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綺麗な文を書くには?と問われての、
お決まりの答の一つは「文は人なり」です。
文はつまり思想なわけですからまず人を磨けと、まあ当然かなと思います。

では綺麗な音楽を創るには?

映画『アマデウス』の中で、モーツアルトが「僕は下品ですが、僕の曲は違います」
とセリフはうろ覚えですが、そんなことをキッパリといっていた記憶があります。
映画を見る限りでは、時おり酒に溺れていただけで根底なところでは敬虔だったという気もしますが、この辺りも詳しい方の見解を聞かせて頂ければ嬉しく思います。

詞の入らない旋律だけの音楽の作曲において、
歴史が認めた作品とその作曲者の人間性(*1)に、
作文でいうところの「文は人なり」の関係は
認められるのでしょうか? 否でしょうか?

*1:
「人間性」という語が随分とアバウトだなと自分で質問を書いていて思うのですが、この質問は裏を返せば「音楽を作曲する才能」に関わりの深い人間の内面的ファクターは何かということでもあり、疑問の中核でもあると考えてこのまま投げることにします。

A 回答 (7件)

 「綺麗な」という言葉の解釈が問題かなと思います。



 自分にとっては~という部分が抜けない限り、何をやっても客観的にはならないでしょうしね。

 つまりは文章も音楽もその人物の心の内を表した物な訳ですから「文は人なり」も有効なわけです。他人に受け入れられるのかどうかは別問題でしょう?その点アマデウスは貴族に雇われている訳ですから、観点が違うのでしょうね。

 それから、こういった問題を考えていくうちに「わざと難しい言葉」を使って分かったような気になる事もあるので、もう少し考えた方が良いかもしれませんね。ただの言葉遊びになりかねませんよ。
 新聞や雑誌では「中学卒程度が読んで理解できる内容になる文の作り方」を基本にしているそうです。
小さい子どもに分かる様な説明の仕方って案外難しいんですよね。
 素に帰って言葉を整理すると自分の思考も整理されるので、一度おためし下さい。
 案外答えは単純なことが多いのです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。

>「綺麗な」という言葉の解釈が問題かなと思います。

一般にいう「よい音楽・よい文」程度の意味で省いてもよいぐらいの修飾です。

> もう少し考えた方が良いかもしれませんね。ただの言葉遊びになりかねませんよ。

今回のわたしの質問のように、まぁ普通に考えて正解のでなさそうな質問は、
しょせん言葉遊びの域を出ないものにしかなりえないと思っています。
それも承知の上で、色々な人の考え方を多様な表現で聞かせていただければと
考えていました。
ということで「言葉遊び的回答」でも歓迎です。

お礼日時:2005/03/25 13:42

>>「言葉遊び的回答」でも歓迎



「文は人なり」
ならば… 人の心の中には誰しも鬼や悪魔が潜んで居ますが…

こう言う人は文章を書く資格は無いのでしょうか?

神などと言う存在は信じがたいですが、概念的には心の中に存在するとした方が(哲学や芸術や宗教)では都合が良いかも知れません。
-----------------
芸術(音楽も)は、それに触れた人にとって何らかの琴線に感じるものが有った時感動をおぼえるので有って、どんな素晴らしい作品でも興味の無い人には駄作でしか無いと思います。
-------------------------
神なんか信じませんが(Muse)って、それぞれの分担を持った九女神とはどんな美女達だったんだろうと想像する事は男にとってはロマンの一つですが…
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。

> こう言う人は文章を書く資格は無いのでしょうか?

資格ではなくハウツーの話なんですが、プロの作家の方がよい文章を書くには何が必要かに「文は人なり」と書いています。(『文章読本さん江』斎藤 美奈子著が参考になるかと思います)
鬼や悪魔が潜んでいることを発見し、それと対峙し統制し監視し、研究し解剖し培養(?)すれば、いい文章が書けそうな気がします。(←これは個人的見解)

> 芸術(音楽も)は、それに触れた人にとって何らかの琴線に感じるものが有った時……

文章が読み手を意識するほどには、音楽は聴き手を意識していないのかなという印象を受けました。

お礼日時:2005/03/25 22:17

 こんな難しい問題にわたしなどが口を挟むことではないのでしょうが。

。。。。

 一般的に芸術家たちは夢の中で神からの啓示を受け止めるという言い方をしますね。
 夢の中で素晴らしいメロディを聞く、そうしたチャンスにある日恵まれる、それこそが作曲者があこがれていることではないのでしょうか。
 夢を見る、その中で素晴らしいメロディを聞くというのは、本来はなにか人間サイドの心理学的な理由が別にあるのかもしれませんが、事実、多くの作曲者たちはこれを神の啓示と受け止めて、なんとかこの現世でそれを再現しようとする。

 たとえば、作曲者は誰でしたっけ。。。「悪魔のトリル」、あの大変複雑な、高度なテクニックがなくては演奏することも困難な曲、それだけにもう人間の感性ってこれほどまでも豊かなものかと驚かされる、だのに、かの作曲者は「夢の中で悪魔が弾いて聞かせてくれたものはもっともっと素晴らしく、こんなものじゃなかった」と言ったとか。。。。

 ということは、つまりですねえ、ある日神や悪魔たちから与えられた啓示をどれほどまでに人間の能力で再現できるかってことがあたなへの回答なのかしら。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。

> たとえば、作曲者は誰でしたっけ

調べました。タルティーニ(1692-1770)
なるほど。類似するエピソードは他にも多数ありそうですね。

> ということは、つまりですねえ、ある日神や悪魔たちから与えられた啓示を……

作曲者はよい作品をつくるためには、いつ受けるかともわからない啓示を「ただ待つ」だけしかないということでしょうか。必要な修養を山積みにされても苦しいですが、これもまた苦しいですね。

(作文と作曲、似て異なるどころか全く異質なものを比較してしまったような気が。。。)

お礼日時:2005/03/25 23:06

初めまして。


ウハッ音楽カテゴリーなのに殆んど哲学ですね。

さて御質問文中の「文は人なり」なんですが、これは、そう単純なことではないと思います。

昔、何かで読んだんですが、かの有名過ぎるシェイク スピア「ベニスの商人」。
この作品のなかの一場面に悪役シャイロックがユダヤ人に対する蔑視をブツブツとぼやく場面が出てくるのですが、これの作者である当のシェイクスピア本人は、その当時の一般的英国人らしくユダヤ人は蔑視の対象として何ら疑いを持っていなかったらしいんです。つまり作者本人の思想識見とは関係のないところで描写されている。

さすがに世界に冠たる御大シェイクスピア!文学史上に偉大なる足跡を残した傑物!ここまできたら一人間としての範囲など超えておる・・・。
ある意味「人となりが文に表れている」うちは、大したことないのかも知れません。

ところで「音楽」です。
私にとって音楽とはリクツだの思想だの教養だの修行だの人間性だの、およそ、こうしたことから最も遠いものです。それは巫女のごとく天の声を我が肉体を通して奏でるものです。音楽「理論」というものがあることは存じてますが、それすら「天の声」を際立たせ人の心の弦を震わせるための洗練の方策に過ぎません。
そして不思議なことに「数学」世界と相通ずるものであるように思います。
その違いは「音楽は訪れるもの」「数学は発見するもの」といったところでしょうか。でも突き詰めれば同じことになるのかも知れません。

なぜ、この旋律が、このような情感を呼び起こすのか?なぜ、このような数式が成り立つのか?

音楽を、こよなく愛する人間に、すばらしい旋律が産み落とせるとは限らない。作曲に限らず歌でも楽器でもそうですよね。修練訓練だけでは、どうにもならないものがある。それが分かる「秀才」は「天才」がねたましくてたまらない。

映画のなかでモーツアルトが根底では敬虔だったように描かれているそうですが、だとすると、それはつまり「啓示に対して素直な」感性を持っていたということでしょう。
常にではないが、かくありたいと願い続けて修練している人のアンテナに、ただ一度だけ「啓示」という稲妻が降りることもあるでしょう。こういう人が「一発屋」
別に願っているわけでもないのだが、そのアンテナは常に感度が良くて、しょっちゅう稲妻が降りてくる。
これが正真正銘の「天才」。

「稲妻が降りて来やすいアンテナを持つ」これが強いて言えば御質問者様の仰る「内面的ファクター」に相当するのでしょうか。どうやら我々にとって分かりやすい理屈ではないようです。むしろ大脳生理学的に追究するべきなのかも知れません。

しかし、「感度の良いアンテナ」を与える条件が何に拠るのかが、まずもって疑問ですわね・・・。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。

一行追うごとに小躍りしたくなる展開と、一節ごとに核心に寄っていく手応えを感じつつワクワクと読み進めていけば、最後の段で、神と啓示を両脇に抱えさせられたまま大脳生理学へとご案内されて、思わず「そ、そんな……」と漏らしましたが、読み終えてみればブルグミュラーのアラベスクのような小気味良い旋律が回答文から聴こえてきて、今回の質問とは全然違うところに図らずも音楽と文の接点を発見できた気がしてよろこんでます♪

> ところで「音楽」です。

このパートがとくに勉強になりました。そうか!これは「人、未だ音楽を知らず焉んぞ作曲を知らんや」ってことなんだと解釈して、もう殆ど解決気分です。
数学と相通ずるものですか。私は数学に対して、神を倒せる人類唯一の凶器だというイメージを持っていたので、神と親和な音楽と相通じると言われても最初はピンときませんでしたが、思想だの人間性だのが一切介在しない世界という共通項で捉えてみれば、確かに相通じるものが(欲目で見れば作品の完成美にも?)あるように思えてきました。

お礼日時:2005/03/26 07:31

 No.3のjanvierです。

そうですね、難しいことは分かりませんが、作文と作曲は、一部では共通項を持つものの、基本的にはまったく異質なものだと思います。

 文を書くという作業には、まず言語や文字を知ってなくてはならず、濃い内容にするにはそれ相当の知識や経験がなくてはなりません。さらに相手に伝えるには、これを読ませるというステップが必要になります。つまり、文を書くという行為は知性と経験なくしては不可能なこと。書く人それぞれの「人となり」がなくては文は書けない。「文は人なり」というのもそこから来ているのではないでしょうか。

 一方、曲を作る、奏でる、歌うという作業にはなにも要らない。突然口をついて出るメロディーだって、時にはえもいわれぬ美しいものになることすら可能性がないわけでもない。未開の地の人々、あるいは知能の発達が遅れている人ですら、いえ、彼らだからこそ、素晴らしい音楽を創造することすらあり得ると思います。たぶん絵画や舞踊などもそうだと思いますが。

 それだけに、神の存在や啓示とまでは言わないまでも、作曲家たちは彼ら自身の能力をフルに活用して曲を生み出しながらも、いつかある日突然閃くなにかを期待し続けているとわたしは思います。いわゆる「神は自らを助くる者を助く」の世界だと思います。

 作曲家たちはこれをインスピレーションと呼び、デザイナーたちはこうした閃きをアイデアと呼ぶのかも知れませんが、モーツアルトなんかを見ているとこうした閃きの多さは到底ひとりの人間の頭脳にプレインストールされたものだけではなさそう、やはりどこかから発信され贈られたものをダウンロードしているとしか考えられない。そこに神の存在と啓示を感じてしまうのです。

 わたしにはこのぐらいしか語れませんが、デザインを仕事にし、エッセイを副業に考え、歌を歌い、絵を描いているわたしとしての実感から出た感想です。
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この回答へのお礼

再度の回答ありがとうございました。

人間のしていた仕事が次々とコンピュータに取ってかわられていくさ中にあって、職場の席をなくさないための人間側の最後の牙城はcreateになるんだろうなあと考えています。
作文もcreateなら作曲もcreateと言われていますが、考えてみれば「create:創造」のこの語を、人は随分と曖昧なままに使っているんですね。今回は、そのことにあらためて気付かされた感じです。もっとも曖昧に扱うことしかできないからこそ、プログラムに組めないのでしょうけど。
それにしても、createは想像以上に幅が広い。あらゆる未知までをも内包する広さに感じられます。

> やはりどこかから発信され贈られたものをダウンロードしている

人類のスーパーベスト盤を携えて、ターミネーターみたいに未来からやってきた人だったのかも。

お礼日時:2005/03/26 23:25

神のメッセージが人々に伝わる曲を作曲できること。



逆に、音楽の神は その音楽を聞く人に何を期待しているのだろうか?
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。

> 神のメッセージが人々に伝わる曲を作曲できること。

#3さん談の「悪魔のトリル」にあるように、作曲者の想いに曲が及ばなかったりもするとか。囲碁や将棋のプロが一度目にした番の棋譜を易々と諳んじているのを見ると、作曲者が耳にした曲を五線譜に落とすのもたやすい事のように思われるのですが、意に満たないこともあるとすれば、それは言うほど易くはないか、あるいは翻訳のようなプロセスが要るのか、などと考えてしまいます。絶対音感すらない私には想像し難いところなんですが。

> 逆に、音楽の神は その音楽を聞く人に何を期待しているのだろうか?

音楽の神は、その曲が奏でられたというだけできっと満足なさるのでしょう。聴き手を見やることがあるとすれば、決して期待からではなく、あって反応への些細な関心程度のもの。この質問に関わっているうちにそう思えてきました。

お礼日時:2005/03/26 23:36

ふと思い出したのですが


カフカって作家は
「自分が死んだら書き溜めた作品全部、燃やしてくれ」
って遺言してたそうです。もちろん生前、誰かに読ませたわけでもなく。だから遺言どおり処分されてたら彼の作品世界を我々は知ることもなかったかも知れない。グレゴール・ザムザのこともヨーゼフ・Kのことも・・・。
伝えることが最終ゴールのはずなのに、それを目的にはしなかった、その心とは・・・??
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この回答へのお礼

再度の回答ありがとうございました。

> 伝えることが最終ゴールのはずなのに、それを目的にはしなかった、その心とは・・・??

(疑問文型の回答にどう応じてよいか戸惑っていますが……)

神へむかって作品を提出していた、という心境でしょうか。

ただ「全部、燃やしてくれ」ということは、完全な敗北を認めたということですよね。
物悲しい気分にさせられます。負けるが勝ちの作戦だったらいいのですが…(その心とは?)。

お礼日時:2005/03/26 23:53

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