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永井路子が、対談である「独断日本史」のなかで次の説明をしています。

<それでも女の歴史から見ると、平安朝中期までは母后の時代で院政は乳母の時代ね>
<ところが、だんだん幼帝がふえてくる。お后をもらうのはずっと先、それより、天皇を育てる乳母というのが力を持ってくる。一方、今まで母后に握られていた天皇家の実権は、天皇の後見役である法皇、上皇という院の勢力に握られる。>

質問は、乳母は法皇、上皇という院政に関係していますか?両者はたまたま時期が合ったということですか?

A 回答 (4件)

#3です。


>永井の説明は、藤原道長に言及してないので、考えるほどではない、のですね。
チョット違います、幼帝を生んだ要因に言及していないからです。

近親婚で天皇は短命でした、奈良時代は幼帝が成長するまで、女性が
ピンチヒッターで天皇になり幼帝天皇を避けました。

平安時代は、藤原一族が自分の娘が産んだ皇子を幼帝天皇として、
政治の実権を握ったのです。それに伴って上皇が多く誕生したのす。
それの、最たる人物が藤原道長なのです。
当代の長男道隆が亡くなると、道隆の息子達を罠で失脚させ、次男の
道兼に家督を相続させ、道兼も失脚させ、藤原家の家督を相続した
のです。
系図を御覧になると、これでもかの近親婚の連続が解ります。

中宮定子は道隆の娘で没落の憂き目に遭い悲嘆の中でなくなりました。
枕草子は中宮定子を慰め為に書かれた物で、中宮定子との楽しい日々
だけを綴ったのは、清少納言の権力者への、ささやかな抵抗に、
見えるのですが・・・
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この回答へのお礼

再度の御回答ありがとうございました。
道長を加味すると、質問(乳母は法皇、上皇という院政に関係していますか?両者はたまたま時期が合ったということですか?)に対するご回答は、どうなりますか?

田畑泰子の「乳母の力」から、乳母と院政との絡みの説明を見つけましたので、この場を借りて引用します。
<院は摂政・関白に対抗するため、院司の力の強化につとめたが、その院司には乳母の一族が抜擢されている。>
<この時代に乳母の一族が政治の世界に突出するのは、乳母一代一代で異なるため、伝統的、制度的政治機構の枠を無視しても登用でき、周りの人々も、一代ことのこととして認めるできたからであると思う。>

お礼日時:2023/01/09 17:13

日本は言論・表現の自由を憲法で保障されているので、何を発表


しても構わない無いですが。
浅学の私でさえ、永井路子氏は歴史の上澄みだけを捕らえて
いるので、論調になってなく、歴史学者なら何の解っていない
と怒り出すと思います。
藤原一族の事を記載しないと取るに足らない話で終わります。
最低でも藤原道長は記載しなければ・・・
「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の虧(かけ)たることも なしと思へば」
自信たっぷりの豪語した歌です。
藤原兼家からの系図を見ると、状況が解ります。

藤原道長は、叔母、姉、妹のみならず、紫式部、和泉式部、赤衛門など
の女性を手駒にして、頂点に立ち、先程の詠を読んだのです。
「乳母は法皇、上皇という院政に関係していま」の回答画像3
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この回答へのお礼

早速の御回答ありがとうございました。
永井の説明は、藤原道長に言及してないので、考えるほどではない、のですね。

お礼日時:2023/01/08 18:16

一般的には、母后ではなく、実家の摂関家でしょう。


図式的には、「母后・摂関家」vs「乳母・上皇」となる。
院政の始まりは、摂関家が主導権を上皇に奪われたときからになります。従って乳母の台頭は院政が始まるのとほぼ同時と考えて宜しいかと思います。
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この回答へのお礼

早速の御回答ありがとうございます。
たまたま<乳母の台頭は院政が始まるのとほぼ同時>になったのですね。両者の間に、明確な関連はなかったのですね。

お礼日時:2023/01/08 18:12

乳母の影響は大きいですよ。


公的には母親の方が尊重されますが、譲位後の取り巻きである院近臣なんて乳母の子供とか遊び友達などばかりですからね。
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この回答へのお礼

早速の御回答ありがとうございます。
なぜ、生みの母が影響力が薄くなり<乳母の子供とか遊び友達などばかり>になったのですか?

お礼日時:2023/01/08 18:08

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