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《思っている(考えている・うたがっている)われがある》とは言っていても 《思っていないときのわれ》については 何も言っていない。

言いかえると 《われ》の人格ないし存在の全体については 何も言っていないし証明していない。


結論は 出ているはずなんですが 確認のためにも 問い求めます。決定的な見解はお持ちでないですか?

質問者からの補足コメント

  • №1つづきです。


    部分的なわれが 実感され確認されたとしても 何か意味がありますか?


    たとえば《きのうわたしは ご機嫌でした。そういうわれが疑いなく実感されました》といったことの確認が どこまでの意味がありますか?

    No.1の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2022/06/27 13:43
  • 回答したくなければ ご自由にどうぞ。

    No.18の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2022/07/06 04:48
  • ブロックするにあたいしない。

    No.20の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2022/07/06 05:28
  • №34補足1

    ★ (№34) ~~~
    ・・・
    でも、沢山の人格を体内に宿せるってな事例を考えたら

    人格が崩壊しないようにするなにかはあるはずでね

    そのなにかは我なんじゃないのかな?
    ~~~
    ☆ この人格を思考・推論のハタラキないし過程だと捉えるなら その推論をひとつの問題に対していくつか用意することがある。

    これを《統覚する》のは 理性です。

    ところが この理性が:
    ★ そのなにかは我なんじゃないのかな?
    ☆ と問うた場合 やっぱしこれも違うんです。われありなる存在の全体ではない。

    なぜって ひとの精神には 推論を推し進めすべての思考をまとめる理性のほかに そのいくつかの結論を取捨選択し最終の判断をくだす意志というハタラキがあるからです。これを実行に移すのも 意志。


    まだなお《われ》の一部分しかあつかっていない。

    No.34の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2022/07/08 03:18
  • №34補足2

    《いくつかの人格を統合する》と表現した場合 その《統覚》作用は 理性(知解)だけではなくそこに すでに意志もくわわっているかも知れない。

    もっと言えば 知覚し認識した概念を整序し収める作用としての記憶行為さえ すでに入っているかも知れない。

    だったら 《われ》の全体か?

    けれども ほかに感性がある。


    では 精神(記憶・知解・意志から成る知性の全体)と身体(感性)をふくめれば われなる存在の全体をあらわすか?

    けれども ひとなる生命体には 精神と身体から成る自然本性に その本性を超える何かがなおはたらくかも知れない。

    ヒラメキであったり 良心によるヤマシサ反応であったり。そこから得られる思考や恥ぢの意識を加えても なおそれらを超える《何か》は あるかも知れない。

    こういった捉え方が出来て 《われ》論・《存在》論は なお探究がつづくと思われます。

      補足日時:2022/07/08 03:34

A 回答 (39件中1~10件)

われ思うゆえにわれあり



この言葉を認識して

そういった考え方を認識することで
そういった考え方もあるんだと言う話を!

どういった内容で認識するのかは、個人差がある

そういった考え方を否定的に捉えて
意味が無いと言うのは個人の自由ではあるが

われ思うてな話に

われ思わない時はどうなのか?

てな自説を掲げて、われ思うゆえにてな言葉を否定してるだけの言葉だと思いますよ

われ思う

てのは、自分自身の思考のなかで
鏡を想像して
思考のなかで鏡に写った自分自身と鏡をみてる自分自身との対比みたいなもんだから

われ思わない
てな言葉になると
思考のなかで鏡が無い状態になるから

鏡がないからわれも無いてな話をしてるだけなんですよね

意識や思考のなかに
鏡をつくるところから
われ思うてな言葉を考察しないと

われ思うてな言葉に意味が無いのではなく
われ思うてな言葉そのものを理解してないんじゃないかな?

bragelloneさんとのやり取りで感じたのは

他人の考えを理解できてなく
また、他人の考えを否定に捉えてるだけで

無い証明とか在る証明とかって

悪魔の証明と呼ばれる論法を講じてるだけだと思われますよ

在る証明とか
無い証明とかではなく

そういった考え方もあると認めてから

個人的には否定的だと唱えるなら

他人の考えを尊重しつつ
自分の考えを披露してるってな話にはなるけどね
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この回答へのお礼

☆☆ われ思うゆえにわれあり

この言葉を認識して

そういった考え方を認識することで
そういった考え方もあるんだと言う話を!

★ どういった内容で認識するのかは、個人差がある
☆ としても 最大公約数の理解が共通に成され得るのが ふつう。

その共通の理解だと自分が思う内容で 回答を寄せるのが ふつうであり この場合の質問にも当てはまるはず。

さもなければ その前提となる見方について物言いをつければよい。

これまでの物言いは ほとんどすべてが 母ちゃん出べそ方式のたぐいであった。


あとは すでにことごとく反批判済み。

たとえば:
★ 意識や思考のなかに
鏡をつくるところから
われ思うてな言葉を考察しないと
☆ というとき この《鏡をつくる・鏡を見る》は けっきょく《思考・認識するわれ》といったわれの一部分を問題にしているに過ぎない。

趣旨説明のイの一番にそういう理由説明をしているのに 延々と――何を思ったか――無駄な物言いを繰り返して来ている。






★ 悪魔の証明と呼ばれる論法を講じてるだけだと思われますよ
☆ 完全に錯乱状態。




もうこの件にかんして 応答するにあたいしないと断言してよいだろう。

お礼日時:2022/07/09 08:05

☆ つまり 循環論法です。

つまり 意識したり認識したりするならそれは認識できるんだという気分である だから 実感があり確認できる・・・という思い込みです。

この文章からの反論ですよ

確かに、世の中すべて思い込みでできてると言い切れば

それだけの世の中ではあるが

すべてを思い込みだと言い切らないで語る姿勢に

( ̄~ ̄;)なんだろうなぁ~

とはとは思いましたよ
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この回答へのお礼

☆☆ つまり 循環論法です。つまり 意識したり認識したりするならそれは認識できるんだという気分である だから 実感があり確認できる・・・という思い込みです。

★★ ~~~
概念だからない

てな話なら

信用てな考え方はどうなるのかな?

また、お金なんてなものは

概念を物質にしただけのものであって

お金なんてなものも、想像の産物なのかな?
~~~
☆ 《概念だからない》とわたしが言っているのですか? いや 分からない。

★★ ~~~
さらに言えば

善悪なんかも単なる概念であって
神や仏!魂や愛情なんかもね


また、人の記憶なんてのも
明確にこの場所に保管されてるてな事もわからないから
記憶も想像の産物なのかな?

心なんてな考え方や
ストレスなんてなのは学説のひとつでしかないけど

ストレスが原因で病気になるのは
病気になった人なら、理解はできる話だとも思うけどね
~~~
☆ 循環論法あるいは気持ち主義あるいは外枠方式(かあちゃん出べそ方式)と いったいどんな関係があるのか? 不可解です。


★ ~~~
確かに、世の中すべて思い込みでできてると言い切れば

それだけの世の中ではあるが
~~~
☆ 世の中のことを言っているのではなく あなたの回答文章のあり方のことです。

お礼日時:2022/07/08 11:32

さらに言えば



善悪なんかも単なる概念であって
神や仏!魂や愛情なんかもね


また、人の記憶なんてのも
明確にこの場所に保管されてるてな事もわからないから
記憶も想像の産物なのかな?

心なんてな考え方や
ストレスなんてなのは学説のひとつでしかないけど

ストレスが原因で病気になるのは
病気になった人なら、理解はできる話だとも思うけどね
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この回答へのお礼

何について・わたしの文章のどこの部分をめぐって 言っているのかが分からない。

お礼日時:2022/07/08 08:15

概念だからない



てな話なら

信用てな考え方はどうなるのかな?

また、お金なんてなものは

概念を物質にしただけのものであって

お金なんてなものも、想像の産物なのかな?
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この回答へのお礼

☆☆ (補足コメント5番目)
・・・《われ》論・《存在》論は なお探究がつづくと思われます。

お礼日時:2022/07/08 08:14

そうだと思います。

自分の意識と自分の身体、その思考や反応や行動とその結果があるから、とりあえず我はあるということにして、その中でいま頑張れることを一生懸命やった方が良くない?という提案がその時はすごく重大な舵切りだったということではないでしょうか?

当時は宗教的な世界観が世の中の規範だったため、全て神様との関係性で物事を判断するのが一般的だったのに対し、自分一人で論理的に考えるためのベースラインを作ったということだと思います。

なんでも神様のせいにすると思考停止してしまうから、いったんわかる範囲で論理的に考えてみますという思考実験の宣言であって、科学などのいったん神という概念を隠すことで発達する思考の出発点的な考え方なので偉大な言葉とされているということかと。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


★ そうだと思います。
☆ 賛成票でしょうか。ありがとうございます。


★ 自分の意識と自分の身体、その思考や反応や行動とその結果があるから、とりあえず我はあるということにして、その中でいま頑張れることを一生懸命やった方が良くない?という提案がその時はすごく重大な舵切りだったということではないでしょうか?
☆ そうですね。われはあるか 何度も疑ってみてもその疑っているということは もはや疑えない ゆえにわれあり・・・こういった説明が成されます。

その思考するわれにかんしては かなり明証性があると言いますか。・・・



★ 当時は宗教的な世界観が世の中の規範だったため、全て神様との関係性で物事を判断するのが一般的だったのに対し、自分一人で論理的に考えるためのベースラインを作ったということだと思います。
☆ まぁ 神の存在の証明をもやろうとしたわけですが。・・・


★ なんでも神様のせいにすると思考停止してしまうから、いったんわかる範囲で論理的に考えてみますという思考実験の宣言であって、科学などのいったん神という概念を隠すことで発達する思考の出発点的な考え方なので偉大な言葉とされているということかと。
☆ 身体と精神とを分離させて二元論を唱えることをもしたようですが。

実はもっと複雑な事情があるということをも情報として持っているのですが ここでは一たんこの質問趣旨までとしています。

お礼日時:2022/07/07 13:24

多重人格者のケースなんかだと



なんらかの要因で沢山の人格を造り出したりするんだけど

そういったケースの話だと

主人格は、他の人格が現れてるときは
意識の奥底で隠れてたり、寝てたりしてるらしくて

多重人格者の精神のなかで、他人格と相談したりもするらしい


人格が我なのかと問われれば

人格とは、形成されるものだから
我ではない

でも、沢山の人格を体内に宿せるってな事例を考えたら

人格が崩壊しないようにするなにかはあるはずでね

そのなにかは我なんじゃないのかな?


我を思った事もない人には、我なんてな概念がないから
造り出された想像の産物だと言い切りたいのかもしれないけど

我てのが認識されないだけで
眠ってたり、隠れてたりしてる可能性の方がつよいよ

何故に強いのかと言えば

我を思って意識したり、認識したりすることで

我てのは、うっすらではあるけど認識はできるからね

我を認識したり、意識したりしたら

我を思わなくても、我は内包されてるのが事実であって

多重人格のケースみたいに
精神のなかでかくれてたり、寝てたりするのかも知れないけどね

仏教だったか、密教だったかうろ覚えだけど
逆に、自我を捨て去る修行なんかもしてるから

我思う故になんて言葉が伝わらなくても

無我の境地を目指したりもしてるのは

我なんてなものの存在の証明なんじゃないの?
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

★ ~~~
我を認識したり、意識したりしたら

我を思わなくても、我は内包されてるのが事実であって
~~~

☆ いいや。その場合も 《われを認識するわれ われを意識するわれ》が実感され確認し得るということです。


《われを認識(しそれを確認するかのように意識)するわれ》以外のわれは どうなのか? です。

言いかえると そのように《認識し意識する対象としてのわれ》は われの存在ないし人格の全体だと言えるか?






じつは この問いに対して答えらしき説明があるにはあります。

★ ~~~
何故に強い(☆ または 認識の対象たるわれが われの全体だと言える)のかと言えば

我を思って意識したり、認識したりすることで

我てのは、うっすらではあるけど認識はできるからね
~~~
☆ つまり 循環論法です。つまり 意識したり認識したりするならそれは認識できるんだという気分である だから 実感があり確認できる・・・という思い込みです。

お礼日時:2022/07/07 09:33

多重人格の話とかって


知ってるかな?
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この回答へのお礼

論点ズラシ。

お礼日時:2022/07/07 09:09

外枠方式なんてな話や、一般論なんてな話もね



結局は、bragelloneさんの好みにあわないものを否定してるだけなんじゃないのかな?

哲学とは好むとか好まざるとかって
話とは無縁だと思うけどね

いろんな人の考えを理解できないとね
どんな素晴らしい考えを示したとことろで
他の人には理解されないとも思うよ

他の人の考えを理解できるからこそ


他の人も理解できる考えを示せるってなスタイルでないと

独りよがりになってないかな?
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この回答へのお礼

☆☆ (趣旨説明欄) ~~~
《思っている(考えている・うたがっている)われがある》とは言っていても 《思っていないときのわれ》については 何も言っていない。

言いかえると 《われ》の人格ないし存在の全体については 何も言っていないし証明していない。
~~~
☆ この理由説明について 何も触れていない。

または 触れない理由が 説明されていない。




★☆ ~~~
他の人の考えを理解できるからこそ


他の人も理解できる考えを示せるってなスタイルでないと
~~~


こちらは 外枠方式――かあちゃん出べそ方式――では 気分を述べただけに終わるという理解をしめしている。事実 そういう経過で来ている。



つまり 勇み足で言うとすれが デカルトのコギト命題は 一般に有効だという説が通用している・・・のだから つべこべ言わずに従え。というクウキ教徒による回答内容。

こういう理解です。

お礼日時:2022/07/07 08:59

外枠だけだと


子供のお遊びだと言われても

( ̄~ ̄;)

外枠だけで考える人も居てるからね

そういった人の思考を排除して導きだされた哲学って

たんなる趣味の領域なんじゃないかな?

質問の出来や不出来に限らず

質問文を質問だとして捉える人も居てて

質問文を質問だと捉えることから
質問者が気づかなかった事柄や問題点を、質問者に気付かせることもあるよ

そもそも、質問に出来や不出来ってのは

あんまり関係ないとも言えるけどね
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この回答へのお礼

よりいっそう うすっぺらい一般論。

おまえのかあちゃん 出べそ! 方式から さらに水割りをして 《人によっては ヘソの緒の切り取り方がまづくて 出べそになる場合がある》と言っているに過ぎない。


まぁ 念には念を入れてコメントするなら そういった大雑把な外枠発言による方式で あたかも相手の発言をことごとく覆い包むというクウキ方式の対話〔と呼べない対話〕もある。


一般論なんだから一般性があると思い込み だから自分の外枠発言は 相手の発言を丸呑みしている どうぢゃ? まいったか? とまでの錯乱に落ち入る場合すらある。

お礼日時:2022/07/07 08:35

bragelloneさんの発言で


中身や外側てな言葉が出てきたから
そう判断したんですよ

言うなれば
教えて!gooなんかで繰り広げられる
質問に答えてくれてない

てな言葉を発する利用者さんみたいな感じですね

質問文の全体を質問として捉えた場合は

質問者のもとめる、質問内容にだけ限定した回答が貰える訳でもなくて

哲学なんかだと
全体と本質の両方を考察しなきゃ片手落ちになりますからね
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この回答へのお礼

★ ~~~
質問文の全体を質問として捉えた場合は

質問者のもとめる、質問内容にだけ限定した回答が貰える訳でもなくて

哲学なんかだと
全体と本質の両方を考察しなきゃ片手落ちになりますからね
~~~
☆ これは 一般論。

その一般論を通すためには 具体的に次のような理由説明ないし事情説明が必要でしょう。

①  《回答内容は 〈質問者のもとめる、質問内容にだけ限定〉されるわけではない》という批判が 有効になるためには 一件だけでもこの質問に即して この質問の内容や仕方が成っていないという例示の説明をするのが 最低条件。

② ☆☆ (趣旨説明欄) 《思っている(考えている・うたがっている)われがある》とは言っていても 《思っていないときのわれ》については 何も言っていない。
☆ この理由説明について 具体的に批判されたことはない。つまり 有効である可能性を持ちつづけている。


③ ★ 全体と本質の両方を考察しなきゃ
☆ という反論が 《おまえのかあちゃん 出べそ!》方式なのです。

・ 出べそを見たんか? と返さねばならないし また どういう推理でそう判断したのかを いやしくも哲学なら 述べなくてはならない。

④ 現象だけを捉えてものごとの真相を推理する場合もあれば 一部分を捉えて分析するだけですでに全体観が得られる場合もある。

⑤ 中身が分かれば 外枠を放っておいても(結論を述べなくても) すでに評価や批判は終えていると言える場合がある。

⑥ ところが 外枠(つまり 《かあちゃんが出べそ》という結論)だけでは ただの子どものお遊びに過ぎない。

・・・

お礼日時:2022/07/07 08:06
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