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(おことわり:ここでは人間をヒト,それ以外の動物を生物として区別します)

ある日、運動神経がずば抜けて高い女子(A)が私に体育の点数がAより低かったので自慢してきました。
そこで私は、『Aは確かに体育が得意だけど計算緑や作文力は人より著しく劣っているよね』といい、やり取りを聞いていた教科担任が『でも計算なんて電卓あればいいじゃん。その点、スポーツは原始的な生活をする時に役立つじゃん』と反論してきたので、確かにそうだと思いつつ、それはヒトではなく生物としての1面であって、今は日本にいてヒトとしての生活を営んでおり、尚且つそんなとこ行くのであれば生存する最低限の力を身につけることは当たり前だよねとも思いました。
要するに、私たちはヒトなので、ボルトのように努力もせずただ生物としての強みがあるだけで持て囃されるのはおかしいのではということです
もちろん、部活に必死になって取り組んでようやく日本一の栄光を手に入れたなどであれば注目されて当然だと思います
しかし、前述の通り、『持ち前の』能力を発揮しているだけでちやほやされるなど言語道断だし憤りさえ覚えます
日本では今勉強よりスポーツの成績が良い方が有利である事実があると私は感じています。
それは考える動物である我々が繁栄する上で必要な本能的なものではないと勘案しております
皆さんはどう思われますか?
学生時代スポーツが得意だった、勉強が得意だったなども教えて頂けるとうれしいです
よろしくお願いします



余談ですが、後から聞いた話では、Aに知的障害があり、その理由から先生がカバーに入ってくれたようです。配慮の足りなさ故に人を傷つけてしまったことは反省していますが、今回の質問の題意とは全く別問題です

A 回答 (3件)

私は、ヒトの発達についての研究職に就く者です。

その職業柄知り得ることの一端を申し上げます。

結論から申し上げますと、運動能力が高い人は知的能力も高いです。脳も身体の一部ですのでね。脳機能とはつまり身体能力なのですよ。脳機能が著しく低い状態で、高い運動機能を保つのは難しいのですし、その脳機能の低さは、まず何よりも身体機能に表れます。お箸が上手く使えないとか、よく転ぶとか、投げられたボールの軌道を目で追えないとか、ですね。健康な発達を遂げた人も、事故などで脳を損傷しますと、何よりも顕著に体を動かすことがぎこちなくなりますよね。
ですので、身体能力が高い人が、お勉強が不得意というのは、極めて特殊なケースと言えます。

確かに、それが大きく偏ってしまう人というのが、います。大抵の場合には、知的障害があったり、発達障害者であったり、自閉症、学習障害などの、不定形の発達の在り方を得る人であったりします。
そういう人達が、あることについては、ずば抜けた才能を持ってしまうケースというのがあって、それは持って生まれた才能なのかというと、割とそうでもなく、その人の脳機能として、機能をセーブする能力が未熟であるので、とことんまでアクセル踏んで脳機能の隅々まで使い切るから、そうであるのだと言えます。脳の全機能を特定のことに傾けてしまうので、他のものが入る余地がなくなり、その偏りがある状態で、発達を遂げると。そして結果、役立たずと言われたり、才能があると言われたりします。

それは、脳機能が発達途上であったりする子供にもよく見られる傾向ですね。ですが、かつてそうであっても、成長ごとに特定の才能の発揮というのが、見られなくなります。
脳機能のキャパシティはすでに設定されている。なので、学習により、多くを獲得するということは、より多くを選択的に捨て去るということと同じですのでね。
学習とは、ずば抜けた特定の才能を磨くことよりは、バランス良く、まんべんなく凡庸であることを目指すのです。

また、人とは個体であったり理念であったりするのかも知れませが。ヒトであることとは、種属の形態を持ちます。その種族を生き延びさせるためには、その種族全員が同じ行動形態では困るのですし、同じ機能、同じ能力では困るのです。全員が同じだけの機能、同じだけの行動形態ならば、ひとつの原因だけで全滅しますからね。なので、人は、学習として凡庸であることを望みながら、ヒトとしては非凡であるものからの恩恵を期待します。生き延びる可能性ですね。
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この回答へのお礼

理解できない部分もありますが大変勉強になり、専門家の方からの回答で大変嬉しく思います
ありがとうございます

お礼日時:2022/04/08 16:42

> 日本では今勉強よりスポーツの成績が良い方が有利である事実があると私は感じています。



絶対に、それは無い。

毎年、甲子園に出場できる人なんて限られているし、そこからプロになって、クビにならず30歳までレギュラーでプレーできる人なんて、ごくごく限られている。

一方で早稲田や慶応なんて1学年で1万人近くいて、早稲田を卒業していれば、あぁ立派だねと言われながら、それなりの有名企業に就職して、比較的に安定した生活ができる。

スポーツができるより勉強ができる方が優遇されている。
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この回答へのお礼

確かにその通りだと思います
ありがとうございます

お礼日時:2022/04/08 16:43

人間の運動能力、知的能力には平均値があり、平均値を上回るのなら他の人たちよりも優れている、という見方になります。


それが、「努力して手に入れたもの=必死になって取り組んで日本一位になったもの」だと努力の才能、「持ち前の能力のみ=努力せずとも生まれながらに平均値より優れている」生まれもっての才能となるわけです。
ですので、ヒトとして生活を営み、そのヒトの生活に運動能力を競うものがあるのならば持て囃されて当然だと思います。

しかし、先生の言う「数学は電卓があるから必要ない、運動は原始的な生活をするのに役立つ」とのように数学を否定するならば原始的な生活だって同じように今には必要のないことなので否定できます。

運動は原始的な生活をするのに役立つ、ではなく、現代の運動能力を競う科目において優れていて凄い。というのが合っていると思います。

先生の、カバーが誇張しすぎたゆえの発言ですね。
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この回答へのお礼

なるほど、思いつかない新しい視点でした
ありがとうございます

お礼日時:2022/04/08 16:44

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