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haru17 様が愛についてご質問をされ、その回答には神と言及したことがありません。
神からしたら、世俗的なことのみが挙げられています。
私は、時々、John Coltrane のA Love Supreme を聴くことがあります。
質問は、なぜ、日本人にとって、愛と神とは結び付かないのでしょうか?

A 回答 (15件中1~10件)

haru27さんの「愛 って何でしょう?」へ下記を記載しました。


>【愛】
>壊れるかも知れない大切な物を、守り通す気持ち。
>例:妻を愛する。家族を愛する。国を愛する。
これに「神を愛する」を入れると、妻や家族や国と神が同列で感じる対象となります。日本人は、これらと神は同列では無いと、無意識の内に感じているので、同じ言葉は使わないのでは・・・
(同列で無いとは、神は上にあり人は下にあると言う意味。)

逆に、Loveを使う時に外国の人は、妻・家族・国・神は同列の気持ちで使っているのでしょうか。
一神教の神も色々いますから、他の神と戦って生き残る必要がある為に、人は神を愛し、そして守る必要がある存在と言う事なのでしょうか。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございます。
<日本人は、これらと神は同列では無いと、無意識の内に感じているので、
<一神教の神も色々いますから、他の神と戦って生き残る必要がある為に、人は神を愛し、そして守る必要がある存在>
神を仲間・同朋とみるか・みないかの差がある、と読みました。

お礼日時:2021/04/13 18:58

お礼ありがとうございます


(  ̄▽ ̄)にっこり

日本的な考えってより
GHQの政策だったみたいですよ

神道と政治を切り離して
親交の自由てな事柄なんですけど

マッカーサー元帥は、敗戦後の日本でキリスト教を布教しようと尽力されたらしいですよ

アメリカからの宣教師を日本に呼び込んで
布教活動の助力をしたり
食料配布に教会をつかでたり
日本語の聖書を1000万部、配布したりと!
その当時、日本で20万人しかいなかったキリスト教徒を頑張って増やそうと試みたとかね

結果、減ったとかって噂もあって
敗戦直後の動乱気には、神も仏も頼れなかったのかも知れないですね

生きていくので精一杯ですもんね

食料を貰うためには、ミサなんて気にはならない!
てのは想像にたやすくて!
1000万部の聖書なんかも、その当時の紙巻きタバコ用の紙に重宝されたみたいですよ

布教活動の成果を気にする元帥に、部下が忖度して!布教の結果200万人に増えたなんて話もあるから
( ^∀^)(笑)
ほかにも、帝都大学にキリスト学科を造ろうとしたけど、さすがにそれは却下されたらしくて!

マッカーサー元帥も、あれやこれや頑張ってたんだとおもいましたよ

現代の日本でも初詣なんて風習が残ってるのは!

キリスト教を押し付けられても
古くから根付いてる信仰や風習なんかは

いまだに根付いてて、無宗教てな日本だけど!日本なりの神様って考え方は残りそうですもんね

神様って愛をあたえるより
願いを叶えてくれたり
蜂を与えてくれたり
どうも、愛なんかより違うものを欲しがるのも、日本的な考え方なのかも知れないですね

敗戦前の日本だと

愛国心てな言葉がしめすように
神様を愛する存在だったのは
神と愛とが結び付いてた証拠だとも思いますよ
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
戦前は
<愛国心てな言葉がしめすように
神様を愛する存在だったのは
神と愛とが結び付いてた証拠>なのですね。

お礼日時:2021/04/14 18:41

1. あらためて考えてみました。



★ (№9お礼欄) ~~~~~~~~~~~~
なぜ、日本人は愛を表に出さないのでしょうか? 
・・・
自慢することを嫌うような奥ゆかしい気質が作用しているのでしょうか? あるいは神なぞは愛していない、のかもしれません。

ただし、日本人にとっては目上の人(神)には、なぜか、愛という言葉を使わない・使えないのかもしれません。上司にご苦労様とは言えないように。

愛になぜか方向性があるようですね。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

2. 《感じる(情感)》と《考える(知性)》とをわざと区別すると 日本人のあいだでは 知性を――思考であらわすよりは――情感にとどめたままその情感の共同性の中にあること(共生)に問い求めたのかも知れないですね。

3. 人が二人集まると その二角関係は まなざしを上からそそぐ側と下にあってそれを受け留める側とに分かれる傾向があります。

4. 情感の共同性として 互いの気持ちや思いを或る程度分かり合っていたとき なお知りたい・まだ分からないところがあると思ってその答えとなる内容を言葉にして表わすのは 目上の人の側になるようです。

5. 目下の側は 答えがたとえ分かったとしても まづは問い求める側にまわると思われる。

5-1. 同等・対等な関係のその平等性は 一般にユヅリアヒとなって互いに自己表現することに現われると思いますが いかんせん人間の住む世界は 相対性の中にあってものには順序があるわけですから 二角のいづれか一方が一秒でも先に話を始めることになります。

5-2.そのとき肝心なことは ふつう目上の側が先に語り始めるものと思われます。(これ自体で 平等性がそこなわれるとは思われません)。

6. このとき 情感の共同性じたいが 言わば単位的な人間関係としての二角のあいだの広義の愛なのだと思わるのですが その愛についても――そもそも《愛》と呼ぶこと自体がなじみませんが―― 目下の側からは 言葉にして表現することはない(少ない)。ということになるのでしょうか。
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この回答へのお礼

再三のご回答ありがとうございます。
お手数をお掛けして恐縮しております。
<日本人のあいだでは 知性を――思考であらわすよりは――情感にとどめたままその情感の共同性の中にあること(共生)に問い求めた>
のかも知れない>のですね。>
<言葉にして表わすのは 目上の人の側に>
なるようです。>
<目下の側からは 言葉にして表現することはない(少ない)。>のですね。
外国のことは実際に体験したことがないので、知ったかぶりでしか言えませんが、日本人(日本)の特性が、(普遍・公平無私と考える)神との間にも隠しようがなく露呈するのですね。

お礼日時:2021/04/12 16:59

★ (№9お礼欄) お言葉を返すようで恐縮ですが、なぜ、日本人は愛を表に出さないのでしょうか? 


☆ 自然との交感( correspondence )もさることながら 人間どうしのあいだの一体性が――けっきょく以心伝心のような一体感が――成り立っているなら 特に言葉にして表現することも要らないと見られたものと思われます。


その《とうとび や 思いやり》の事態を 特別に《愛》というような概念として認識する必要もなかったかも知れないですし あるいは《慈悲》のごとき倫理に深くかかわる理念としてかかげることにもなじまなかったのかも。


要するに おれとおまえの仲を 必ずしも友情や愛情といった概念としてすら捉えず 言語以前の情感という現実のままにとどめていたのだし それで何の不都合も不便も感じなかったのでしょうか。

生活の中で大事なことは一般にむしろ《言挙げせず》と言い慣わしていたように思われます。


△ (柿本人麻呂歌集:万葉集 巻十三 3252番) ~~~
https://manyoshu-japan.com/10325/

葦原の 瑞穂の国は
神ながら 言挙げせぬ国

しかれども 言挙げぞ我がする

言幸く ま幸くませと

障みなく 幸くいまさば
荒礒波 ありても見むと
百重波 千重波しきに
言挙げす我れは
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 遠くへ旅立つ友を見送るときの言葉として のようです。






★ 日本人はなぜか神を愛することに少なくとも表面上は無関心・嫌悪している、と思いたくなります。
☆ ただし 言葉に出さないだけであって たとえばあたかも神への感謝や祈りを持つときには 手を合わせることをします。

わたしはしないのですが 食事のときにも手を合わせまたお辞儀をしますね。クリスチャンの家庭で 神に感謝を言葉に表現してささげる場合に当てはまるかに思われますね。




★ 自慢することを嫌うような奥ゆかしい気質が作用しているのでしょうか? あるいは神なぞは愛していない、のかもしれません。
☆ 《成り行き》という自然史過程――つまり 人間の意志行為がおこなわれ互いにそして縦横斜めに幾重にも絡み合って織り成すところの構造的な過程・そのときにはすでに個人の意思や行為とは直接のつながりが分からなくなったかたちの歴史過程――の中に 神のことは埋もれているような恰好に見えます。運だとか偶然性だとかの表現も使うようですね。





★ ただし、日本人にとっては目上の人(神)には、なぜか、愛という言葉を使わない・使えないのかもしれません。上司にご苦労様とは言えないように。愛になぜか方向性があるようですね。
☆ あぁ。なるほど。これは ちょっとむつかしいですね。

上司に対して 尊敬していますという意味でであったとしても 愛していますとは 言わないですね。なじみませんね。



ただし たとえば恩を受けたことはおぼえていて 何か機会があれば その恩返しをおこないますね。これは 広く言うとすれば 愛でしょうね。


★ 愛になぜか方向性があるようですね。
☆ 表現の上で――つまり 言葉による表現としてそうだし おこないとしての自己表現としてもそうだと思われるかたちで―― 愛のあり方が必ずしも一様ではないようですね。

追って考えたいと思います。保留します。このあたらしい主題をありがとうございます。
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この回答へのお礼

再度のご回答ありがとうございました。
前回のお礼欄に支離滅裂なことを羅列して、今読み返すと赤面の至りです。
<く以心伝心のような一体感が――成り立っているなら 特に言葉にして表現することも要らないと見られたものと思われます>ですね。
<《愛》というような概念として認識する必要もなかったかも知れない>ですね。
<生活の中で大事なことは一般にむしろ生活の中で大事なことは一般にむしろ《言挙げせず》> 今でも《言挙げせず》が生き残っているのです。

く以心伝心のような一体感が――成り立っているなら 特に言葉にして表現することも要らない>ですね。
<その《とうとび や 思いやり》の事態を 特別に《愛》というような概念として認識する必要もなかったかも知れない>ですね。
<《成り行き》>を重要視し<神のことは埋もれているような恰好に>ですね。
<言葉に出さないだけであって>ですね。
浅い奥行きのない質問に対して懇切丁寧な回答を頂き、疑問点がかなり解消いたしました。

お礼日時:2021/04/12 13:58

日本は大東亜戦争の敗戦で、神を捨てたから


愛と神は別な話になってるみたいですよ

世界的な宗教の根底には
愛があって
神と宗教と愛と融合してるみただけど

日本的な考え方で

神と宗教と愛とは、まったく個別な存在になってしまったからだとも思いますね

大東亜戦争で、もしも日本が敗北しなかったら
引き分けとか、勝利てな形で幕がおりてたら

現在でも神道国家として、ある種の封建的な文化がのこって

宗教と神と愛との融合も、世界的な宗教なみに存続してたとは

個人的には思いますよ

何の為に神がそんざいしてるのか?

世界の歴史を紐解けば
ほとんどが戦争に勝って、自国の繁栄を願うために居てますもんね
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございます。
神は、<ほとんどが戦争に勝って、自国の繁栄を願うために居てます>ですね。
このあいだの戦争では、残念ながら神風の助けがなかったですね。
<日本的な考え方で
神と宗教と愛とは、まったく個別な存在になってしまったからだ>なのですね。

お礼日時:2021/04/12 10:53

日本の、慈しみや思いやりは、自分の中から”自然発生的に”でるもので、それを周りに広げてゆく。

。。水平感があります。(だから、神は人間の作り出したものだ、という人が多いと推察します。)

私の知っているのは、アメリカ社会ですが、天にいる神から恵まれた幸いを、自分よりも下に位置する人に配ってゆく。。。垂直の関係です。

戦国時代の乱世、精神的な支えが必要だった時、ちょうどタイミングよくキリスト教が(コンキスタドールと手に手を取って)渡来しました。あの時が唯一のチャンスでしたが、為政者が嫌いました。あと100年戦国時代が続いていたら、事情は違っていたかもしれません。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございました。
日本では・・・<慈しみや思いやり>><”自然発生的に”><水平感>になるのですね。
<アメリカ社会>おそらくキリスト教圏では・・・<天にいる神から恵まれた幸いを、自分よりも下に位置する人に配ってゆく。。。垂直の関係>なのですね。
この水平・垂直関係が愛に影響しているのですね。

お礼日時:2021/04/11 19:03

1. ギリシャ人は 愛をいくつかに分類していたようです。

クリスチアニズムは その言葉≒概念を利用したとされています。

▲ (ヰキぺ:愛) ~~~~~~~~~~~
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%9B

① ストルゲー  στοργή  storgē
キリスト教では家族愛。
(古代ギリシアでは風、火、水、土を結合させる愛、であった。)

② エロス  έρως  érōs
キリスト教では性愛。
(古代ギリシアでは自己を充実させる愛、であった。)

③ フィーリア  φιλία  philía
キリスト教では隣人愛。友愛。
(古代ギリシアでは友人の友人に対する愛。)

④ アガペー  αγάπη  agápē
キリスト教では真の愛。
(古代ギリシアではあるものを他よりも優遇する愛、であった。)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

2. ふつうは ④のアガペーが 神ないし神の愛に関係づけられているものと思います。

3. そしてもし そもそも《愛》が 存在をとうとび大切にすることだとすれば 言わばその生命現象としてこれら四つの愛がいとなまれるとする限りで すべては――生命のみなもとである――神にかかわるものと考えられます。




4. 日本でも ブディズムを受容したからには 《慈悲》としての愛が 三つに分類されています。

▼ (ヰキぺ:慈悲) ~~~~~~~~~~~
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%88%E6%82%B2

三縁慈悲
(ⅰ) 衆生縁: 衆生(しゅじょう、jantu,sattva)の苦しむ姿を見て、それを救うために、その衆生を縁として起こした慈悲の心。すなわち、衆生の苦を抜き、楽を与えようとする心である。

(ⅱ) 法縁(ほうえん): すでに煩悩を断じた聖人が、人々が法は空なりという理を知らずに、ただ苦を逃れ楽を得ようとあがくのをみて、抜苦与楽せんと思う心をいう。

(ⅲ) 無縁: 慈悲心の自然(じねん)の働きをいうものであり、それは仏にしかない心であるという。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

5. (ⅲ)の無縁慈悲が 神の愛に相当するように思われます。



6. そして 固有の概念を必ずしも持たなかったとすれば 日本人にとって 愛なる概念は よそものであったと見られるかも知れません。



7. 《思いやり・慈しみ》などという場合――わたしの感覚ではの話ですが―― 何かその根っ子にさらに大きなチカラのハタラキがあるように思われます。

8. 単純に言って やはり《いのち》です。このハタラキとして人びとは 自然の環境やものごとと・あるいはほかの人たちそれぞれと あたかも未分化一体であるという感覚を 持っている(いた)ように思われます。

9. この自然に起きている感情ないし情感が 言うなれば現代語で言う愛のことではないかとも推し測られます。


10. ★ なぜ、日本人にとって、愛と神とは結び付かないのでしょうか?
☆ 自然との親和性あるいは人びと相互の一体感は――いのちにかかわると見るかぎり―― 神にかかわっていると思われます。

11. そしてこの未分化一体感が なくなってしまったとすれば 愛と神とが結びつかないでしょうし その感覚がなおある場合には 意識していないとしても 愛と神とは結びついているように思われます。

11-1. 八百万の神々というのは この愛の個々の具象化とかかわっているかに思われます。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございます。
<9. この自然に起きている感情ないし情感が 言うなれば現代語で言う愛のことではないかとも推し測られます。>
<自然との親和性あるいは人びと相互の一体感は――いのちにかかわると見るかぎり―― 神にかかわっていると思われます。>
<その感覚がなおある場合には 意識していないとしても 愛と神とは結びついているように思われます。>ですね。

お言葉を返すようで恐縮ですが、なぜ、日本人は愛を表に出さないのでしょうか? 日本人はなぜか神を愛することに少なくとも表面上は無関心・嫌悪している、と思いたくなります。自慢することを嫌うような奥ゆかしい気質が作用しているのでしょうか? あるいは神なぞは愛していない、のかもしれません。
ただし、日本人にとっては目上の人(神)には、なぜか、愛という言葉を使わない・使えないのかもしれません。上司にご苦労様とは言えないように。愛になぜか方向性があるようですね。

お礼日時:2021/04/11 17:35

一部修正お願いします。



自然発生的宗教ですから、神の恵みよりも
神の脅威の方が強かったでしょう。

そこに、愛は感じられなかったのだと
思われます。
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この回答へのお礼

再度のご回答ありがとうございました。
自然界の脅威を説明・解釈するため、神を持ち出してきたのですね。

お礼日時:2021/04/11 12:14

なぜ、日本人にとって、愛と神とは


結び付かないのでしょうか?
 ↑
なぜ、キリスト教は、愛と神を
結びつけるのか。

キリスト教の神は全知全能の創造神です。
その神は己に似せて人間を創りました。
己に似せるぐらいなのだから
人間を愛しているんだろう。

そこから、神と愛が結びついたのです。


日本の宗教にはそんな理屈はありません。
神道は、キリスト教のような創世宗教、
つまり教祖が人為的に作った人工的な宗教
ではないからです。

自然発生的に出来たのが神道です。
そこでの神は、森羅万象山川草木
あらゆるモノに存在します。

だから神は、時には暴力であり
祟りでもあります。

そこには愛はありません。
自然現象があるだけです。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございます。
キリスト教の神は、<己に似せるぐらいなのだから
人間を愛しているんだろう。>と、人間は推測するのですね。
日本の宗教では、<神は、森羅万象山川草木
あらゆるモノに存在します。>ですね。<そこには愛はありません。
自然現象があるだけです。>ですね。

お礼日時:2021/04/11 12:11

愛も神も、外国産の概念でしょう?



その概念に、愛と神と言う漢字を当てただけで、日本人が
生み出したものではありません。

当然、そんな「邪教」の精神構造は、日本人にはありません。

ここで簡単に「神」と言っていますが、その神とは「GOD」
なんでしょう?

このカテの皆様は、都合よくそれを使い分けて、論点を
ずらす傾向がありますが、日本人として意見を述べときは、
本音がでるのでしょう。

日本のキリスト教の教徒の人口を考えれば、至極当然でしょう。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございました。
<愛も神も、外国産の概念>ですね。
天照大神の”神”とキリスト教の”神”とは、同じものと扱うわけには行けませんね。

お礼日時:2021/04/11 09:35

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