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熊沢天皇は戦時中も堂々と菊花紋章を家紋として使っていたそうなのですが、不敬罪に問われなかったのでしょか。

A 回答 (3件)

「南朝正閏論」などで検索されるとわかりますが、明治時代に南朝が正統か北朝が正統かで大議論がありました。


そして、明治天皇の聖断で南朝が正統であると決りました。北朝の子孫である明治天皇が何故皇位にあるかというと、三種の神器が南北朝合一のときに南朝方から北朝側に引き渡され、それ以後は北朝が正統になったという解釈です。
やはり、No. 1, No. 2 の方の言われるように、南朝正閏論がぶり返すのを避けて放置したんでしょうね。
関係ない話です。戦後になって南朝の子孫と称する一族 (熊沢氏かどうかわかりません) の住んでいる村が費用を出して歴史学者に調べて貰ったそうです。しかし、報告書ではこの一族は南朝の子孫ではない、と結論付けたそうです。その村役場に報告書を貰いに行くと分けてはくれるのですが、最後の1ページを破いて渡していたそうです。
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この回答へのお礼

御回答ありがとうございました。

お礼日時:2006/04/17 20:20

熊沢氏側にはそれなりの論拠があったようで、不敬罪に問うた場合裁判になると、色々皇統に論議を生むことが予測されます。



したがって無視するのが当然かつ妥当な姿勢でした。
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この回答へのお礼

御回答ありがとうございました。

お礼日時:2006/04/17 20:20

「私こそ南朝正系の後胤で皇位継承者だ。

北朝の系統の天皇裕仁は偽天皇であるから、速やかに退位せよ」

と敗戦直後に絶叫した熊沢天皇ですが、不敬罪に問われた事実はないようです。逆に熊沢氏側が積極的に北朝天皇家に挑戦しています。

最初に南朝の後胤として承認を政府に求めたのは父・熊沢大然で、明治41年から2度にわたって上奏文を送りつけました。そして熊沢天皇自身も戦前だけで5回も上奏を行なっています。

逮捕されたのならば、上奏など出来るはずもないですから、不敬罪には問われなかったと思います。まあ時の天皇があんまり関わりたくなかったということと、昭和天皇に不満を持つ軍人や国家主義者が熊沢天皇を利用する動きもあったので、そちらも刺激したくなかったというのが真相ではないでしょうか?
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この回答へのお礼

御回答ありがとうございました。

お礼日時:2006/04/17 20:20

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