

哲学をその人の持つ、宇宙観・世界観・人生観等と定義した場合、例えば仏教の信奉者は、三世の生命観、人生そのものについての因果関係の存在、色心不二などの世界観を持っており、キリスト教の信奉者は天地創造の絶対神、天国の存在などの世界観を持っています(人それぞれではありますが)。
では、科学で発見されたものを「事実」として認識している大多数の人たち(と思います)は、どのような哲学を持って生きていると言えるのか、つまり、科学の哲学的側面というよりも、科学の信奉者の哲学とはいかなるものかということです。
幅があるような気がしますし、そうでもないようにも思います。宜しくお願いします。
A 回答 (21件中11~20件)
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No.11
- 回答日時:
宗教は哲学とは似て非なるものです。
そして宗教は、それ自体が矛盾に満ちたものであり、哲学も基本的には矛盾の解決を目指しつつも、抜本的解決には至らず、試行錯誤の連続です。
科学と宗教・哲学はしばしば矛盾しますが、上記のように宗教・哲学自体が矛盾に満ちているので、単に矛盾が増えただけのことです。
多くの科学者は、その矛盾を他の矛盾と同じように受け入れ、宗教・哲学は何事もなく保持し続けています。
新たな矛盾に耐えられない学者は、新しい哲学を生み出します。
その代表例が、マルクスとエンゲルスの共産主義でしょう。
No.12
- 回答日時:
3
大衆の時代を表現するとしたら、それは「慢心しきったお坊ちゃん」の時代と言ってもよいだろう。
大衆人は、生は容易であり、有り余るほど豊かであり、悲劇的な限界を持っていないと感じている。
大衆人は、自分自身の中に支配と勝利の実感があることを見いだし、こうした支配と勝利の実感が、大衆人にあるがままの自分を肯定させ、自分の道徳的、知的資産は立派で完璧であると考えさせる。
そういう認識は根本的に誤りであることに、大衆人は気づかないのである。その姿は、「慢心しきったお坊ちゃん」そのものである。
この自己満足の結果、大衆人は、外部からの一切の示唆に対して自己を閉ざしてしまい、他人の言葉に耳を貸さず、自分の見解になんら疑問を抱こうとせず、自分以外の人の存在を考慮に入れようとしなくなる。
大衆人はあらゆることに介入し、自分の凡俗な意見を、なんの配慮も内省も手続きも遠慮も無しに、「直接行動」の方法に従って強行しようとする。
こうした行動や態度は、「甘やかされた子供」と反逆的未開人、つまり、野蛮人に似たある種の不完全な人間のあり方を想起させる。
正常な野蛮人は、彼らより上位にある審判、つまり宗教、タブー、社会的伝統、習慣など、に従順な者である。
大衆人は、生まれながらにして、効果的な道具、薬、国家や快適な権利に取り囲まれた自分を見る。
自分の生まれる前にすでにこうしたものは生まれていたのであるが、こうしたものを発明することの難しさやそれらの生産を将来も保証することの困難さを知らない。
国家という組織は、知性があり正しく意思した者が与して初めて維持できるものであるが、それがいかに不安定であるかに気付かないし、自己のうちに責任を感じることもない。
生きる者としての根源から真正さを奪い取り、自分自身をも腐敗させてしまう。
「慢心しきったお坊ちゃん」 つまり、自分が好き勝手をするために生まれてきたという錯覚に囚われている。
自己の運命から逃れ、運命の明白さと深い呼びかけに対して目と耳をふさぎ、自分がこうあらねばならない姿との対決を回避する。
自分の運命という確固不動の大地に足を踏まえようとせず、宙に浮いた虚構の生を営んでいる。
重さもなければ根もない生、それは、漂泊者の時代である。
No.13
- 回答日時:
4
最も大きな問題はどこにあるのだろうか。それは、社会が自らを作り変えて、新しい社会を繰り返し生み出していくような活力が失われていくことである。
今日の国家こそ、人間が産み出しえた最も顕著な産物であるが、大衆は、国家を自分のために存在し、自分の要求を満たすためのものと信じ込んでいる。
社会的生に何らかの困難、軋轢、問題が生じたとき、大衆は、国家がそれに対して責任を取り、解決を図るように要求する。
国家が大衆人の生活の全ての面倒を見てくれるような社会、つまり生の国有化が起こっている。
そこで起きているのは、あらゆるものに対する国家の介入、国家による社会的自発性の吸収である。
本来であれば、人間が自ら工夫し、他人と協力し、共同のものを築き上げて新しい社会を生み出していくような活力、それが失われようとしている。
人間の生を担い、養い、推し進めていくあの歴史的自発性の抹殺である。
国家はつまるところ一つの機械に過ぎないのであって、その生存は、機械を維持している生命、つまり人間、に依存しているのだから、国家が社会の生命を吸い付くした後は、死に絶えるしかない。
ローマ帝国の時代、帝国国家はローマ共和制国家よりもはるかに優れた仕掛けを持った機械であった。
しかし、帝国的国家が発展段階に達するやいなや、社会は衰退し始めた。
2世紀に、国家は生を窒息させ始め、国家に奉仕する以外に生きる方法がなくなった。
生が官僚化された。生の官僚化は、生の絶対的な衰退をもたらした。富は減じ、出産率は低下した。
ローマ帝国で次に起こったのは、社会の軍隊化であった。
安全の保護者。
貧困はますます増大した。国家主義の行き着く先は社会の衰退と国家の滅亡につながった。
秩序を守るために作られた権力は、自分たちが希望する秩序を樹立するだけでは満足せず、権力自身に都合のよいものを作り出していく。
社会の活力が奪われると、社会は衰退し、国家も錆びついて動かなくなる。
国家が強大になっても、社会の活力が奪われれば、その社会は衰退し、滅ぶしか道は無いのである。
それをローマは教えてくれる。
オルテガは、同じことが起きようとしていると、警告を出してくれている。
彼の警告は、論理的で、歴史的な教訓に基づいていて、現在の問題を自らの頭脳によって考えようとする者に道標を与えてくれている。
No.14
- 回答日時:
今の若者に不安感がない
たぶん、今の若者に科学に対しての疑問を問うても
あまり関心はわかないように思いますね
そもそも論で言うなら
物心ついた時から、携帯電話が普及されてる事すら
疑問を覚えないんですもんね
ワシの年代だと
各家庭に固定電話はあったけど
家にあるものとか、電話ボックスに固定されてるもの
みたいな固定観念があったから
持ち運び出来る電話の発明てか
手のひらサイズの電話って
Σ(゜Д゜)驚きましたもんね
今だと、スマホなんかは小さいパソコンみたいで、買い物や振り込みなどなど
何でも出来てしまいますもんね
動画を撮影して、それをその場で確認してYouTubeにあげたりも
科学を疑うよりも、科学を堪能できる世代だから
育った環境の差なのかも?
エアコンだって
昔はストーブが主流で
やかんを乗せてお湯を沸かしたりするのがしっくりしましたもんね
科学って素晴らしいてな環境の中で育ってるから
科学でも間違えることはあると!
疑うのは少ないのかも知れないですね
すべての若者がそうだとは言わないけど
年代が下がるにつれて
科学を疑う性格の人って
減って行くのかも知れないですね
昔は不便だからこそ
あれやこれや知恵を絞って生活してたけど
便利な世の中が当たり前だから
知恵を絞ったりする機会に恵まれないのかも知れないですね
我々の世代でも、当時の流行とか時代の流れ等のことについては、肯定派が多かったと思う。そして、私のようなある意味素直でない類の人間は少数派であり、これはいつの時代も同じではないかと思います。
ただ、当時は反対意見を聞く耳を持っている人が多かったという記憶はあります。
柔軟性はあったと思うのですが、近頃はこの柔軟性が明らかになく、それどころか、集団で圧迫したり、汚い手を使ったりして潰そうとする時代性があると思いますよ。
こういう傾向を「モダン・ファシズム」なんて呼ぶ人もいる。これも、民主主義ではあるんですね。
No.15
- 回答日時:
5
19世紀は、加速度的におびただしい数の民衆を生み出していった。
民衆の生がいかなるものであったかというと、最大の特徴は、物質的、経済的な容易さ、つまり生きることが過去には考えられない位に容易になったということである。
民衆あるいは社会の中の平均人が、自分の経済的問題をかくも楽々と解決できた時代はかつてなかった。
遥か過去には、多くの人々は飢えに苦しみ、貧困に落ち込み、常に死への恐怖に怯えていた。産業革命が進行し、科学技術が進歩するにつれて、各社会階層の平均人は、自分たちの生活の展望(暮らしやすさ)が開けてゆくのを目のあたりにすることになる。
彼らの生活の標準には、つぎつぎと新しい贅沢が加えられ、彼らの地位はより安定し、他人の意志に自分の生活や生命が煩わされなくなった。
以前なら幸運のなせるわざとみなされ、運命に対する謙遜な感謝の念を抱いたであろうようなことが、感謝の必要のない、生まれながらに与えられた要求すべき権利に変わってしまったのである。
1900年以降は、ヨーロッパ社会の底辺に近いところにある、労働者階級の生も安定し始めている。
経済的な安楽さと安定性に、さらに、快適さと、社会秩序が付け加えられていった。
民衆の生は快適なものとなり、暴力や危険が入り込むことは減っていった。
民衆あるいは平均人は、生に対して安楽で平和なものを見るようになった。
生きることはそれほど困難とは感じられなくなり、少しばかりの楽しみさえ見出せるようになっていったのである。
それまでの民衆にとって、生は、経済的にも肉体的にも、重苦しい運命であった。生きるということは、生まれながらにして、耐え忍ぶ以外に方法のない障害の堆積であり、それら障害に我慢して適応していく以外に解決方法は見出だせなかった。
自分たちに残された狭小な空間にひっそりと隠れる以外に仕方がないと感じていたのである。
生活面だけでなく、市民的、精神的な領域に関しても、19世紀の後半以降、平均人は彼らの前になんらの社会的障壁を見なくなった。
社会的な生において、生まれながらにして、なんらの障壁も制約も受けなくなったのである。彼らの生は、貴族のような特権階級による恣意的な生活への介入がなくなり、いかなるものによっても抑制されることはなくなった。
「身分」もなければ「階級」もない。
民法上特権を有するものは一人もいない。
かくして平均人は、法の前では万人が平等であることを学んだのである。
No.16
- 回答日時:
6
過去の歴史を通じて、人間が、このような環境や生の領域の状況におかれたことは一度もなかったのである。
人間にとって、物的にも社会的にも新しい舞台が創造されたことになる。
この新しい世界を可能にした三つの原理は、自由主義的デモクラシーと科学実験と産業主義であった。科学と産業は、技術と言ってよいかもしれない。
これらは、17,18世紀に生み出され発展してきたものである。
19世紀は、ヨーロッパ各国で革命が起こった世紀であったが、この革命とは別の次元で革命的であった。
民衆、平均人をそれまでと根本的に異なる状況に置き、社会的生の秩序は根本的にひっくり返され、民衆、平均人が支配的な勢力として大きくなっていった、そういう意味での革命である。
それまでのあらゆる時代の民衆にとっては生とは制約であり、義務であり、圧力であった。以前は、金持ちや権力者といえども、世界は貧困と困難と危険の領域であった。
しかし、これらの革命的な出来事の結果として、人々は、より豊かでより完全でより良い未来が約束されていると感じたのである。
このような状況に置かれて、19世紀以降の民衆は、「大衆」となっていった。
大衆は、心理的にもそれ以前とは全く異なる存在である。
大衆は、自分の社会的な上昇と、自分の安楽な生存を可能にしてくれた全てのものに対して感謝する気持ちを持っていないので、それは、徹底的な忘恩となって大衆の態度に現れている。
大衆は、彼らを取り巻く環境に甘やかされてきた。
自分だけが存在すると思い込み、自分以外の存在を考慮しない習慣、いかなる人間をも自分に優る者と見なさない習慣がついてしまった。
他の時代の民衆にとっては、世界は余りにも悲惨な場所であり、大きな災難がしばしば起きるだけでなく、安全、豊かさ、安定さが全くない場所であったことを考えれば、大衆の心理的な変化は大きなものであることがわかる。
No.17
- 回答日時:
7
そのような大衆の最大の関心事は、自分自身の安楽な生活であり、それ以外にはない。
しかし、その安楽な生活の根拠となる社会的な基盤には連帯責任を感じていない。
非常な努力と細心の注意をもってして初めて維持できる社会基盤、つまり科学技術であり、国家であり、社会的な規範などであろうが、これらに何の責任を持とうと考えないし、そもそも興味すら抱いていない。
ただ自分の権利を社会に対して要求するだけである。
一見不思議ではあるが、大衆人は自分を完璧な人間だと思っている。
生に大きな障害がない世界では、自分以外の卓越した知性や、自分を超越する存在を無視しても、世の中は変わらず安逸なままであり、小さな自分に気が付かなくとも安楽に生き続けられるのである。
他者を無視して生きていけるのであり、そこから大衆は自分を完璧と感じ始める。
逆に、優れた者が、自分を完全者とみなすためには、特別の虚栄心を持つ必要がある。
虚栄というのは、虚栄心を持った者にさえ仮のもので、空想的で、疑わしいものである。
だから、虚栄心の強い人は、他人を必要とし、他人に同意を求めるのである。
優れた者は虚栄の危うさを知りながら、虚栄心を持とうと努力しているのである。
そこから、大衆と優れた者の相違が現れてくる。
つまり、愚者と賢者の間に永遠に存在している相違そのものにつきあたるのである。
賢者は、自分がつねに愚者になり果てる寸前であることを肝に銘じている。
だからこそ、すぐそこまでやって来ている愚劣さから逃れようと努力を続けるのである。
そしてその努力にこそ英知がある。
逆に、愚者は、自分を疑うということをしない。
自分は極めて分別に富んだ人間だと考えている。
そこでは、愚者が自らの愚かさの中に腰をすえ安住してしまい、うらやましいほど安閑としていられるのである。
ここで賢者と愚者という言葉を使ってはいるが、大衆人が知性に欠けていると言っているのではない。
大衆は、多くの知的能力を持っているのである。
しかし、その知性が自らの生や社会に何の役にも立っていないのである。
大衆人の姿は、凡庸人が凡庸たることの権利、もしくは、権利としての凡庸さを宣言し、強行しているものである。
自分は知らないと言って、人の発言の傾聴や議論を拒絶するのである。
知的凡庸さに支配された大衆にとって、人の意見に耳を傾ける必要がどこにあるだろうか。
人の意見を聞かずとも自分の生は安楽で安泰のままなのである。
No.18
- 回答日時:
今の世代は、尚更考えない
(*’ω’ノノ゙☆パチパチ
言えてますね
今朝がたにたような状況でしたよ
配達を終えて
配送センターに、次の荷物を積み込みに戻ると
いつものようにスマホでゲームをしてるセンターのアルバイトに
「そのゲームのなにがおもしろいの?」
冷たく聞いたら
「ゲームに興味のない人には説明出来ない」
てな返事でね
本心は嫌いな相手と話すのが嫌なんだろうなぁ~
とはとは思いつつ
「説明出来ないではなくて、説明の仕方がわからないじゃないの?」
続けざまに
「そのゲームに興味があるか無いか判断してるのは、君の主観であって、君の説明の仕方でワシは興味を持つ可能性はあるはずだよ」
さらに続けて
「単純に暇潰して時間を費やしてるけど、その費やされた時間って貴重な時間であるはずなのに、他人に満足に説明も出来ないのは、単純に考える頭がないのか?考える習慣がないのか?どっちなの」
アルバイト「・・・」
とどめに
「考えるのもめんどくさい・話すのもめんどくさい・自分自身の主観で物事を判断して安易な答えになれしたしんでる証拠だとおもうけどね」
このアルバイトにが40歳過ぎのおっさんであるから
現代社会って
考えるのがめんどくさい
話すのがめんどくさい
与えられた仕事だけこなして
社会から与えられたスマホのゲームに没頭する
ニャンポコリンさんみたいに
疑ってかかるとか
まったく無いのが、今の社会の正しいあり方なのかと!
今の世代は、他人の意見すら理解できるだけの思考能力が失われて
迂闊な発言は敵をつくる
目立ってはいけない
楽をしたい
まぁ~こんな感じの人が以外と多いのは
事実みたいですよ
そのアルバイトの人生だから
どんな時間の使い方をしてても
ワシにはなんら関わりあいの無いことなんですけどね
考えるのが苦手な人って
素直な信じこみやすいのかもしれないですね
40といったら、立派な大人の歳なんだけどね。
そんなような中学生と変わらない人格は多いと思う。ただ、我々の世代もその辺は大差ないですね。
育ってきた環境が整いすぎ、快適すぎたので、「戦慄する」ということがない、「どうせ、なんとかなる」そんな精神になりきっていると思う。
だから、刺激を与えることは、いいことですね。
No.19
- 回答日時:
どれだけ自分の意思で生きていてるのか?
てな意味で、嫌みにとられたり!嫌われたりしながらも
刺激を与えたりしてますよ(笑)
社会や世の中で、何が正しいのか
その人、その人なりの判断てのは、持っていて当然のはずなんですが
その判断すら持たない!持てない!持とうとしない!
そういった人が増えてるのは事実ですね
【社会や世の中に疑問を持たなくていい!】
てなことは、世の中が平和な証拠なんですけど
平和だから、何も考えなくて良いんだけど
そうなると、世の中でただ生きているだけの存在に成りかねないのかとね
個人主義なら、他者に対してなんら疑問も持たなくて済む
これも事実であって
そういった時代のあらわれなんだろうとは思ってるけど
個人主義なら、どういった主義や主張があるのかな?
その人に問いただしたら
「価値観の違いと」の返答があって
「じゃあ~どんな価値観があるの?」
さらに価値観を問いただしたら!
「・・・」
何も答えられなくなってしまったのは
想定の範囲なんですけどね
実際に言葉って世の中には溢れてるけど
その言葉も聞いて覚えてるだけで
言葉を自分自身の言葉として煮詰めないのは
自分自身の言葉を問われる事って
平和な世の中だと想定外の話なのかとも思いましたけどね
私たちの世代でも、子供や若者は大事にされてきました。日本ってそういう社会ですよね。大事にされすぎるとかえって無気力になると思うんです。危機感というものを持てないし、何かあっても「ああ大変だ、何とかしないと」という心になれない、私たちもそうであったと思います。
現代では、もっとずっと便利に快適になっているし、大人たちは子供や若者に腫れ物に触るように接していて、およそ叱るなんてことがない、だから、子供や若者たちは、どんどん思考停止になっていっているのだと思います。かわいそうなんですね。
そんな時代の中、わしやけどさんは偉いですね。
No.20
- 回答日時:
えらいのかな?
( ̄~ ̄;)
単なる変り者ですよ
( ^∀^)(笑)
純粋に疑問に思ってしまうから
日本人的にはNGな存在なのかも!
この頃は思うように成りましたよ
好奇心や興味って
人それぞれ振れ幅は違ってて当然で
その振れ幅を無くすのが社会なのか?
振れ幅を大事にするのが社会なのか?
ここら辺はなかなか答えが見つからないですね
でも、年々、そういった振れ幅が喪失されてる世の中だとは
個人的には痛感してますよ
変わり者がさらに住みにくくなる世の中って
((((;゜Д゜)))恐いですね
「変わり者」とは、その集団文化の中で定義されるもので、それを見ればその
文化の特徴がよくわかります。
日本の文化の場合、物事をはっきりさせることを嫌いますね。だから、そういう人を変わり者としてレッテルを張ってきたわけでしょう。
それぞれの持つ好奇心や興味は、社会に対して害をなすようなもの(判断は難しいと言えますね、現代では)でなければ、否定をしてはならないと思います。その個性が、社会の中でどう発揮されるかをじっくり見てあげて、そのうえで評価すべきであって、その前に早々に評価してしまって、否定されているケースがけっこうあるのではないかと思う。
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