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江戸時代の将軍日光参詣で、将軍は日光ではどこに宿泊したのですか?
輪王寺?
日光奉行所?
それとも将軍専用のナンチャラ御殿みたいな宿泊施設があった?

質問者からの補足コメント

  • うれしい

    回答ありがとうございます。
    ということは、将軍の行列は早朝に宇都宮城を出発して日光参詣をして、その日のうちに宇都宮城まで戻って来たという事ですか?
    宇都宮から日光まで約30キロ。Googleマップだと片道7時間かかるという事で、往復は不可能ではありませんが、結構な強行軍になりますね。

      補足日時:2021/11/10 19:38

A 回答 (1件)

徳川将軍家が日光東照宮に参拝する際に宿泊したのは、今の栃木県都賀郡壬生町にあった「壬生城」と今の宇都宮市本丸町にあった「宇都宮城」です。

 壬生城の本丸には約1860平方メートルで計990畳もあった将軍の宿所である御成御殿が建てられていました。 1462年(寛正3年)に壬生氏の始祖壬生胤業が、この城より北西にある常楽寺の西側・柵の内と呼ばれる場所に、俗に壬生古城と呼ばれる館を建てました。 そして、壬生城は文明年間(1469年-1486年)に壬生氏第2代当主壬生綱重によって築かれたとされています。 1590年(天正18年)小田原征伐で壬生氏が滅んだ後は、城主は目まぐるしく入れ替わりました。 1590年(天正18年)- 1600年(慶長5年)に結城秀康が、1600年(慶長5年)- 1634年(寛永11年)に日根野吉明が封じられました。 日根野吉明は、慶長7年(1602年)、祖父の弘就が西軍に属して取り潰された関係や、若年という理由から1万2000石(一説には1万5000石)に減封されました。 しかし、吉明は慶長19年(1614年)からの大坂の陣では徳川方に従い功を挙げました。 その後、日光東照宮の造営副奉行に命じられるなど江戸幕府のために尽力し、それらの忠勤が認められて豊後府内2万石に加増移封されました。 そうした経緯があり、壬生城の本丸に将軍の宿所が作られたのです。 1617年からの日光参拝では2代将軍秀忠が2回、3代家光が5回、4代家綱が1回の計8回、壬生城に泊まりました。 
江戸から日光までは3泊の旅になります。 日光に向かう最終日は壬生城か宇都宮城から出発しました。 19回の将軍参拝のうち16回は4代まで。その2回に1回は壬生城が使われました。 将軍参拝は、当初約1千人を従えたとされますが財政難で中断しました。 しかし、再開した8代吉宗のお供は十数万人でした。 壬生城は最初は、いわば『左遷』の城でしたが、日光参拝の将軍を守る重責を担うようになり、側用人や老中など幕府重臣を出す『出世城』になったのです。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。
将軍も籠に長時間揺られて大変でしたね。

お礼日時:2021/11/14 21:26

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