は公開されているから、自分の決定 - 責任に於いて自由に摂取しなさい。
たとえそれで肺癌になろうがアルコール依存症になろうが、他人に危害を与えない限りあなたの責任に帰すべきものです。
あなたはそうゆう社会と契約しているのだから…。
 ではいったい、隣人の喫煙により喘息が悪化したり副流煙の「被害」(?)を蒙ったり、アルコール依存症に起因する暴力を受けたとするならば、それは危害ではないのか(?)国家 - 法と、責任を取りうべき法的主体である個人(したがって、法的主体としての個人である資格の線引き、選別もなされるし、個人の持つ様々な揺らぎは遥か後景に退けられるか、白日の属性として鞣される)との二者関係に過ぎないのか。
そしてまた、規制か自由かの二者択一の場しか与えられていないのか(因みに、ここで規制を求めているのでは断じて、ない)。
そもそも、いつ如何なる時に、社会と契約したか(因みに、象徴天皇制を基盤とする日本国憲法に対して、いつ如何なる時に総意を問われたか(?)。
何ゆえ、自己決定権という名目でシュガーコーティングされた代物を押し付けられ、かつ、自己決定権を決定(?)するかどうかの選択まで迫られなければならないのか。
その目論見は何なのか。

 臓器移植や出生前診断、あるいは労働契約…、それらが自己決定権の領域で語られる時「…しない」というのは拒否、即ち否定形で語られる、その事自体が、自己決定権というリングに予めのジャッジが下されている事を暗喩している。
しかも「命の尊重」や「相互扶助」「社会的利益」と刻印され、水膨れした擬制資本である身体を掛金として競技するという無言の脅迫下で。
システムの座標の中に分類され定地点に掣曳され、繁留された身体に見せかけの自由を投擲とうてきする暗殺者の企み…、反射的に受け止めた手をどの法廷に召喚しようというのか。

 生成しては消滅しゆく無数の事物の群れを観察し、呼応し、一瞬一瞬に判断 - 選択を繰り返しながら、他者との連関の中に働きかけ、偶然性に賭けて身体を途上の時間に浸透させていく過程、点滅する光りが連続した明るさに見えるように。
それこそが健康な営みなのだ。
欠如ではなく、怯えのさなかを徹底的に無力に生き抜く事。
この無力さは、暴力に対する無力感ではない。
暴力を認定するのではなく、観察する事によって、怯える事によって、そしてまたその怯えを観察される事によって、暴力が暴力であると闡く事。
と同時に、倦怠した解釈の「正しさ」に停留する事を回避し、定量分析され得ない偶然の狭間に在るという事において、無力さを生きる事。
饐すえた臭いを放つ廃墟のような図書館へ埋葬された本の、頁に書き込まれた文字の余白を、そう、紙魚のように。

 本に印刷された文字が紡ぎ出す意味の世界とは全く関係なく、しかし本という物質が閉ざす世界の中に在り、惨めで詫びしいものでありながら、頁に潜み、蠢うごめき、ざわめき、空腹に導かれるまま、紙を食い破り、いつかしら本を解体させていくもの…。

 それは、空腹を抱えた人々の生の運動にも似る。

 世界がどのように論じられ、意味付けられ、価値の階梯かいていが構築され、その中で様々な存在が配置され、類として序列化されても、そうゆうものとは関係なく、私はここに在り、生きるものの傷みとして空腹を抱え、這いずり回り、空腹を満たすために、他者を認識し、志向し、欲望し、拒絶し、接触し、干渉し、交差し、衝突し、恊働し、変形し、絶えず変化しながら運動している。

 雑踏の片隅で、閉ざされた雪山で、戦場で、紡績機の傍らで、路上で、あるいはひりつくような苦痛にかられ、あるいは獰猛な欲望の荒れ狂うままに、あるいは虚脱して、あるいは退屈なままに、あるいは幸福な思い出に浸りながら、様々な人々の様々な生、その生を繋ぎ、他者へと踏み出させる空腹。
無言で這いずり回る紙魚にも見紛みまがって。

雑賀恵子女子「空腹について」
    • good
    • 0
この回答へのお礼

空腹とは
満たされるべきであるけど

満たされても、自然とまた空腹になりますもんね

自由や権利を歌ってても
やはり
その日、その日に!食べられる環境が
どんな制度や、どんな国家体系にも

求められますもんね

民主主義制度の日本で
余程の事がない限り
餓死で死亡するって
おこりえなくて、実際に報道されないだけで
人知れず、亡くなってる方もいてそうなんですが!
自己決定権は与えられてますもんね

どのように生きるのか
社会の枠組みの中で、人それぞれ
思い、悩み、考えたりするのが
今の制度ですもんね
あえて、社会の枠組みの外に居てる方々なんかも居てますが
社会の枠組みの外っていっても
それなりに、社会の枠組みには収まってるのが
現実的な話ですもんね

社会の枠組みを考えながらでも

空腹に気付かされる自分自身が居てることに
ちょいとびっくりしましたよ

沢山のご回答!ありがとうございました
(  ̄▽ ̄)にっこり

お礼日時:2021/01/06 10:34

生きものが生きるためには、他の生きものの存在が必要である。


生命体が生存する事 - 生き存らえる事というのは、個体としても種としても環境の中で生命活動を継続させる事であるが、その環境というもの、例えば大気組成を成形し(地球規模では変化させ)ているもの、多種多様な生命体の存在とその生存活動があっての事であるので、生命体は、他者との関係性の中でしか生きられないし、生きてはいない。
 したがって、他者との存在という意味では、根源的にはすべて共に生きているわけであるが、生態学的でいう共生関係というのは、広義では異なる種の個体同士が一緒に生きていく事であり、狭義では、その共生関係によって双方が自分の子孫を増やしやすくなる事(双利共生関係)である。
(松田祐介『「共生」とは何か 搾取と競争をこえた生物どうしの第三の関係』現代書館 1995)。
双利関係といっても、両者が全く同じ利害を持つ事ではなく、それぞれの利害に基づいて生きていながら相手がいる事でそれぞれの利益を得ている関係の事である。
ところが、実際には両者が共に相手から共に利益を得ているかは、疑わしい事が多いという。

 詩人、石原吉郎は、ある種の共生、そうしなければ生きていけない瀬戸際に追いつめられて、切羽詰まったかたちで始まった共生、しかし、いったん始まってしまえば、それは、それ以上考えようのないほど強固なかたちで持続する他に、しかたのないものになるもの、そうした「共生」を、連帯の中の孤独についての、すざましい比喩である、という。

 「奇妙な『共生』の経験」
八年に及ぶシベリア抑留で味わった数々の苦痛のうち最大のものであった徹底した飢えと、しばしば夜間に及ぶ過酷な労働の中で、収容所にうまれてきた「共生」の記憶から、彼はそう思うのである。
 食事は、いくつかの作業班をひとまとめにして順繰りに行われたが、食器(旧日本軍の飯盒はんごう)が極端に少ないため、二人分を一つの食器に入れて渡される。
そこで、これを受け取るため、抑留者はやむを得ず、食罐かん組と呼ばれる事になる二人ずつの組を作ったが以降この「共生」は、親しい者と組んでも嫌いな者と組んでも食料の絶対的な不足の元では、相互間の不信を拡大させる結果になる事は同じだった。
飯盒はんごうの三分の一にも満たない粟粥あわがゆは、ほとんど奪いあわんばかりの勢いで、あっという間に食い終わってしまう。
こうゆう状態が長く続けば、腕ずくの争いにまで到りかねない事を予感して、できるだけ公平な食事がとれるような方法を考えるようになる。
厳密に同じ寸法の匙さじを手に入れ、交互に一匙さじずつ食べる。
しかし、同じ大きさの匙さじを二本を手に入れる事はほとんど不可能であり、相手の匙さじの掬すくい加減を監視するのは煩わずらわしく、長続きしなかった。
飯盒はんごうの中央に仕切りを立てて、内容を折半する方法も考えられたが、均質の粥かゆの時はいいけれども、豆類などのスープの時は、公平に両分できず、仕切りの両側からスープが逃げてしまう。
最後に考えついたのが、空罐あきかんを二つ用意して飯盒はんごうから別々に盛り分ける方法で、一人が分配している間中、相手は瞬きもせずに相手の手許てもとを凝視している。
傍目はためにはお互いに憎み合っているとしか思えないはど、相手の手許てもとを睨にらみ付けている。
長い時間をかけた分配の後、次にどちらの空罐あきかんを取るかという問題が残り、これにも、様々な方法が考えられる。
 食事の分配が終わった後の大きな安堵感は、実際に経験した者でなければわからない。
この瞬間に、私たちの間の敵意や警戒心は、まるで嘘のように消え去り、無我に近い恍惚状態がやってくる。
もはやそこにあるものは、相手に対する完全な無関心であり、世界の最もよろこばしい中心に自分がいるような静寂である。
私たちは完全に相手を黙殺したまま「一人だけの」食事を終わるのである。
 (石原吉郎「ある『共生』の経験から」『日常への強制』構造者 1970)

 食べ物を分け合う事の、それは分かち合いというわけではなく、お互いがお互いを決して信じる事なく、人間に対する不信、自分を含めての強い不信感に支配され、信じるとするならば、自分の生命を維持するために、ただ生きるために、その事のためだけに、それぞれが孤独に行為しているという事のみであり、憎悪があり、その憎悪は抑留者をこのような非人間的な状態に拘禁こうきんし続けるものに直接向けられる事なく同じ抑留者、それも身近にいる者に対しあらわに向けられるものであり、それは無限に進行して留まる事を知らない自己嫌悪の裏返しであり、その憎悪とはつまり、当然向けられるべき相手への潜在化した憎悪の代償であり、そして、結局自分一人の生命を維持するためには、相対するもう一つの生命の存在に「耐え」なければならないという認識に辿り着き、人間は全て自分の生命に対する直接の脅威として立ちあらわれた場所で、不信感こそが、人間を共存させる強い紐帯ちゅうたいである事を、彼らは学びとる。
「お互いがお互いの生命の直接の侵犯者である事を確認し合った上での連帯であり、許すべき者を許したという、苦い悔恨の上に成立する連帯である」。
ここには人間の間の安易な、直接の理解はなく、しかし、何もかもお互いに分かってしまっているその上で、堅い沈黙の内に成立する、連帯。
憎悪すらも承認し合った上での連帯。

これが謂わば、孤独というものの真の姿である。
孤独とは、決して単独な状態ではない。
孤独は、逃れ難く連帯の中にはらまれている。
そして、このような孤独に敢えて立ち返る勇気を持たぬかぎり、如何なる連帯も出発しないのである。

無傷な、よろこばしい連帯というものは、この世には存在しない。

コイノニア
 分け前に預かり、共にある事。
交わり。
 しかし、この言葉の動詞形コイノーは、共有する、という意味のほかに、汚す、汚れるという意味も含んでいる。

 身体を持った人間の、確かにそれは、物質としてあるのだから、他者と交差し、交通し、干渉し、衝突し、その中で、変形し、傷つき、汚れ、汚れに塗れ、他ならぬこの私と等しく、他ならぬものとして立ち現れてくる他者の、剥き出しにされた絶対の他者性に凍りつきながら、時には他者が存在するという事そのものの脅迫に後じさりし、時には何をするか理解できる筈もない他者の何一つも信頼できないまま、立ち竦すくみ、怯え、或いは踏み出し、賭けようともし、ただ生きる、呼吸を止める事なく、生きる意志、ここに生の場所を確保する事、その事は、絶対の他者と共に在る事であり、共に在らねばしえない事であり、選択し、判断し、行為する中から、今、ここに、生きる場所に、それぞれの行為のやりとり、往還おうかん運動から、泡立ち、生起してくる、生きる仕方、共に生きる仕方。

 分け前。

 それは、他ならぬこの私たちの生から、生きようとする意志の中から、共に生きる仕方から、迸ほとばしる恩恵、悦よろこばしさ、なのである。

雑賀恵子「空腹について」
    • good
    • 0
この回答へのお礼

今の世の中で
共存共栄なんて、軽々しく使われるけど
共生の実態を考えたら
確かに、孤独てな言葉にたどり着きますね
ウイルスや寄生虫、病原菌なんかでも
人知れず、人間の体のなかで生息したりもしてますもんね
なら、人と人との共生とは
奇妙な共生に描かれてる話なんかは
特殊な状態だと思うのか
今の世の中でも、ひと皮剥いたら!
同じような事なのか!
ちょっと考え込んでしまう話ですね
分け前をしっかりと明記された
共生なら
それなりに、信頼や信用を発生させるのか?( ̄~ ̄;)
分け前を貰うために
今の民主主義だと
共生てな社会体制のなかで
孤独に陥ってる人や
他人より多くの分け前に預かりたい人も
(多くの分け前を貰うために、資本主義の理念に沿って努力しますもんね)

人だからこそ共生と孤独

考えさせられました
(^人^)感謝いたします

お礼日時:2021/01/06 10:21

大衆の時代を表現するとしたら、それは「慢心しきったお坊ちゃん」の時代と言ってもよいだろう。


大衆人は、生は容易であり、有り余るほど豊かであり、悲劇的な限界を持っていないと感じている。
大衆人は、自分自身の中に支配と勝利の実感があることを見いだし、こうした支配と勝利の実感が、大衆人にあるがままの自分を肯定させ、自分の道徳的、知的資産は立派で完璧であると考えさせる。
そういう認識は根本的に誤りであることに、大衆人は気づかないのである。その姿は、「慢心しきったお坊ちゃん」そのものである。

この自己満足の結果、大衆人は、外部からの一切の示唆に対して自己を閉ざしてしまい、他人の言葉に耳を貸さず、自分の見解になんら疑問を抱こうとせず、自分以外の人の存在を考慮に入れようとしなくなる。
大衆人はあらゆることに介入し、自分の凡俗な意見を、なんの配慮も内省も手続きも遠慮も無しに、「直接行動」の方法に従って強行しようとする。

こうした行動や態度は、「甘やかされた子供」と反逆的未開人、つまり、野蛮人に似たある種の不完全な人間のあり方を想起させる。
正常な野蛮人は、彼らより上位にある審判、つまり宗教、タブー、社会的伝統、習慣など、に従順な者である。

大衆人は、生まれながらにして、効果的な道具、薬、国家や快適な権利に取り囲まれた自分を見る。
自分の生まれる前にすでにこうしたものは生まれていたのであるが、こうしたものを発明することの難しさやそれらの生産を将来も保証することの困難さを知らない。

国家という組織は、知性があり正しく意思した者が与して初めて維持できるものであるが、それがいかに不安定であるかに気付かないし、自己のうちに責任を感じることもない。

生きる者としての根源から真正さを奪い取り、自分自身をも腐敗させてしまう。
「慢心しきったお坊ちゃん」 つまり、自分が好き勝手をするために生まれてきたという錯覚に囚われている。
自己の運命から逃れ、運命の明白さと深い呼びかけに対して目と耳をふさぎ、自分がこうあらねばならない姿との対決を回避する。
自分の運命という確固不動の大地に足を踏まえようとせず、宙に浮いた虚構の生を営んでいる。重さもなければ根もない生、それは、漂泊者の時代である。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

慢心して、世間を軽んじる者が
たくさん漂流してしまう時代

慢心とは、自己の利益に満足してたり
自己の利益を獲られないことに納得してたり
利益ばかりに目を向けてて
遠い未来の、利益や不利益
個人的な利益や不利益ってより
全体の利益や不利益に疎くなるってのか
( ̄~ ̄;)
遠い未来の全体的な、利益や不利益を察知する能力を持ってる人は
確実に、遠い未来の全体的な利益を
個人の利益として独占したり!
多大な利益をあげたりするのが!
民主主義できめられた、資本主義の精度だとも思えますもんね

てなことだと

慢心してるってより
慢心させられてるのかな?
( ̄~ ̄;)
なんてな疑問と!
独占された利益なんかを、分配されてるような錯覚を起こさせながら
更なる、利益を供与してるのかも?

公共の利益なんてな言葉で
考えると、公共の利益をうたうなら
個人の利益なんかは、吸い上げられるべきではなくて

NHKなんかは、公共の利益をうたいながら
大衆からさらなる利益を吸い上げてますもんね

NHKの制度に、国の決めた事柄だと
納得されてるかたが、けっこう多いけど
ネットの中の発言なんかは
NHKの公共の利益を認めてない人が
多いですもんね
大衆の2極化が、今の時代には
起こりつつある事象かも知れないですね

民主主義とは、大衆の目線をずらして
慢心させて、漂流させてる制度になってるのかとも!
思わせてくれるような
熱の入った回答に、感謝申し上げますね
(  ̄▽ ̄)にっこり
ありがとうございます

お礼日時:2021/01/03 03:27

人間性否定で横暴にねじ伏せあわないで


筋が通ったことには折れ合う姿勢を維持した
議論によって物事を進めていこうとするのが
民主主義なんだろうと思います。

何が人間性否定かはっきりしない混とんの中で
それぞれの正義がぶつかり合って
横暴の威力の競い合いみたいな地滑りが
起きがちな傾向が
ネットの世界も含めて
いろいろな局面で火を吹いている
というのが現状かもしれないですね。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

>人間性否定で横暴にねじ伏せあわないで
筋が通ったことには折れ合う姿勢を維持した
議論によって物事を進めていこうとするのが
民主主義なんだろうと思います
⬆️
力にたよらなく
話し合って
妥当な線で、物事を進める

確かにそうありたいですね

人間性否定で火花が飛び散るから
よくよく
ボヤから火事になって
火だるまになるのは
Σ(゜Д゜)ワシ火傷ですんで良かった


suzumenokoxさんの経験や知識から
絞り出された回答を

感謝(。-人-。)いたします

ありがとうございました
(  ̄▽ ̄)にっこり

お礼日時:2021/01/02 03:49

まだ無理だと思う。

    • good
    • 0
この回答へのお礼

行政改革や消費税廃止
NHKの廃止や民営化
( ̄~ ̄;)かな?

お礼日時:2021/01/01 04:36

今日の国家こそ、人間が産み出しえた最も顕著な産物であるが、大衆は、国家を自分のために存在し、自分の要求を満たすためのものと信じ込んでいる。

社会的生に何らかの困難、軋轢、問題が生じたとき、大衆は、国家がそれに対して責任を取り、解決を図るように要求する。国家が大衆人の生活の全ての面倒を見てくれるような社会、つまり生の国有化が起こっている。そこで起きているのは、あらゆるものに対する国家の介入、国家による社会的自発性の吸収である。本来であれば、人間が自ら工夫し、他人と協力し、共同のものを築き上げて新しい社会を生み出していくような活力、それが失われようとしている。人間の生を担い、養い、推し進めていくあの歴史的自発性の抹殺である。


国家はつまるところ一つの機械に過ぎないのであって、その生存は、機械を維持している生命、つまり人間、に依存しているのだから、国家が社会の生命を吸い付くした後は、死に絶えるしかない。

ローマ帝国の時代、帝国国家はローマ共和制国家よりもはるかに優れた仕掛けを持った機械であった。しかし、帝国的国家が発展段階に達するやいなや、社会は衰退し始めた。2世紀に、国家は生を窒息させ始め、国家に奉仕する以外に生きる方法がなくなった。生が官僚化された。生の官僚化は、生の絶対的な衰退をもたらした。富は減じ、出産率は低下した。

ローマ帝国で次に起こったのは、社会の軍隊化であった。安全の保護者。貧困はますます増大した。国家主義の行き着く先は社会の衰退と国家の滅亡につながった。秩序を守るために作られた権力は、自分たちが希望する秩序を樹立するだけでは満足せず、権力自身に都合のよいものを作り出していく。

社会の活力が奪われると、社会は衰退し、国家も錆びついて動かなくなる。国家が強大になっても、社会の活力が奪われれば、その社会は衰退し、滅ぶしか道は無いのである。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

国家論ですね
機械=システムだとかんがえたら

システムに支配されると
新たな価値観や発想なんかは
産まれなくなり
人の持つ、創意工夫てな能力が乏しくなれば
システムは崩壊してしまいますもんね。
システムが崩壊しないため

アプリやOSなんかは
人の創意工夫で、ちょこちょこバージョンアップされるけど
バージョンアップの度に、不具合が出てしまうのは
人間は完璧ではない証拠かも
知れないですね
国家のシステムじたいを
バージョンアップできればすごいんだろうけど

バージョンアップには、不具合が付き物なのは
アプリやOSなんかと一緒の話ですね

国家の主義なんかも
システムに支配されると
おい2000さんの言われるように
衰退していくのが、明白な事柄なのかもしれないですね

国家とは時代、時代で
変化、変容するものだとの
御回答!
誠にありがとう御座いました
感謝(^人^)

民主主義といえど
崩壊するのは、自然なことで
その崩壊のあいまにみせてる
変化や変容てな回答だと
受け取りますね

お礼日時:2021/01/01 04:34

大衆は、心理的にもそれ以前とは全く異なる存在である。


大衆は、自分の社会的な上昇と、自分の安楽な生存を可能にしてくれた全てのものに対して感謝する気持ちを持っていないので、それは、徹底的な忘恩となって大衆の態度に現れている。
大衆は、彼らを取り巻く環境に甘やかされてきた。
自分だけが存在すると思い込み、自分以外の存在を考慮しない習慣、いかなる人間をも自分に優る者と見なさない習慣がついてしまった。
他の時代の民衆にとっては、世界は余りにも悲惨な場所であり、大きな災難がしばしば起きるだけでなく、安全、豊かさ、安定さが全くない場所であったことを考えれば、大衆の心理的な変化は大きなものであることがわかる。

そのような大衆の最大の関心事は、自分自身の安楽な生活であり、それ以外にはない。
しかし、その安楽な生活の根拠となる社会的な基盤には連帯責任を感じていない。
非常な努力と細心の注意をもってして初めて維持できる社会基盤、つまり科学技術であり、国家であり、社会的な規範などであろうが、これらに何の責任を持とうと考えないし、そもそも興味すら抱いていない。
ただ自分の権利を社会に対して要求するだけである。

一見不思議ではあるが、大衆人は自分を完璧な人間だと思っている。
生に大きな障害がない世界では、自分以外の卓越した知性や、自分を超越する存在を無視しても、世の中は変わらず安逸なままであり、小さな自分に気が付かなくとも安楽に生き続けられるのである。
他者を無視して生きていけるのであり、そこから大衆は自分を完璧と感じ始める。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

大衆心理も、個人の利己的な心理が優先される
てな話ですね

昭和のヘビーブーム世代なんなだと
となりの家に、ちょいと醤油をかりたりとかって
話は聞きますが

今の時代だと
公園でこけた子供をおこしてあげてたら

うちの子供を突き飛ばしたとか
あらぬ疑いをかけられたりとかって
言うような話も、チラホラ聞かれてね


助け合いのきもちから
助けると、災難に絡まれる
なら、助けないのが良いのかと?

完璧な人間だと自覚してるから
自己の落ち度なんかも
他者の落ち度にすりかえるのかな?

子供から目を離した落ち度を認めるよりも
子供を突き飛ばされた!
なんてなあらぬ妄想で、自己の完全を
保全したいのかも?

民主主義てより、個人主義な風景を
大衆はもとめてるのかもですね

お礼日時:2021/01/01 04:17

今日の日本における道徳なるものは、畜群的道徳である。



畜群的道徳が目指すのは、なによりも社会の平準化・等質化である。
「万人が平等であること」こそ畜群の輝く理想である。
だから彼らは「心をひとつにして、あらゆる特殊な要求、あらゆる特権や優先権に対して頑強に抵抗する」し、「ひとしく同苦(同情)の宗教を信奉し、およそ感じ、生き、悩むかぎりのすべてのものに同情する。

こうしてひとびとは、互いに共感し合い、理解し合い、慰め合い、苦しみも喜びもひとしく分かち合いつつ、相互を隔て差異化する輪郭を失って、不定形的で ねばねばした塊のうちに溶け込んで行く。
もはやその成員たちが区別しがたいほどに等質的な集団を形成することを、畜群たちは「人間における極頂、人間 の達し得た絶頂、未来の唯一の希望、現在のものたちにとっての慰めの具、過去のあらゆる罪過からの偉大な解放」と考えている。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

日本に民主主義が導入されるまでは
将軍や天皇を頂点とした
封建主義的な社会でしたもんね

現代社会に比べて
江戸時代は人情話の宝庫だったみたいで

今の日本に、人情話って
求める方が間違いなのか?

( ̄~ ̄;)

そのころから、和をもって尊ぶなんてな考え方が芽生えたのかも
知れないですね


民主主義が導入されて
人権なんかが議論されるけど
人権てな考え方の歴史が浅くて
平等や自由なんて理想ばかり
求められますもんね

実際には、不平等で不自由なのが
自然な状態であって

平等や自由なんてな概念に片寄らなくても
それ相応の自由や平等て、存在はしてた見たいですけどね

さらなる連投!

Σ(゜Д゜)意気込みを感じます

お礼日時:2020/12/31 08:04

人間たちが共同体を構成し、ひとつの政府に服従するとき、彼らがたがいに認め合った最も重要で基幹的な目的とは連帯し、自分たちの私有財産を保全することであった。


というのは自然状態にあっては、私有財産の確保のためにはあまりにも多くのものが欠落していたからである。

第一に自然状態には、共同的な同意によって定立され、認知され、受容され、承認された法律、生じうるさまざまな係争を終結させる共通の尺度として、これに基づいて正当な請求と不当な請求、正義と不正が判定されるような法律が欠けている。
第二に、自然状態には、公正な立場にあって、法律に則って 係争を終結させるだけの権威を備えていると承認された裁判官がいない。
人々は自分の利害に関係することには夢中になるが、他人の利害については いい加減で冷淡である。
これが際限のない不正と無秩序の原因となる。
第三に、自然状態には下された判決を支援し、維持し、執行する力を持った権力が通常は 存在しない。
罪を犯したものであっても、可能であればまず実力を行使して、おのれの不正を押し通そうとするだろう。
犯罪者の抵抗はときには彼を罰しようと 企てるものをかえって危険にさらし、ときにはその命を失わせることもあるだろう。

こういうわけで、人間たちは自然状態において享受していた数々の特権にもかかわらず、彼らのおかれていたきわめて不都合な条件のうちにいつまでもとどまることを止めて、社会を構成して暮らす方向へと強く押しやられたのである。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

封建主義でしょうか?

民主主義にもあてはまりますね
(  ̄▽ ̄)にっこり

連投ですか!
(^人^)感謝いたします

法家思想に対しての欠点!

司法も立法も行政も
基本的には、奉仕する人達ですもんね

続きを拝見させてもらいますね

お礼日時:2020/12/31 07:55

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

このQ&Aを見た人はこんなQ&Aも見ています

gooドクター

関連するカテゴリからQ&Aを探す


このQ&Aを見た人がよく見るQ&A

このカテゴリの人気Q&Aランキング