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1. 《われ思う ゆえにわれあり》なる命題は 無意味ですよね?

2. 《思っている(考えている・うたがっている)われがある》とは言っていても 《思っていないときのわれ》については 何も言っていない。

3. 言いかえると 《われ》の人格ないし存在の全体については 何も言っていないし証明していない。

4. それとも 《われ考える ゆえに 〔考えていないときのわれをふくめて全体としての〕われあり》と言っているし 証明つきで言えている・・・のでしょうか?

質問者からの補足コメント

  • №2-1

    ★ 確かなものは無い、と思っている自分は、確かである、
    という感じなのだと思います。どちらかと言うと、無知の知の二番煎じ?的な台詞かもしれません。

    ☆ 確信の根拠は何か? 確信のつよさ・・・になるでしょう。愚公山を移すと言いますし その信念を 中には やり遂げる人間もいますから。 


    ★ ・・・つまり、私=思い と言う事なのだと考えます。
    ☆ ですが その《私は存在す》へは 遠いです。

    ★ つまり、疑念という名の自我が生まれたと言う事です。
    ☆ 疑念も自我も 《わたしはわたしである》わたしの一部です。


    ★ 
    1.無意味ではない
    2.考えていないときは我無し という主張だと思います。
    3.人格全体の事は把握していないと思います。思考のみにフォーカスしている。
    4.ちょっとよく分からないが、証明としては不全だと思う。

    ☆ 残念ながらそこまでなのだと思われますが。

    No.2の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2023/04/10 05:10

A 回答 (3件)

ピーコと言う人については初めて聞きましたが、引用されているところを読むと興味深い言説を残しているようですね。



デカルトの例のセリフそのものの意味に着目して、(教会等の時代背景はさておき)次のように考えました。

デカルトは感覚を根拠にすることも否定していたようですが、常に批判的に見ている自分という視点の疑いようのなさについて、コギト・エルゴ・スムと言っているのだと思いました。デカルトも当然日常生活をしていたわけで、デカルトの主張からすると、日常生活の中では、我の存在は確かならざるものであると考えていたと思います。

疑っているところの私は存在している。

疑っていないところの私は、存在しているとは言い切れない。と言う事がデカルトの表現からくみ取れると思います。つまり、考えている時(ところ)だけが、私が生起していると言っているのではないでしょうか。
つまり日常生活では、機械的に動いている、ある意味で慣性的に動いているだけで、そこに意志もなければ自分も居ないと言う事なのではないでしょうか。

いや、日常生活の中にも私はある、デカルトの主張は過ちであると言う事は出来ると思います。

例えば目の前の物体の存在でさえ疑うと言うのは哲学によくある論説ですが、私はこの主張がよく理解できません。それが実在であろうがなかろうが、幻であろうがなかろうが、目の前にあるそれを現象と言おうが何と言おうが、感覚であろうがなかろうが、他者と共通のものであろうがなかろうが、エネルギーであろうがなかろうが、実は無いのであろうが無かろうが、在るということでは変わらないではないかと思っています。しかも、極めて具体な形を持って在る。この世は。

なので当然、デカルトのわれ思う故に我ありについて、あえて字義通りの解釈をするなら、いや、何も考えていない時だって我はあるでしょ。と、思うのも確かです。
ただそれでも、そんな当たり前の反論を受けるようなことを彼は言いたかったのではないと、思っています。

デカルトの主張からすれば、件のセリフのニュアンスは、

確かなものは無い、と思っている自分は、確かである、

という感じなのだと思います。どちらかと言うと、無知の知の二番煎じ?的な台詞かもしれません。

これついて私が見解を述べるならば、

確かなものは無いと思っている想い自体も確かではない、そのように思っている私も確かではない、と思っている何かがいる、(以降延々続く)それを私と名付けよう。つまり、私=思い と言う事なのだと考えます。デカルトの意見を踏襲した場合には、連続する思いの事を私と言うべきなのではないだろうかと。

その思考法が正しいか正しくないかという問題よりも、確かなものを求めてデカルトは疑ってみると言う逆張りを行ったのだと推察しますが、その方法は目的を達成するには失敗だったと言う事だと思います。つまり、疑念という名の自我が生まれたと言う事です。

確かなものとは能動的に求められるものだと私は思っています。

著名な台詞だからと言って重宝する必要もありませんし、そのセリフが二番煎じであっても何も問題ないと思います。重要なのは、発言者の意図した意味をくみ取れているかどうか、という一点なのではないでしょうか。

勿論、私の考察がデカルトの主意に沿ったものとして的を得ているかどうかは、疑問ですが。

1.無意味ではない
2.考えていないときは我無し という主張だと思います。
3.人格全体の事は把握していないと思います。思考のみにフォーカスしている。
4.ちょっとよく分からないが、証明としては不全だと思う。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

★ ピーコと言う人について
☆ 例のプラトン研究者のM.フィチーノが お師匠さんです。ピーコは 夭折しています。ただ 申し訳ないですが 両者ともにわたしは詳しくないです。


★ デカルトは感覚を根拠にすることも否定していたようですが、常に批判的に見ている自分という視点の疑いようのなさについて、コギト・エルゴ・スムと言っているのだと思いました。
☆ 生きている・生活現実があるといったやっぱり実感にもとづいているかと思いますが。

★ デカルトも当然日常生活をしていたわけで、デカルトの主張からすると、日常生活の中では、我の存在は確かならざるものであると考えていたと思います。
☆ ぢゃあ 矛盾していますね。生活実感を確信の基礎としつつ 感覚を理論の根拠とするわけには行かないと言って。

★ 疑っているところの私は存在している。
★ 疑っていないところの私は、存在しているとは言い切れない。と言う事がデカルトの表現からくみ取れると思います。
☆ そうなると思います。

★ つまり、考えている時(ところ)だけが、私が生起していると言っているのではないでしょうか。
☆ そうなりますね。

★ つまり日常生活では、機械的に動いている、ある意味で慣性的に動いているだけで、そこに意志もなければ自分も居ないと言う事なのではないでしょうか。
☆ それは ナラハシと成った日常性であり 生活の大部分を占めるとは言え ほかの非日常性もあり得ます。

★ いや、日常生活の中にも私はある、デカルトの主張は過ちであると言う事は出来ると思います。
☆ 生活世界にある全体としてのわれ でしょうね。有限・相対な存在ながら。

★ 例えば目の前の物体の存在でさえ疑うと言うのは哲学によくある論説ですが、私はこの主張がよく理解できません。・・・しかも、極めて具体な形を持って在る。この世は。
☆ それは 例の色即是空および空即是色として捉えられるのでは?

すべて仮象である。けれども 仮象として現象している。と。

★ なので当然、・・・いや、何も考えていない時だって我はあるでしょ。と、思うのも確かです。
☆ 《思うときのわれに 思わないときのわれも つながっている》とは言えます。

★ ただそれでも、そんな当たり前の反論を受けるようなことを彼は言いたかったのではないと、思っています。
☆ ほほう。

つづく

お礼日時:2023/04/10 05:07

「B.我思う」ゆえに「A.我あり」


「C.我思わない」ゆえに「A.我あり」
B・C共に同じで、行為によって自己は認識されます。
しかしながら、Aに認識行為B・Cは含まれません。
よって、正確な我とはA+B+Cの筈です。
正確なA+B+Cの我を認識する為には、その我を思うD.我思うが必要です。
しかし、この状態で正確な我とはA+B+C+Dです。
正確なA+B+C+Dの我を認識する為には、その我を思うE.我思うが必要です。
しかし、この状態で正確な我とはA+B+C+D+Eです。


無限遡行に陥る。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


★ 「B.我思う」ゆえに「A.我あり」
「C.我思わない」ゆえに「A.我あり」
B・C共に同じで、行為によって自己は認識されます。
☆ つまり この質問でのツッコミは こうです。

〇 
「B.我思う」ゆえに「A.〔☆ 思っている〕我あり」
「C.我思わない」ゆえに「A.〔☆ 思っていないと認識したその〕我あり」

☆ というふうには 言えても そもそもの《われなる存在》については 語っていない。じゅうぶんには語り得ていない。ではないか? です。


★ しかしながら、Aに認識行為B・Cは含まれません。
☆ おそらく Cは含まれておらず ただしBは Aに含まれているように思います。


★ よって、正確な我とはA+B+Cの筈です。
☆ そうなると思います。


★ 正確なA+B+Cの我を認識する為には、その我を思うD.我思うが必要です。
☆ もし屁理屈を言うなれば 《思う と 思わない》のほかに何かをしているわれについては どうか? となるかも。

あぁ。そういう議論がまさに成されていたのですね。↓
★ ~~~
しかし、この状態で正確な我とはA+B+C+Dです。
正確なA+B+C+Dの我を認識する為には、その我を思うE.我思うが必要です。
しかし、この状態で正確な我とはA+B+C+D+Eです。


無限遡行に陥る。
~~~
☆ だと思います。デカルトさん あやまてり。

でも このコギト命題を後生大事にしている場合が なお多く見受けられます。日本人よ 人びとよ どうなっているのか。

お礼日時:2023/04/10 16:40

当時の時代背景を鑑みると。



ガリレオが教会に捕まって処罰されてしまったことを警戒し、同じ論説が含まれる「世界論」の出版を取りやめて、「方法序説」を執筆したことから、この、

疑っている間は私は存在している われ思う故に我あり

という有名な台詞(座右の銘)は、この当時、支配的でありかつ盲目的であった教会の固辞する説に対する、警鐘の意味もあったのではないかと思われます。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


★ 当時の時代背景を鑑みると。
☆ よくやったという敢闘賞・・・ですか?

★ ガリレオが教会に捕まって処罰されてしまったことを警戒し、同じ論説が含まれる「世界論」の出版を取りやめて、「方法序説」を執筆したことから、この、
☆ 身の安全策を採ることにケチをつけるつもりはありません。

★ 疑っている間は私は存在している われ思う故に我あり
☆ いいえ。《疑っている間は〔うたがっているところの〕私は存在している》です。

しかもこれも 実感の問題としてそう言えるというにとどまるでしょう。《存在》論の理論としては 無理です。


★ という有名な台詞(座右の銘)は、この当時、支配的でありかつ盲目的であった教会の固辞する説に対する、警鐘の意味もあったのではないかと思われます。
☆ うむ。ですが たとえばすでにルネサンスのときに 例のピーコ・デッラミランドラは 人間の尊厳について その同じ題名の論文でじゅうぶん〔教会内からでしょうか〕その人間性をめぐる教会の狭隘な態度を批判しえたのではないかと思うのですが どうでしょう?

コギト命題が アウグスティヌスの《あやまつなら われあり( Si fallor, sum. )》命題の二番煎じであるように 《教会に対する警鐘》説も ピーコの出がらしでしかないかも・・・。




▲ ピーコ・デッラ・ミランドラ :人間の尊厳についての演説 佐藤三夫訳  ~~~
https://core.ac.uk/download/pdf/230188047.pdf

我ら(神)は、決まった棲み家も、特定の顔も、固有の才能も与えなかった。アダムよ、どんな棲み家を、どんな顔を、どんな才能を、お前が望んだとしても、おまえの望み通りにおまえの考えに従って、おまえがそれを手に入れ所有するためである。

・・・

お前は、・・・我らがお前に委ねたお前の自由意志によって、お前自身の性質を作り上げるのだ。

神はお前を世界の中心にすえた。だから、世界のありとあらゆるものの周りを見わたせる。

お前は天のものでなく、地のものでなく、死すべきものでもなく、不死のものでもなく,我らによって創られた。お前が,自由意志を持つ名誉ある造形家として,お前の好きな姿に変わることができるようにだ。
~~~

お礼日時:2023/04/10 01:10

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