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統帥権独立は、長州藩士が考えたものです。

これらがその理由です。
どう思いますか?

①政治家が統帥権を握ると幕府政治が再興されるから。

②政党政治で軍が党利党略に利用されるから

③長州が政治、軍事両面を掌握して軍令と軍政を統合的に運用したかったから

④楠木正成が軍事に無知な公家によって戦死し、南朝の衰退につながったから


特に、④の南朝が何故出てくるのでしょうか?
明治天皇は、北朝ではなかったでしょうか?

A 回答 (2件)

楠正成は死ぬ際に「七回生まれ変わって朝敵と戦う」と誓ったそうで、これが吉田松陰の七生報国につながり、勤王派の思想の原点になった。


勤王派は天皇に仕える正成の「忠臣」のイメージを自分達に重ねたのでしょう。また「忠臣」とは身分の低い者でなくてはならず維新の志士を正成になぞらえるには都合がよかったと思える。
長州藩では元治元年5月25日(正成の命日)に山口明倫館で楠正成を祭る催しをする。これが最初の楠公祭で、主導したのは青山清(のち靖国神社の初代宮司)。これを聞いた孝明天皇は激怒したとか。自身は北朝系なので。以後長州は幕府だけでなく朝廷をも敵にまわすことになる。

楠正成の墓は神戸の湊川にあったが、元禄5年、徳川光圀が「嗚呼忠臣楠子之墓」と記した石碑を建立。明治5年湊川神社になる。その後、後醍醐天皇や楠正成を祀る神社があちこちにできたのはご存知のとおり。
参考文献 『靖国神社論』 岩田重則 2020年
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だから、後亀山天皇の時に


3種の神器が北朝に移り、
以後は北朝独占です。
途中、後南朝が起こってマガタマが奪われたが、
それも奪回し、ずっと北朝です。

明治天皇が南朝という話は
まったくの作り話です。

明治天皇も北朝です。
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