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江戸時代までに於いて、将軍以外の武家は例え上級武士であっても官位は低く抑えられていたのでしょうか?
昔日本史の授業で江戸時代の官位12階のプリントを見せられたのですが、ろくに権力の無い高級貴族の官位が異様高く、実権を握る大名家は三位、四位などと、今の時代の役職に換算すればあり得ないほど低かったと記憶しています。
官位は公家、権力は武家と、完全に身分と権力は分離していたのでしょうか?

gooドクター

A 回答 (7件)

頼朝の政策の継承です。


鎌倉幕府は、将軍だけが公家としての栄達に浴し、無位無冠だった在庁官人を国司に推薦しました。
地方の武士達にとってはそれだけでも身に余る光栄でした。
この政策は室町幕府、江戸幕府にも継承されました。
武士に官位を大盤振る舞いしたのは豊臣政権ですね。
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簡単に言えば「征夷大将軍の権威を落しかねないので、朝廷から武士への官位を送ることは推奨されなかった」ということです。



幕藩体制の要は徳川将軍家であり、将軍の指導力・統率力が落ちたら困るわけです。
 だから将軍は領地替えなどもできるし、天皇が与える武家の官位も将軍の承認を必要としたわけです。

もし朝廷が武家政権とは別に官位を与えられるなら「征夷大将軍を二人任命する」ことも可能になるわけで、そういう実力をもった武家、たとえば室町幕府開闢時期の足利氏のような人物がいて「朝廷から直接官位をもらって、徳川幕府に対抗したい」ということもできてしまうわけです。

だから幕府は武家の官位を厳しく規制したし、その結果公家とちがって位の高い官位をもつ武家はほとんど居なかった、のです。
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>実権を握る大名家は三位、四位などと、今の時代の役職に換算すればあり得ないほど低かった



低くはないです。
現在も国務大臣経験者に贈られるのは三位ですよ。
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「公家諸法度」は、徳川家康が金地院崇伝に命じて起草させた法度である。

豊臣氏滅亡後の(1615年9月9日)、二条城において徳川家康、徳川秀忠、前関白二条昭実の3名の連署をもって公布された。署名は、二条昭実、秀忠、家康の順である。漢文体、全17条。発布されたときは「公家諸法度」であったが17世紀末に語頭に「禁中並」が加えられ、禁中並公家諸法度と名前が替わった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%81%E4%B8%AD …
第7条 :一 武家之官位者、可爲公家當官之外事。
(武家の官位は、公家の官位とは別のものとする )
制定のねらい
武士の官位保有が公家の昇進の妨げになる事態を防止した。また、武家の官位の任命者は事実上将軍とし、大名家や旗本が朝廷から直接昇進推挙を受けた場合でも、将軍の許可を受けねばならなかった。

官位の目的 :権力の付与ではない、職務職責の分与でもない。
位記・口宣案の発給には従五位下諸大夫で金十両、大納言で銀100枚と言った具合に天皇に対して金子を進上することになっており、それが上皇や皇太子、女院、中宮や武家伝奏、上卿や実務にかかわる地下官人などにも配分された。武家官位の授与数は年間で3桁以上に上るため、武家官位の授与は江戸時代の天皇・皇族・公家にとっては大きな収入源になっていた。
官位を売り買いし、売った方は収入を得、買った方は名(官位)を獲得できた。
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朝廷の官位を貰ったって、領地が増える訳では、ないので武士には


要らない物でしょう。
殿様から役目を仰せつかって、収入が増える方が嬉しいでしょう。
学級委員になると、喜ぶ親がいますよね、官位を貰って喜ぶ武士の
姿と同じ図式だと思いますが。
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とりあえず、天皇の身の回りの世話をしたりする人は、それなりの官位が必要だからでしょう。


たしか吉宗の時、象さんを天皇にみせるために、わざわざ官位をつけたって話もあります。身分的には、下っ端の武士よりゾウさんのほうが偉い。
武士は、全て将軍経由だから、官位はあまり欲しがらなかったでしょう。
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将軍家以外でも、御三家、御三卿、また松平を名乗る家康由来の大名家などは、将軍家に次ぐ官位を与えられていました。

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