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仏教が取り入れられて、中央集権が始まるまで、部族会議の長のような存在?の天皇が鎌倉幕府時代、室町幕府時代、江戸時代にも続いたのはなぜなのでしょうか??
南北朝時代に天皇を勝手に擁立したり、室町時代には食べるのにも困った時代もあったようですが・・・。
権力をもっているということは権限も持っているということで、それを狙って排除することもできたはずです。
詳しいかたよろしくお願いします。

A 回答 (6件)

日本列島のような国でも昔から以外に人口が多くありました。



様々な説がありますが、日本は北のほうや南のほう、そして海からといろいろなところから人々が集まって日本の原型を作ったといわれています。遺伝子を解析してみると関西・関東・東北・沖縄など地域によって、もともとどのルートで日本にたどり着いたか、というルーツが結構違うそうです。

その様々な人種がごちゃ混ぜになっている古代の日本を最初に統一したのが現在の天皇制につながっている大和朝廷だったといわれています。
天皇の祖先は「日本」を作った最大の功労者だったわけです。
この日本統一には武力もつかったでしょうし、様々な外交駆け引きもあったと思います。

どこの国・地域でも「統一」が為されると、統治者が様々な利害対立を解決するようになります。たとえば海の近くに住む漁猟民族とその山側にすむ農耕民族の争いごとなどです。簡単に言えば法律と警察ができるわけです。

これらをきちんと運営し、国の中の人々が頼るようになると「権威」が生まれます。自分たちで武力で相手と争うよりも、朝廷に陳情して解決してもらうという方法を取るようになるからです。
これらをうまくやることにより、朝廷は「権威」と「権力」を維持していたのです。

ところが、どの国でもある程度平和な時代をすごしていると、階級的な差が大きくなっていきます。日本の大和朝廷時代でいえば、朝廷貴族と田舎でその貴族の荘園を管理している武士の差が大きくなっていきました。そして地方の武士が中央にいる貴族たちの横暴に我慢ができなくなって、武力で解決しようとして結局軍事政権である鎌倉幕府ができたのです。
しかし、鎌倉幕府が関東にあり朝廷が京都(関西)にあるように、当時は朝廷に味方する武士階級や貴族階級がいっぱいいたのです。

鎌倉幕府としては「自分たちで日本を治めたい」と思っていましたが、かといって日本全国を武力で統一しようとすると大変な労力が必要になってしまいます。そのため、日本の統一王朝である朝廷に相談して(わかりやすい言えば、脅して)天皇に「これからは日本の統治は鎌倉の源頼朝が行う。みんな彼に従うように」と勅令を出させたのです。

これによって「天皇の命令ならなんでも聴きます!」と言っていた朝廷側の勢力も言うことを聞かせることができるようになったわけです。

そしてこれ以降、日本は幕府が変わる=天皇に任命してもらう、という方式に変わっていくのです。南北朝の時代などは、まだ朝廷に実権を握ってもらいたい勢力も多く、やる気のあった後醍醐天皇などは武装蜂起して実権を取り戻す紛争をするのですが、負けてしまって島流しにあってしまいます。
この南北朝の時代はまさに日本の今につながっており、鎌倉幕府がこれによって事実上終わりになると共に、朝廷も急速に力を失って日本を武力統治する能力を失っていきます。
これにより、足利幕府は京都に置くことができるようになり、天皇の権威を利用しながら幕府(武士)が日本を統治する、という日本型の統治システムがほぼ出来上がっていきます。

しかし、足利幕府も朝廷の権威に寄りかかりながら、武士の軍事力を使うという中途半端さがあり、時代を下がるごとに権威も権力も失っていき、ついに応仁の乱から戦国時代に突入していきます。

戦国時代はなにか、といえば「下克上」であり「天下統一」であるといえます。日本は大和朝廷時代に豊かで平和な時代が長く続いたことを知っていましたので、実力のある誰かが天下を取れば日本は再び平和になる、と考えたのです。
最初に頭角を現したのは織田信長です。彼をして「天皇制を廃して自分が皇帝になるのではないか」と現代も当時も思われていたのは、当時権威と権力の空白が戦国時代の引き金になったからです。

しかし、本能寺の変で信長が殺されると、朝廷の文化的歴史的権威の重みが理解されるようになり「天皇の勅許を得ないで、天下を取っても火種がくすぶって平和が長続きしない」と考えられるようになり、その後の豊臣も関白を得たり、秀吉逝去後実権を握った徳川家康も征夷大将軍をもらって権威と権力を自分の味方につけたのです。

徳川幕府も後期になると江戸から離れた九州の大名などが不満を持ち始め、特に黒船以降の外交政策で「朝廷の勅許を得ないと、条約にサインできない」という引きのばし工作が徳川幕府の権威を著しく傷つけていきます。

結局、戦国時代と同様天皇の権威によって新しい幕府を開くために明治維新が起きたのですが、昔と違って「近代化」というテーマもあったため「尊皇攘夷」のうち、尊皇である明治天皇を統治者とした近代的な立憲君主国になったものの、攘夷のほうは近代化の障害になるとして、取りやめになりました。当時、維新の官軍側にいた兵隊は「天皇の権威が戻れば、夷敵もどこかに行ってしまって日本は平和になる」と本気で信じていた人も多かったでしょう。

結局、日本国内においての「平和」は天皇の権威によっているということで、現在でも幕府と同様、内閣を天皇が任命することで統治を付託しているわけです。

司馬遼太郎風に言えば「それがこの国のかたちです」ということです。
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天皇制について考える場合、この列島の支配勢力の本性が解明されないとその本質は理解し得ません。

そして、それを突き詰めていきますと、この列島の都があった「出雲(当時はやまとと呼ばれていました)」の地が、西暦663年11月18日(旧暦10月10日)、唐王朝によって占領・征服されていたところに行き着きます。もちろん、この列島全域もその支配下に置かれました。その詳細は、資治通鑑に残されています。唐王朝第3代皇帝李治の皇后武則天の時にこの列島が征服されているので、今もこの列島には武則天の影響が色濃く残されています。天皇もそのひとつです。武則天は、道教の理念から皇帝を天皇という呼称に変えました。しかし、武則天の失脚後はふたたび皇帝に戻されています。ですから、中国皇帝制度の中で、天皇を名乗ったのは、武則天の夫李治のみです。つまり、この列島に天皇制が誕生したのは、唐王朝の支配がこの列島で確立した大宝律令以後です。この列島を支配下にした唐王朝の勢力は、その支配のシンボルに天皇を掲げ、その手下が武氏(士)でした。それについては万葉集にも武士が何者なのかが伝え残されています。すなわち、この列島の支配勢力の補完勢力が武則天をルーツとする武氏(士)でした。ですから、平家・源氏・徳川などなど手下は変わっても基本的な我が国の支配関係は今も当時と何ら変わっていません。野球で言えば、監督は同じで、リリーフピッチャーが次々と交代するようなものです。今で言う、政権交代です。そうやって、国民には「維新」などと何か「新」しくなったかのように思わせて支配を「維」持しようとする唐王朝の勢力の基本的作戦です。また、武則『天』の幼名あるいは本名は武『照』と云い、我が国では、『天照』という最強の神として今も伊勢神宮で祀られています。
その唐王朝も907年朱全忠に滅ぼされこの列島に流れ着きます。その時に持ち込んだ宝物が今も東大寺正倉院で保管されています。そして、彼らは、再び大陸を支配下にしようと、秀吉の時代、あるいは明治維新以降大陸へ侵略していきました。「唐王朝再興」それこそが、彼らの存在意義です。そのことは、古事記で因幡の白兎のお話として残されています。『この列島の人々を騙して再び大陸の支配者として舞い戻れ。しかし、決してそのことは口にするな』というのがそこに秘められたメッセージです。ですから、彼らは、自らの本性も思惑も一切口にしません。唐王朝がこの列島を占領・征服したことも、再び大陸を支配下にしようなどと思っていることも秘匿したまま、彼らにとって都合の悪い歴史や理念や勢力を抹殺しようとします。今の執拗な憲法改定の動きもそのひとつです。そして、彼らにとって都合の良い歴史だけを残そうとします。

参考URL:http://kodaishi-21.web.infoseek.co.jp/to-m.html
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これからは今川の時代。


こう思う戦国武将も少なくなかったようです。

天皇も上洛を催促していました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E5%B7%9D% …

足利一門と言う家柄と実力と言う物です。

甲斐の小国武田家は領土を次々と広げ、お金で上流の公家と婚姻しましたが、
今川家との婚姻は何が何でも実現しなければならない理由がありました。

家柄は清和源氏で引けを取りませんが、名実共に今川家と対等の証が絶対に必要だった訳です。

戦国武将の多くは官位を求めました。
自らが統治する理由を求めたのです。

戦国時代となると各地に点在する多くの御領は戦国大名に乗っ取られたり、年貢の輸送がおぼつかなくなります。

天皇の葬儀が1ヶ月も伸びたと言われています。
しかし、これは権威が下がった訳ではありません。

信長は7千石の禁裏御領を献上します。

当時の考えとしては、大名が貰うのは石高(貫高)だけで、山、川、海の全てが天下人の物と言う概念
を持っていました。

毛利は石見銀山を御領であると称して保有していました。
上杉謙信と共に頼もしい見方であったでしょう。

その為、天下統一した豊臣政権は全国の金山銀山の支配権を握り巨額の富を手に入れました。
佐竹氏の隠し金山が有名ですが、改易の時に破壊してバレないようにしたそうです。
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鎌倉・室町・江戸時代共に、将軍は、天皇より政治を任されたわけです。

強引に、ではありますがね。天皇は、お墨付きを与えることによって、代わりに生き延びさせてもらっていたわけです。
もし、織田信長が本能寺に倒れることなく、天下を統一していたら、どうなったか?歴史に、もし~たらは禁句?
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天皇って途中から時の政権のお墨付きを与えるだけの存在になりましたね。


どの権力者も誰かからのお墨付きがほしかったから、そのために天皇が利用されてきたのでしょう。
天皇制はそのために維持されてきたということです。

天皇の支持なしで敵対勢力を力で抑えつけようとするよりも、天皇を味方につけてお墨付きをもらってしまう方が楽ってことです。天皇の支持をとりつけた相手と戦うことは、官軍と戦う賊軍になり下がることを意味するのでね。賊軍になってしまうと仲間からの協力も得られにくくなりますから。

今はもう内戦が起こる可能性がゼロで、社会制度が十分整備されているから、本来的には天皇要らないんだけどね。
ま、あの一家を支える程度なら大して金かかるわけじゃないし、あっても大して害はないということでしょう。
天皇がいるとありがたがる人も結構多いしね。
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極論としては


「異民族がやってこなかったから」

王とういのは 英語で KING ですが、語源としては血族の集まりの代表みたいな感じとなっております。

イングランドの現王朝は1066年ノルマン人が征服した後は、ずっとその子孫が王となっております。王がいなかったのはクロムウェルの時代だけ。

フランスの王家も、たどればカロリング朝から血統を引いています。
751-1848(途中フランス大革命やら ナポレオン時代を挟みつつ)

いったん権威が着くとそれを否定するのは大変なのであります。

中東で言えば、アッバース朝は1285年にモンゴル人という「イスラムって何?」という連中が来るまで、直系で続いております。アッバース朝自体は、元々はムハンマドの一族。
現在のヨルダンの王家もムハンマドの一族です。

王家が変わるのが当たり前というのは、中国史くらいなものです。
中国史の場合、殷王朝(殷民族)に対して周王朝(周民族)が反乱を起こして打倒したという歴史的経験から、氏姓革命が政治的風土として常識化した。
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