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1371年の興福寺衆徒による強訴について教えて下さい。
http://wapedia.mobi/ja/%E4%BA%8C%E6%9D%A1%E8%89% …
上記によれば、
(1)1371年、後光厳天皇は後円融天皇に皇位を譲位した。

(2)同年に興福寺の内紛が再燃し、暮れに一乗院実玄・大乗院教信両門跡の配流要求を掲げて新帝の即位式妨害を図るべく興福寺衆徒による春日神木の入洛が行われた。

(3)後光厳上皇が新帝の即位式を図る強訴に憤慨して強硬な態度を示し、反対に衆徒側も柳原忠光・広橋仲光・中御門宣方・万里小路嗣房ら上皇側近を次々と放氏処分として、更に幕府の信任が厚い一方で興福寺と対立関係にあった三宝院光済・覚王院宋縁・赤松性準・赤松範顕の配流という更なる条件を加えたために、良基らの仲介にも関わらず交渉はまとまらなかった。

(4)興福寺衆徒はこの内紛の元凶は実玄を庇護した良基にあるとして、1373年良基を放氏処分にした。
放氏・藤氏長者経験者の放氏は前代未聞であり、政敵の近衛道嗣ですら衝撃を受けた。
ところが、良基は謹慎するどころか春日明神の名代である摂関の放氏はありえないと述べて全く無視し、翌年に後光厳上皇が危篤に陥ると直ちに参内して善後策を協議した

(5)ところが、興福寺衆徒を非難し続けた後光厳上皇の崩御が衆徒を勢いづけ、更に後円融天皇の即位式を直ちに行う必要性に迫られた朝廷と幕府は要求の全面受け入れを決定し、11月8日には良基も続氏となって、神木も3年ぶりに奈良に戻った。

とあります。

質問

この1371年の強訴についてわかりやすく説明してくださいませんか。
上記サイトを読んでみましたが、次の点がわかりません。

(2)1371年、興福寺の衆徒が同寺一乗院実玄・大乗院教信の罷免を要求したのはなぜですか。

(3)「後光厳上皇が新帝の即位式を図る強訴に憤慨して強硬な態度を示し」という意味がわかりません。
新帝=後円融天皇ですよね?なぜ興福寺の衆徒が新帝の即位式を図ったのですか。
またそれに対して後光厳上皇が憤慨したのはなぜですか。

(5)「更に後円融天皇の即位式を直ちに行う必要性に迫られた朝廷と幕府は要求の全面受け入れを決定」とありますがなぜ後円融天皇の即位式を直ちに行う必要性があったのでしょうか。

よろしくお願いします!

A 回答 (2件)

2)


構造としては、下克上で、加賀国一揆に近い。
衆徒って何者かと言うと、国人層です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%86%E5%BE%92
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AD%92%E4%BA%95% …
こういった人々。
門跡ってのは、他国における守護みたいなもの。
守護の富樫を実力で放逐したのが加賀国一揆。
守護もどきの門跡を任命した朝廷に罷免させろというのが1371年の事件。
100年の間に実力行使がエスカレートしたと言う感じです。
有り体に言えば、国人層(=衆徒)が、「俺たちの取り分を増やせ」というもの。

3)
後光厳上皇が新帝の即位式を図る

これは、誤記でしょう
その前にある「新帝の即位式妨害」というのが正しい
妨害したら憤慨するでしょう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E5%85%89% …
大門跡に子弟を突っ込んで収入源にする、あるいは突っ込ませることでキックバックをもらうというのが天皇家や摂関家の収入源ですから。
天下りした理事長に対して、その財団法人の社員が「理事長やめろ」と運動したら、官僚は激怒します、それといっしょ。

5)
時代は南北朝時代。
南朝と北朝どっちが正統なの?という疑問が底辺にあります。北朝側としては、即位もできないでブラブラしていては困るわけです。

ちなみに、一揆というやつは、やりたいときにやるものでなく、中央政権の動向を見て、不安定な時を見計らってやるそうです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E9%95%B7% …
これなども、将軍の代替わりの機会を捉えてやっています
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

なるほど、衆徒が、「俺たちの取り分を増やせ」というのが神木入洛の目的だったのですね。


すいません、写し間違えちゃってますね。
「新帝の即位式妨害」ですね、意味通らないはずです。

そうか、南北朝にわかれていたので即位式が重要視されていたのですね。

お礼日時:2010/03/15 15:24

解釈は


双調平家物語ノート2 院政の日本人 (単行本)
橋本 治 (著)
この方の本からの推定。
記憶違いから、間違った解釈かもしれないが、私は読んで、前の回答のように理解した。

後光厳とすると、兄の崇光天皇系列が本流だったが、正平の一統のあと他の皇族が南朝に拉致されたすきに即位したという負い目と言うか傍流意識も強かったのかもしれません。
それが故に、息子への継承を「明確」にする必要があったのかもしれません。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B4%E4%BB%81% …
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この回答へのお礼

何度も回答ありがとうございます。
ご自身の解釈だ、ということですね。
間違った解釈だとは思いません。
とても貴重なご意見をありがとうございます。


後光厳に傍流意識というのはあったような気がしますね。

お礼日時:2010/03/17 14:30

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