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徳川の中でも水戸徳川家は天皇朝廷に対する崇敬が篤いと聞いたことがあるのですが、何故ですか?

A 回答 (4件)

色々ある



一つ
水戸光圀<-黄門さんが、大日本史という歴史書(歴代天皇の記録を主)の編纂を開始してそれが水戸藩の一大事業として継続されていった

当然、皇室関連の学問も藩として重視していた
そういうバックグラウンドがあり

更には、藩主の正室に宮家から姫君を迎えることも度々あった
そういう人的交流

そして、御三家という格式の中では水戸藩は一段下に置かれていた
将軍の跡目として候補に挙がるのは、常に紀州か尾張の徳川家であり
水戸家は候補にすらならない
御三家成立の時からそういう位置づけだった

※徳川慶喜が将軍になったのは、水戸家からではなく一橋家の当主だったからですね

なので、徳川家や将軍家という権威に対して言葉悪いが斜に構えた面があった
それが、尊皇という方向に進んでいった一因でも有る
御三家の中では格下でも、天皇の臣下という面では同等という感じ
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水戸藩は水戸学を産んだ藩です。



水戸学は中国の儒学を取り入れた、天子を国の中心とする思想です。
「国を治めるべきは天子である」という思想が水戸藩にはあったのです。
天子は日本では「天皇」です。

最後の将軍となった慶喜が一橋家の養子で、水戸家の出身というのは偶然かどうか?
尊王攘夷思想の水戸家出身の将軍だから、殺されずに幕末を乗り切ることができたといえるかもしれません。
そういう意図で慶喜を15代将軍にした可能性もあるのでは?
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水戸学の内容を語らないと回答にならないと思いますが、あなたのレベルは不明なので要点だけ簡単にお話ししておきます。




水戸光圀が「大日本史」を編纂する過程で、江戸幕府の正統性(皇室との関係)が問題になりました。

支那史に被れていた光圀は、皇帝≒皇室と解釈して、皇室を上位に置きました。
これがすべての始まりです(多分)。

祖父である家康の朝廷政策や自身(将軍家)の地位の否定になりかねない思考なのですが、平和な当時では問題化はしませんでした。
幕府が強大だったので皇室も諸藩も無駄な事はしませんでした。

しかし、これが幕末になって攘夷や幕府が結んだ条約の正統性が問題になり、水戸藩は尊皇派と佐幕派に分裂して内紛が起こりました。
「徳川の中でも水戸徳川家は天皇朝廷に対する」の回答画像3
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水戸アナルが、朱子学に傾倒していたので、その根幹である大義名分論を金科玉条掲げたからです。


自分が実兄を押しのけて水戸藩主になったことを気が付いた時に、「これは大義名分に反く」と実兄の嫡子を養子にして跡を継がせ、自分の嫡子を兄の養子にして継がせ、「本来あるべき美しい姿」に修正するほどの心酔していました。
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