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教えて下さい。

自分の死後、何十億年の無我、を信じる事が出来ません。

A 回答 (13件中1~10件)

>「このばか、まだわからないか。

ダメだなこりゃ」
と言われそうで......

そんなこと言いません。皆んな仲良く生きましょう!!
peikanさんの疑問は壮大なもので、僕もたいへん興味深いです。

しかし、あまりにも根源的で壮大であり、
僕達地球人の思考能力ではとても理解できないと思います。

ただ、諦めずに一歩でもお互い協力して進めたいと思います。

さて、peikanさんの使用しておられる言葉の概念
(無、時間、絶対、無我、有我、等)を
より深く吟味し、
全体的、相対的に少しずつ新たな認識を加えなければ、
単なる言葉の遊戯に終始し、
意図する結果には至らないと思います。
そこで、まずは、

>時間......。
アインシュタインは出さないで下さい。いまは感覚的にどちらかといえば情緒的に話を進めようと思っていますので、・・

ということですので、
新たな「時間」の概念について理解を深めたいと思います。
(新たな、といいますのは地球上で発達した概念ではなく、
 宇宙情報による概念を
 僕が理解した範囲でお伝えします。
 これから宇宙時代を迎える地球に必要な概念です。)

何か、peikanさんがすでに潜在意識で知っているようで、
不思議ですが、(実は不思議でなく、過去に知っていた)
宇宙次元の「時間」の概念は、感覚的で情緒的なのです。

◆地球時間

 本来、地球の自転周期を基準にして、
 それを人間に便利なように細分し、
 1秒を定めていたと思いますが、
 地球の自転周期自体が一定とはいえないようになったため、
 「セシウム133原子の・・・」と何だかわからない、
 つじつま合わせの定義をして1秒としています。

 いずれにしても、
 地球で「不変」とおもえる現象の周期律から
 万人に共通の(本当はそんなものはない)
 固定的不変の物理的時間というものを定めたわけで、
 人間の感覚とは独立で、
 「宇宙いたるところで通じるもの」とした訳です。
 
 アインシュタインさんのは、
 おっしゃる通り僕にも奇妙で不可解ですので省きましょう 
 
◆宇宙時(間)

 これは一言で言えば「固有時」で、
 ある星において、
 その星の住民の平均的情報処理能力に応じて、
  (人間をはかる、第一の尺度は愛の心の大きさで、
   愛の心が大きくなるに従い、
   情報処理能力が高まるようになされている)
 空間と共に密接不可分に「設定」されるもので、
 各人が瞬間、瞬間(今)に感じる「時のはやさ」をいいます。
 主観です。情緒的でしょう!

 数十年前と今のコンピューターの情報処理能力と
 地球人と進化した星に住む人の情報処理能力を
 対比して考えると面白いと思います。

 要するに、地球人が一生涯かけて体験し、学習する内容を、
 例えば、ある進化した星の住民は一日で学習する、
 ということです。

このように、時間・空間は個々の星、固有の様式であり、
その星の住民がより進化するに従い、
時間はより速くなり、空間はより短縮される、
相対的様式をとるものです。


それと、「永遠の無」というのはない、ということを知るためにも、まず、

人間は100年足らず生きて後、死ぬ、儚い肉体ではなく、
人間は魂の進化向上のために生きる、永遠の生命である。

ということを洞察しなければならないと思います。

 
 
 
 
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この回答へのお礼

皆さんありがとうございます。

yoh001さん、たびたびありがとうございます。
行間を読むと更にその奥がある文面、深いです。
まだ完全に理解していません。しばらく時間を下さい。

「無」と言うことばを完全に理解出来ていなかった様です.
「無」に付け足す語句など無いのですね(だから「無」であり、始ま
り.終り.などと言う時間の概念が有るはずもない)無は無であって、こ
こに概念の入り込む余地などは全くない。 「無」に対し一生懸命、
意味を見つけようと、考えたり論ずることがすでに「無」をはなれて
「有」を論ずる事になる。 「無」を論ずる勇気の有る人、それは宗
教者しかいない?。宗教で言う「無」論には説得力があるから困惑。
反論を試みようとするが、自分がばかに思えてくるので止めてしま
う。  ......禅問答になってきた(笑)

私が「有」(何でもありの世界)を意識出来るのは2歳ごろから今日
までです。多分私が「有」を保持出来るのはあと40年でしょう。  
 そして今、将来に想像を巡らせているとします。
ところが、ここで突然死んだとします。突然の「無」です(わたしは
死後を「無」と考えます)。死の直前まで将来の40年に想像を巡らせ
ていました。これは「有」なのか「無」なのか。← (本題からちょっ
と離れました。)
う~ん?。 ”家族子孫に思い出を残した。”これは「有」です。
      ”遺伝子を残した”これも「有」です。     
またあやしくなってきました(恥)。    ←      peikan

無を論ずる事は出来ない。なぜなら無に対面して無を思考しはじめた
ときそれは無ではなくなる。        ←     peikan


宇宙は無限であるか有限であるか。最近は「有限である」、の学説に
傾いているようです。無限なら絶対の「無」を私は認めます。有限な
ら「無」をみとめることが出来ません。  

人間は「端から端まで幾千億光年の宇宙全体を”見下ろす”イメージ」
を心の中で造り上げる事ができます。
有限だからです。ここには「無」はないのです。なぜならイメージ出
来るから。 宇宙が無限だとこのイメージは不能になります。絶対に
イメージ出来ません。    「無」です。
光、時間、空間、物質全ての始まりに「有」「無」をいわせるのか。 
yoh001さん 宜しくお願いいたします。

お礼日時:2005/04/10 15:24

自分の死後というものがあるからこそ、今というものが大切に思えてくるのではないでしょうか?単純な繰り返し、日常の出来事、些細なこと…。



こう考えるのはどうでしょうか?私はすでに死んでいる、と。今いるのは死後の世界なんだと。私はある時期そう考えていました。というよりも、そう考えることで死の恐怖から逃げていたのです。
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この回答へのお礼

御回答有り難うございます。

>私はすでに死んでいる、

う~ん。  「有」と「無」を考えていました。
死後は「無」であるとようやく自分を納得させたところです。
 死後の自分を意識出来るとは「有」、”有限”と考える事が出来ます。
「無」のなかに時間が入り込むと、お話が元に戻ってしまうの
です。

お礼日時:2005/04/18 20:04

 死んでも死に切れないと感じるのですか?心残りなことがあるのですよね。

よろしければ、少しでも別の方面に書いてみてくださいね。真っ向からの悪意など、向けられたらご注意ください。
 哲学は、生きるための方便に使われることもあります。人に押し付けるものではありません。そういう考え方が、あなたの気持ちを楽にして、社会のためになるのなら、いいと思います。とりあえず、暴行、脅迫、強要という犯罪が癖になった集団を駆逐して、身の安全が守られるのが一番です。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

貴重な御時間を頂きご回答いただきました。

お礼日時:2005/04/18 19:47

もう少しだけ、宇宙時(間)について補足したいと思います。



地球には時計というものがあります。
これを使って例えばどんなことをするかといいますと、

○待ち合わせの時を決めるのに使う。
○仕事の期限を決めるのに使う。

これらは、
よく考えるとすごく束縛や強制を感じさせませんか?

宇宙間の優良な人達が住む優良星では、
全ての人が精神感応能力(以心伝心)を備え、
大地自然と共に生きているため、時計は不要ということです。

例えば、作物の収穫時になると、
どこからともなく集まれる人々が集まってきて、
豊作の賛歌とともに作業が進むそうです。
仕事は他の生命への奉仕であるということを熟知するために、
お金の存在も無く、
まして、期日を区切るということも無いようです。
また、労働時間はわずかだそうです。
お金、時計、支配、強制、差別・・等、
個人の自由を縛る一切のものは無いそうです。
自己に相応しいことを自発的にするわけです。
損得勘定はありません。

優良星では、
「今」という瞬間の時感覚の連続が時間であって、
窮めて個人的です。
個人的にも当然早くなったり遅くなったりします。

本来は、地球人もそのことを知っているはずです。
それをただ、本来の正しいものと思い出すのみです。

  腹時計。
  あっという間に楽しい時はながれる。
  イヤイヤする仕事の時間は長く感じる。
  感謝と奉仕のためにする仕事の時間は短く感じる。
  草原に寝ころびリフレッシュのための
    すがすがしい時間はゆっくりながれる。
  危険に遭遇したときスローモーションビデオのように
    現象が推移する。(魂に刻み込むため)

この自然な時間感覚は、
一人一人の人間の心の向上にふさわしいように
厳しくも、暖かく
大叡智者の大愛の元に設定されているわけです。
これが本来の時間なのです。

わざわざ言われなくても、みんな知っていたことです。

それと肉体の老若は精神内容の表象ということで、
基本的に時間感覚とは無関係ということです。
ほら、地球上にもいるでしょう、歳のわりに若くみえる人。
気が若く、明るく、朗らかな人のはずです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

サイトの方からそろそろ閉じなさいとの事です。
yoh001 さん、貴重な御時間を頂き御回答をいただきました。
感謝いたします。 私,peikan,終わりの方では自分で自分を納得させ
たような次第。実はもっとお話が聞きたかったのです。ただ普段は
時間が取れなく、土日にお礼文を書く事になってしまう事情から
日時がいたずらに経過、途中で打ち切らざるをえくなりますた。
御詫びします。  また書かせて頂きます。
         其の時も又是非お教えを御願いいたします。
                  peikan

お礼日時:2005/04/18 19:44

多分、


「永遠の無」というのはないと思います。

過去という実在はなく、
未来という実在もなく、
あるのは
「永遠の今」の「連続」を意識する(自己)存在
だと思います。

peikanさんにとっても、
kigurumiさんにとっても、
僕にとっても、
今、我が家のねこちゃんである生命にとっても、
今、他の惑星で人間をやっている生命にとっても、
・・・
今、神々にまで進化した生命にとっても・・

それぞれがそれぞれの立場で、意識拡大し、
進化する自己存在(最終的に全ての存在が「一」に戻る)が
「今」に、あるのみだと思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

「このばか、まだわからないか。ダメだなこりゃ」
と言われそうで......、もうしばらくおつきあい下さい。
 
 ちょっと前にこう書きました。
”ここで気が付くのですが、たぶん宇宙創世以来、私が誕生するまで、
無が続いていたのですね。
そして私が生まれ、自分の存在を意識(有を意識)し、そして死と共
に、また宇宙創世以来の無(私自身の絶対の永遠にとぎれることのな
いの無)が始まる......。”

上記の”無”を”私にとっての無の「時間」”と読み替えて下さい。
時間が入り込みます。すると時間の概念は人間が造り上げた物ですから、此れに従うと長い時間の中のほんの一瞬、有我があって又、絶対
の無に戻る。  この一瞬の有我の時間とはいったいなんなのだ。
自我意識を持つ生命そのものが実は絶対の無なのか。 時間......。
アインシュタインは出さないで下さい。いまは感覚的にどちらかといえば情緒的に話を進めようと思っていますので、すいません。
      語彙が少なくて旨く言えません。   peikan

お礼日時:2005/04/06 19:12

NO.6です。



>有限の無などは考えておりりません。
>無は無です絶対の無です。

ええ。ここで私が定義する『無』とあなたが定義する『無』は同じように思えました。が、しかし、、、


>ここで気が付くのですが、たぶん宇宙創世以来、私が誕生するまで、
無が続いていたのですね。

無が続く? その概念がわかりません。
無は無ですよね。
あなたの考えは無は存在していることになり、私の考える無とあなたの考える無が違ってきちゃいます。
あなたの捕らえる無は、例えば線路の上を走る電車が今現在はまだ東京駅に電車はいないので、東京駅内という空間限定でのみ「その列車は存在しない」という条件付の無のように思えます。
やがて東京駅に入ってきて、無から有になったような状態です。
ということは、、、それは無じゃなく常にどこかにはいる有という属性を持つものになると思います。
属性を全く持たないものが無だと思うのですが・・・


>そして私が生まれ、自分の存在を意識(有を意識)し、そして死と共に、また宇宙創世以来の無(私自身の絶対の永遠にとぎれることのな
いの無)が始まる......。       これでいいのかな。?

その無と有の境目は意識ですか?
では障害を持っていて自分の存在を意識することができない人は 存在しないことになりますか?
自分が思っていなければ他人が存在すると思っていても、無になりますか?

赤ん坊はどうですか?
ライオンはどうですか?

『永遠の無』と限定してしまったら、その無は属性を持ってしまうので、無じゃなくなると思います。
無の概念って難しいですね。
概念で定義してしまうと無じゃなくなりそうな気がするんです。
どうして?って言われても説明できませんが。
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peikanさん、こんにちは。



こんな思考実験をしてみました。
意識を目に見えるものとして表現してみます。

巨大な風船をイメージします。
その風船の表面すべては、薄く水に覆われているとします。
(地球のように・・)
さて、その風船の内側から外に向けて、つまようじで、
つきます。(破れないものとします。)
そうしますと、つまようじの先端にある風船内の一部が
水面より上に出ます。
(小島のように・・)
様々な部分が中から突付かれて、水面上に顔をだします。
(個々の人間です。)

この水面上に出ている部分が僕達の「顕在意識」で、
生活する自分とでもいうべきものです。
この水面と大きな風船の元の表面の間ではさまれた部分が、
「潜在意識」で、忘れ去った記憶が保管されている部分です。
僕達はつまようじで突き上げる前は、
元々「一」なる意識すなわち巨大な風船なのです。
これが「無我」あるいは「大我」でしょう。

ですから、自分(小我)というのはつまようじで突き上げる前は、
「無我」という存在であり、自分というのは本来無いわけです。
peikanさんも、僕も今は水面上だけを自分と認識していますが、
本来はみんなつながっていて「一」であるわけです。

また、「死」とはただ古着である肉体を脱ぎ捨て、
次元と場を移動(テレポート)するだけであり、
「一」に戻ることではないです。
まだまだ自分という意識での修行は続くわけです。
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無についてソフィーの世界ではこんなやりとりがあります。



アルベルトはソフィーと待ち合わせをして ワザと15分遅刻しました。
その後やってきて「君は喫茶店に来た時何を見た?」と聞いたところ、ソフィーは「アルベルトがいないのを見た」と答えた。

「ちょっと待って。居ないのをどうしてみれるの?」
これがアルベルトの返答です。


無いものをどうして「ある」とするの? ってことだと思います。

むむむむ・・・。
ポイントにおいて通過する際、いない状況は生まれるが、どっかにいるからその場にいないわけで。


>自分の死後、何十億年の無我、を信じる事が出来ません。
 ↑
この場合 無(無我)が存在しているように表現されているように思えるのですが、それっておかしくないですか?
有限の無?
つまり無から何かが誕生することもあり?
じゃあ 無じゃなかったんじゃないのかな?
って思いませんか?
何十億年を永遠と表現していない当たりが、その言った人は有限の無の存在を示しているように思います。
その人に「無は有限なの? どうして有限なの? 無ってどういう状態の事をあなたは示しているの?」って聞くしかない。



無の状態になるって表現も よくよく考えればおかしいです。
無があることになっちゃうので。
無は無いから無なんですよね。
0の概念以上に難しいです。
うわー わからなくなってきた ><
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

有限の無などは考えておりりません。
無は無です絶対の無です。


ここで気が付くのですが、たぶん宇宙創世以来、私が誕生するまで、
無が続いていたのですね。
そして私が生まれ、自分の存在を意識(有を意識)し、そして死と共
に、また宇宙創世以来の無(私自身の絶対の永遠にとぎれることのな
いの無)が始まる......。       これでいいのかな。?

お礼日時:2005/04/05 20:39

無我であるからして、森羅万象の実相に還るのみ。


それが、何がしかの森羅万象に作用して、別の報いとなっ
て繰り返し流転する。 この一生は、ひとつの生命の姿に
他ならず、元来の生命は、精子や卵子のように、また別の
姿に変化する。 万物流転 因果応報 そのような、時空
を超えた、森羅万象の実相を釈迦は体感していたのでしょ
う。 我々の肉体や、この世に生命のあった頃のありとあ
らゆる行いが、森羅万象に還元し、またそれが次なる生命
に宿り、生命の永遠を悟ったのかも。
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眠り「就寝......無我......起床、」この間の時間経過は意識されません。

(少なくとも私には)これが永遠に続く無我(死)となった時、起床のない永遠の時間経過。これが理解出来ません。

これはあくまでも「就寝......無我......起床、」というサイクルを基準に考えているからだと思います。

>自分の死後、何十億年の無我、を信じる事が出来ません。

無我が続くのではなく死ですべてが終わるのです。消滅するのです。ですから死によって無我という状態に移行するのではなくそこで線が消えてしまい、なにも続きません。きっと質問者は死によって無我という状態に移行し、その状態(眠っているときのような状態)が永遠に続く、しかし眠っているような状態を無我だと考えているためどうしても起床という次の状態がいつか訪れる、そう無意識に感じてしまっているんだと思います。
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>時々ふと考えてしまう
と仰るように、シャワー浴びてるときに突然このことが頭をよぎって、パニックになって風呂場からシャンプーの泡を付けたまま飛び出て、当時同棲してた女の子にびっくりされたこともありますから。。σ(^Дヽ^;)

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もちろん、そうは言っても、誰もが簡単に俗世離れした生き方が簡単にできるわけではないし、遺伝子操作等の方法も現実的には早々にできる対策とは言えないですよね。なので、やはり結論的に当面の対策としては“考えないようにする”ということしかなさそうです。

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ではでは(´ーヽ`)ノシ

はじめまして。31才・男です。

質問者様のご心境がどれ程のものかよく分かるつもりです!!
私も、幼少の頃から、度々このことを考えては一人恐怖におののき、周囲の人(例えば、父母・祖母など)をびっくりさせていたようです。私の方こそ愚かだったかもしれませんが、このことで母と口論になったことも度々ありました(苦笑)

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>時々ふと考えてしまう
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Q心は脳が作り出しているから死んだら全て消える?

心は脳が作り出していますか?
(つまり死んだら心も全て消滅する)

それとも心と脳は別であり、
人の寿命が来て脳が死んでも心は生きていますか?
(つまり死後の世界がある)

私は迷っています。

中国唐代の禅匠である
黄檗希運禅師の言葉を引用すると

感知されたものは感知するものではありえない。
われわれはいろいろなものを見ることができるが
見るものを見ることができない。
感じるものを感じることはできず、触れるものを触れることはできず、
嗅ぐものを嗅ぐことはできない。
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だから知るものである心を脳と同じような対象的な存在として扱い、
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正確な理解とはいえない。

とあります。

この考えは理解できるのですが、
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(大麻、覚せい剤、シンナー、コカイン、ヘロインなど)

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それは脳に影響を与えるから
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よろしくお願いいたします。

心は脳が作り出していますか?
(つまり死んだら心も全て消滅する)

それとも心と脳は別であり、
人の寿命が来て脳が死んでも心は生きていますか?
(つまり死後の世界がある)

私は迷っています。

中国唐代の禅匠である
黄檗希運禅師の言葉を引用すると

感知されたものは感知するものではありえない。
われわれはいろいろなものを見ることができるが
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嗅ぐものを嗅ぐことはできない。
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現在23歳、大学3年で就活が間近に迫っている男です。

昨年(2010年)の年末から、死んだら自分はどうなってしまうのだろうという思いがほぼ四六時中、頭から離れなくて心身共に疲れています。

小学校に入学するかしないかの頃から、ふとした瞬間に、死んだら自分はどうなってしまうのだろうと考えて得体も知れない怖さを感じることが度々ありましたが、寝るなどしてしばらくしたら治まっていました。

しかし、今回はすぐに治まらず、死んだら自分の意識は無くなってしまうのだろうか、「無」は何なのだろうか、...続きを読む

Aベストアンサー

今晩は。

症状を抑えるのも大事かと思いますが、うまく付き合う、それもひとつの解決策かと思いお返事します。

強迫性障害を持っています。死が対象だったことがあります。
死に捉われ、苦労はしましたが、お陰で意識がとても変わりました。
その経験をお伝えします。

なぜ死に捉われるのかから探りました。
実は身近に死が沢山溢れていることに対し感覚がそれを捕らえていることに気付きました。
だから意識が「死」から離れない。死を感じる結果、それを強く意識してしまう。
だから病気だ、というよりも単純に感性が鋭い事が原因なんだろうと思いました。
感性が豊かな人なら大なり小なりタナトフォビックであろうとも今は思っています。
死、はいかなる人であれ未知です。
DNAからは死を避ける行動を取るように恐怖という感情を引き起こすよう書き込まれています。
それなので死=恐怖は自然な感情です。ところが死が溢れているがゆえにいつまでも繰り返し
恐怖を引き起こす、どこかで麻痺するのが通常なんでしょうけれど、麻痺しないことが苦痛となる。
麻痺しないことは間違ってはいないと思うので病気だとは考えません。
ただ麻痺しないから困っている現状がある、それをまず客観的に捉えられるようにしました。

そこで繰り返し引き起こされる恐怖への対処法を考え、実行しました。

何をしたかというと、死、の反対を探したんです。
誕生ですね。意識して、意識を向けた結果、溢れる死と同じように
生命の誕生を至る所に感じられるようになりました。
毎日、毎秒、ありとあらゆる生命が生まれている一方で、死んでいく。
繰り返し、繰り返し、です。その感覚を得てはじめて万物流転をきちんと理解できた気がします。
自分の身に起こる死もまた、肉体が解体され、流転する。自然の流れなんだろうと。
そこに魂を信じる気持ちがあれば、輪廻転生も有り得る事とも思いました。

その一方で、死からも学びを得ました。何よりも如何に命が儚いか、です。
だからやはり誠に、生きて存在しているということ事態が奇跡なのだと知りました。
一期一会という言葉の持つ真の意味に触れることが出来たのも、死を思ったが故に。
今は昔、全ての時計に書いてあった言葉だそうです。メメントモリ(死を想え)と。
その昔は今で言うタナトフォビアが当たり前だったのかも知れませんね。
ちなみに朝生まれ、夜死す、それが繰り返されて日々となる、という考えもありますね。
なによりも人は思ったよりも簡単に死んでしまうものなので
限られた日々を一所懸命生きなさい、という智慧なのでしょう。

いつか必ず死にます。死後の世界の話で困るのは、結局死んでみないことには判らないですし、
折角まだ生きているのに、知りたいから今死のう、というのも違います。
なので死後の悩みは死後のお楽しみとしてひとまず置いておきませんか?
死後も意識が継続していましたら、その時にあらためて考える、としておいて
意識が無かった時は諦めよう、としてみましょう。
問題の死への概念ですが、死の意識を振り払うことは大変です。
だったら死に対してポジティブな意識を持つように意識を変えてみませんか?

私の辿った道のりです。
身近に溢れる命が死んでゆく、その切なく脆い命が故に、命に対しての愛おしさに繋がった。
儚さゆえの愛おしさだとしても、溢れる息吹に感じ入り、懸命に生きる大切さが
死を感じるが故に繰り返し伝わってくる。
その時にはじめて死の概念がそのまま命への慈しみへと変わりました。

残された日々を大切な人たちといとおしみ、生きる。それはかけがえのない日々となるでしょう。
命を見送り、自分の最後の時には、素晴らしい人生を過ごせれた、と悔いなく死ねるでしょう。
思い残すことが無いから安心して自らの命を自然へ帰す。
そんな心を最後の時に持てるよう日々、命を燃やして生きていきたい。
それこそが、死を想うが故に苦しみを生むことに対しての最大の対処法として
僕が今、まさしく実践中の毎日です。

繰り返しますが、命は儚いものです。お母様を想う気持ちは慈しみでしょう。
慈しむ思いがあるのですから、まずはお母様への慈しみの行動を取ってみましょう。
具体的に、日々の感謝の気持ちを手紙としてお渡しするのも良いでしょう。
あなたの笑い顔を見せることも、もちろんとても喜んでくださるでしょう。
何も出来そうになければ、ただ、傍に居る、たったそれだけでもとても大きな喜びでしょう。
愛情こそ、死への恐怖から解き放つ何よりのものではないでしょうか。

私事ばかりで恐縮ではありますが、何か拾えるものがありましたら何よりの喜びです。
長々とお付き合い、ありがとうございました。

今晩は。

症状を抑えるのも大事かと思いますが、うまく付き合う、それもひとつの解決策かと思いお返事します。

強迫性障害を持っています。死が対象だったことがあります。
死に捉われ、苦労はしましたが、お陰で意識がとても変わりました。
その経験をお伝えします。

なぜ死に捉われるのかから探りました。
実は身近に死が沢山溢れていることに対し感覚がそれを捕らえていることに気付きました。
だから意識が「死」から離れない。死を感じる結果、それを強く意識してしまう。
だから病気だ、というよりも単純...続きを読む


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