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黒船来航の翌年、日米和親条約締結に至りましたね。
なぜ、日本側としては、和親条約締結に踏み切ったのですか?
(4隻の艦隊の武力におののいたのですか?)

A 回答 (5件)

A:>4隻の艦隊の武力におののいたのですか?



回答A:おののいてはいなかったと思います。(理由は後述)

よく誤解している方がいますが、当時のアメリカは大国ではありません。
更に大陸国家だったので海軍力も大したことはありませんでした。
日本と戦争をする能力もありません。

まず、当時の世界に太平洋を渡れる船はありません。
(これも誤解している方が多いようですが、ペリーの所属は「インド洋艦隊」で、黒船もインド洋経由で来ています)
そして、当時のアメリカはアジアに植民地を持っていません。
→日本と戦争をしようにも、艦隊の派遣が大変な上に航路上に補給基地もない。



B:>なぜ、日本側としては、和親条約締結に踏み切ったのですか?

回答B:列強で一番弱いアメリカとなら、比較的マシな条約を結べるからです。

当時の日本は、イギリスとロシアからも開国を迫られていました。
当時の超大国である彼らに国を開く事は、植民地化される恐れを含んでいました。

アメリカの来航はそのような時期でした。

そして、幕府は前述のアメリカに事情を知っていました。
幕府は、まずそのようなアメリカと開国する事で、他の国との交渉もアメリカとの(比較的楽な)条約を基準にして上手くやろうと考えました。

実際、幕府もペリーの足元を見て、それなりに強気に出ています。

その後、アメリカは南北戦争で日本どころではなくなりました。
(結果として、マンモスラッキーというになります)
「黒船来航の翌年、なぜ、日本側としては、和」の回答画像5
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございました。
1.<おののいてはいなかった>ですね。
  <日本と戦争をしようにも>ですね
2.<列強で一番弱いアメリカとなら>ですね。

お礼日時:2021/02/07 19:08

幕府がおののいたのは、1840年に起こったアヘン戦争とその結果です。

このまま欧米と交渉拒否を続けると、アヘン戦争のような結果になると知っていたから、和親条約に踏み切らざるを得なかったのです。ただ、1854年に条約締結をしたものの、孝明天皇は攘夷論者で、しかも世間知らずであったため、かれを担ぎ出す公家や藩が多数いて、幕府が苦労することになったわけです。幕府自体はアジアの情勢を知っており、幕府内の評定では開国やむなしと決めていました。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございます。
<幕府がおののいたのは、1840年に起こったアヘン戦争とその結果です。>
なのですね。<幕府内の評定では開国やむなし>だったのですね。

お礼日時:2021/02/06 16:43

将軍が病気だからと、ペリーには一年後に


もう一度来てくれといって一旦引き上げて
もらったものの、じっさいにはペリーは半年後に、
しかも7隻の黒船?で再来し、江戸湾内で測量を
行うなど、強硬な姿勢を示しました。

老中阿部正弘ほかの、引き延ばし戦略はもう通用せず
下田箱館の開港、米艦隊への補給などの約束、遭難者への
救助などを盛り込んだ、和親条約が締結されたのです。

武力におののいたのが、偽らざる事実でしょうね。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございました。
<強硬な姿勢>に対しての<引き延ばし戦略はもう通用せず<>なのですね。
<武力におののいたのが、偽らざる事実>なのですね。

お礼日時:2021/02/06 16:38

慄いていなかった証が東京のお台場です。


あそこは対黒船用に建設された江戸の要所です。

あの辺りの海は浅瀬が多く、大型艦で江戸に攻め入るにはルートが限られていたそうです。
そのルートを計算して各島を配置しており、島自体の作りも射撃と被弾を計算した作りになっており、かなり堅牢な要塞だったのではないかとも言われています。

黒船以外の海外の動きや地方都市の守りもあるので、無駄な戦いを避けたのだと思いますよ。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございました。
防衛用に<お台場>を築いておいたのですね。けして<慄いていなかった>のですね。
締結は<無駄な戦いを避けた>のですね。

お礼日時:2021/02/06 16:34

4隻はともかく、列強の武力を怖れた、という


のが原因だったようです。

ちょうどそのころ
中国でアロー戦争が起こり、英仏連合軍に敗れた
中国は天津条約を結び、賠償金の支払い、
開港場の増加、キリスト教の信仰、
布教の自由などを認めさせられました。

1856年の夏に、日米和親条約の規定に基づき、
アメリカ合衆国の領事であるタウンゼント・ハリスが、
伊豆の下田に着任し。

ハリスは、日米修好通商条約の締結に当たって、
アロー戦争とインド大反乱を引き合いにしつつ、
イギリスが日本に出兵する可能性をほのめかして、
江戸幕府に圧力をかけました。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございました。
身近に起こったな<中国でアロー戦争>が動機になったのですね。

お礼日時:2021/02/06 16:28

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