プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

1. 悪という存在は無い。

2. 悪は 善という存在のへそ曲がりから来る善の損傷行為である。

3. 悪は 善の関数である。負の善である。

4. 善とは ふつうに日常生活をぢみちに生きることである。

5. なぜ善は ヘソを曲げるか? 恥づかしがりやだからだ。

6. ひとは ぢみちに生きてへりくだる時 思わずこころを偽ってウソをつく。

7. ウソが へそ曲がりの初めである。

☆ これを問います。

A 回答 (14件中11~14件)

https://oshiete.goo.ne.jp/qa/12761048.html

こんにちは
ここを覗きに来るなら
歓迎します。
よろしくお願いいたします。
ではまたあとで。
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この回答へのお礼

そうですね。

ほととぎすのウタによって区別するというのは ちょっと簡単に過ぎるかとも思います。

でももし言うとすれば №4英語さんの《文脈に応じたやり方》という見方を支持します。


家康のやり方では 信長のように足利幕府をしのぐかたちで頭角をあらわすことは むつかしかったかも知れません。


信長が天下を統一していたら どういう統治をおこなったか。つまりは その局面が変わったわけですから 家康のような統治術へと変わったかも知れない。


秀吉が 天下を取ったのに どうして家康の台頭をゆるしたか。


家康の待ちの戦術というのは 一貫しているかも知れない。


こんな具合いに思います。感覚的な見方ですが。

お礼日時:2022/01/16 22:31

カントとヘーゲルをドイツ語原文で読みたいと思ってるのですが、


ヘーゲルの精神現象学が売ってないみたいなのですが、
変えないのでしょうか。まあ、お金もないですけどね。

ドイツ語の勉強もしたいのですが。

英語、フランス語、ドイツ語、
行ったり来たりで
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この回答へのお礼

ウェブで読めますよ。わたしは ほとんど最初でポシャりましたが。


▲ G.W.F. Hegel: Phänomenologie des Geistes (1807)
https://www.marxists.org/deutsch/philosophie/heg …

お礼日時:2022/01/17 04:47

先生、お早う御座います。


 ヒトの自然状態が、政治哲学者ホッブスの性悪性の仮説判断とは逆に、先生の場合、ヒトの自然状態が、そもそも性善性ではないのか?と仮説されてますね。  
 聖なるものがヒトに、そう設計しているはずなのに、悪を為すのは、バグ?マルウエアー?ではないですが、誤作動を起こした、とお考えなのでしょうか?
  その誤作動とは、ヒトが、神から独立した「自由な意識による判断」によるものではないか?とも考えられます。リリス推薦の気付きの知性と自由の毒リンゴをアダムとイヴが食した事件に、その端緒が有る?いや、そもそも毒リンゴ食わずとも、神はヒトの設計に神に依存しすぎない知性が伴う自由な判断能力を持たせていたのではないか?その機能の作動で、どうしても悪として、ヒトに内在するやましさの判定に引っ掛かる、性善なる存在損傷が起きているのではないか?とお考えになられているのでしょうか?
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この回答へのお礼

お早うございます。

★ ヒトの自然状態が、政治哲学者ホッブスの性悪性の仮説判断とは逆に、先生の場合、ヒトの自然状態が、そもそも性善性ではないのか?と仮説されてますね。  
☆ この点にかんして 以前から善悪という言葉に抵抗感がありました。

《よしあし》と言い換えてもいましたが 善そして悪という言葉は使わざるを得ないですね。

《地道な生活のあゆみ》 これを善と定義してもいます。あるいは《生命のたふとびと存在(特に意志)のゐやまひ》ですかね。

この生命・存在・生活の線では やはり赤子の状態としての《聖なる甘え》を事例に挙げて 自然本性は《善と悪とを超えている》というふうにも捉えたいです。

後天的に善と悪とを知る。

したがって《性善説》と言うよりは 自然本性は あたかも《善悪の彼岸》にあって ひとの生活はそこが故郷だと。




★ 聖なるものがヒトに、そう設計しているはずなのに、悪を為すのは、・・・誤作動を起こした、とお考えなのでしょうか?
☆ ヤマシサ反応で〔単に主観的に〕判定するところのウソ・イツハリです。川の流れを変えるのは。

それも むしろよかれと思ってのウソからです。料理でもてなしてくれて思わずまづいものでも《おいしいですね》と自己表現してしまう。褒められて いいえと謙遜する。そこには ウソも入りがちです。

道草を喰っていたとき さらに寄り道をしてしまう。


生命は有限で 地道なあゆみも相対的なことなので こころはふと曲がる(クリナメン)。その善が裏返る。あるいは この善は 多少よからぬことをやってもだいじょうぶだと思い込んだ。


★ その誤作動とは、ヒトが、神から独立した「自由な意識による判断」によるものではないか?とも考えられます。
☆ 自由意志の自由には おのれの心にさからう(寄り道をする)自由度がある。


★ リリス推薦の気付きの知性
☆ 道を逸れるというヘソの曲がりを 別の――外のものとしての――概念で説明する装置を発明するのに人は長けているのではないかと。

神は――という物語に沿って言うならば―― むろんひとが自由意志の自由度をその横道に行く選択肢としても使うことを分かっていた。

永遠のいのちのもとでは ウソかまことか――善か悪か――は 問題にならないんです。適当に修復したりしておしまいです。永遠にそれが繰り返されます。

お礼日時:2022/01/17 10:01

こんにちは


私の質問履歴を開けて
中の質問で書くことがあればどうぞおいでください。
ではまた。
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この回答へのお礼

神武関連で少し投稿しました。

お礼日時:2022/01/18 21:23

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