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お世話になります。
素朴な疑問です。
鎌倉幕府から王政復古の大号令まで約680年間,武家社会になったわけですが,その間もずっと朝廷が存続し,征夷大将軍も天皇の勅令によって任命されました。
そもそも朝廷そのものを滅ぼす(将軍自体が国家のリーダー)という発想は誰もなかったのでしょうか?

A 回答 (18件中1~10件)

大学の講義じゃ無いんですから思うでも良いじゃないですか。


天皇は神との接点ではなく合理的制度がはるか昔に成立して
いて米社会というのは学問的に不適切という意見が在ります。

新嘗祭というのが宮中三殿の近くで毎年行なわれていますよね。
五穀豊穣を祈り感謝する祭事と思いますが。天皇の重要な祭事
と認識します。なかでも米は重要な位置を占めていると思う。

中断は在るとしても1000年以上の長きに渡り続いている祭祀と
言える。天皇はその祭祀を続けてきたのです。いにしえの先祖
も祈りを必要とし祭祀を繰り返して来たのだと思う。

千数百年の昔の事を学問的証拠と言われても。ねぇ・・・
個別の事件なら事実を掘り出して演繹するのも方法ですけど天皇
あるいは朝廷がなぜ続いたかという事には別の方法でも良いと思う。

天皇が米社会と強い結びつきが在ったというのは新嘗祭で判ると思う。
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この回答へのお礼

たくさんのご回答ありがとうございます。
不毛な争いの様相を呈してきたので,このあたりで閉め切りたいと思います。
朝廷があった方が都合がいいと結論は十分理解しました。

お礼日時:2011/11/04 22:06

 更に理解不能となりました。

そして最終的なダメ押しをします。その理由は以下の点に集約されます。
(1)>神々に対する総合祭祀を集中したのが日本古来の状況と言えます。神々の世界と人間世界を取り持つのが総合祭祀長の天皇。なぜ天皇かと言えば競争相手を殲滅あるいは支配したから。この当時の戦いは実益を争う物ではなくて祭祀権の争奪戦と思う。

(2)>なので昔から祭り事、祀り事、政事は同じ意味でも用いられた。現役天皇の殺害は総合祭祀長を殺害することであり神々の世界を否定すると言える行為です。米栽培で天候を神々に頼る古来の日本で神々の世界を否定する事は全世界の否定と同じ事です。

(3)>武家社会と教科書は教えますが根本に在るのが米社会なのです。米社会を守る象徴が天皇。武家社会も米社会の一員なので天皇が必要。現役天皇で無くなれば総合祭祀長でも無いので刑罰を科す事も出来た。天皇制は米社会と多神教と武力から生まれ続いて来たと思う。

(4)>精神権力と呼ぶのは他者を武力で排除して来たからです。精神権力と実益権力の分離が古来から行われてきたと表現したのは絶対王政よりずっと前だと言う意味です。最強の武力が最高の権力というのは条件を必要とする限定的理解と思う。

(5)>王権神授説が多くの場合、一神教に基ずくので教義からの制限や介入が王権にされます。そこに生まれる軋轢(あつれき)や対立から持続年数に限界が生じます。多神教の場合、特に総合祭祀長だけに意味を持たせた場合には教義が無いので制限や介入が少ないのです。
(6)>権力分離の程度を言えば天皇制の方が王権神授説より高いと思う。天皇の息子で有りながら病魔退散の為に都でどんちゃんやりながら昆布茶を庶民に振舞って歩いたという六波羅蜜寺の由来も在ります。たとえで言えば放射能退散の為に天皇の子息が上半身裸で無料ライブを続けるような物です。1000年以上前の天皇周辺の姿です。

(7)>武家といえどもそういう役割を否定できなかったという事ですね。

(1)および(3)で回答者の方に特徴的に見られるのは「~だと思う」との表現であり、これは単なる観念の域に留まっているにすぎません。歴史学の基本は「証拠(となる史料)に基づいて論理構築を行う」行為であり、その意味に於いて単なる推測や観念で意見を述べることは決して許される行為ではありません。それでは単なる「歴史趣味」としてミステリーを読むことと同じです。歴史学はマニアが暇つぶしに読むミステリーなどではありません。人間の足跡を一つ一つ薄皮を剝くようにして小さな事実を積み上げ、歴史としての全体像を構築する学問です。従ってそこには実証研究と理論構築の往還運動が行われることとなります。(1)で「神々と人間の間を取り持つもの」と規定されている根拠は何でしょうか?。まさか「古くからの習わし」などと論理のすり替えを行うのではないでしょうね。日本史上に於ける「天皇」および「王権」の位置付けに関しては現在も多用な議論が展開されていることすらご存じないのでしょうか?。仮に「天皇」を司祭者と位置付けるならば、「律令」という政治体制のシステムとの関係をどの様に説明するのでしょうか?。
 (1)で更に疑問となる点は「天皇が競争相手を殲滅し支配したから」とはどのような史実を指しての御指摘でしょう。藤原一門による権力掌握を目的とする政略は確かにあります。そして天武が文武を追討したのは天智系に連なる抵抗勢力の排除が目的です。しかしながら「天皇」というステータスだけは残した。なぜだとお考えですか?。それが質問者様の質問趣旨に他なりません。
 (2)で問題となるのは「崇峻天皇殺害事件」です。現在の研究レベルではこの時代には既にある程度の枠組みで隋の政治システムが導入されていたとされています。そこでは「王と神のつながり」などの神道的色彩はみられません。専ら「合理性」が追求されています。そして唐突に「日本の社会は米社会である」などとの論理を持ち出す。これはまさしく論理のすり替えにしかすぎません。アマチュアの歴史趣味の典型です。
 (3)日本の中世社会を象徴するのは「荘園公領性」と「在地領主制」そして「職のヒエラルヒッシュな体系」です。それは上は天皇からはじまり下は下人に至るまでの重層的構造を示し、その中には手工業者や商人そして芸能に携わる者として独自の経済活動を行い権益を拡大する者も現れます。酒屋・土倉が貸金業者であることも知られています。また神人・供御人といった社会的には卑賤の身分でありながら寺社権力を背景として経済的成長を遂げる階層が見られることも中世の特質の一つです。中世は決して農民だけの世界ではありません。むしろ流通業が盛んになる時代です。「米作り」とそれを支える「多神教」だけで中世が成り立っていたなどとはとても考えられない。そして中世から近世に至る間の「院政」の意味が理解出来ていない。現役を引退した天皇が「法皇」として君臨できるのは「法皇」にはそれこそ世俗を離れた超法規的な存在との認識があったからであり、それも財政的基盤として「女御院領」などの荘園を所有していたからです。地位として法王の方が天皇よりも上、との現象は南北朝合一に成功した足利義満が全ての官職を辞した経緯に通じる。
 (5)に関して。いわゆる「王権神授説」に類するものを他に求めるなら、中国歴代王朝の「皇帝」と「禅譲」の関係がある。「皇帝」は天意に基づいて司政にあたる。そして「天意」もしくは「天命」に基づいてその地位に就き、あるいは去る。この「天意」もしくは「天命」をそのまま「王権」と「神権」の関係に置き換えることも出来る。そしてこの「王」は同時に君主となり具体的な政治支配を行う。それは土地領有および法的支配の問題にも波及する。権力の分散がヨーロッパと比較して緩やかであるとするならば、それは天皇が自らの権力(既に律令システムの段階で天皇には権力などなかった)を手放した理由とそうせざるを得なかった背景に言及する必要がある。
 こうした点で歴史趣味のアマチュアが何の史料的根拠および研究動向を踏まえた理論的根拠もなしに思い付きで歴史に言及することはとても危険な行為としかいいようがありません。
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神々に対する総合祭祀を集中したのが日本古来の状況と言えます。


神々の世界と人間世界を取り持つのが総合祭祀長の天皇。
なぜ天皇かと言えば競争相手を殲滅あるいは支配したから。
この当時の戦いは実益を争う物ではなくて祭祀権の争奪戦と思う。

なので昔から祭り事、祀り事、政事は同じ意味でも用いられた。
現役天皇の殺害は総合祭祀長を殺害することであり神々の世界を
否定すると言える行為です。米栽培で天候を神々に頼る古来の日本
で神々の世界を否定する事は全世界の否定と同じ事です。

武家社会と教科書は教えますが根本に在るのが米社会なのです。
米社会を守る象徴が天皇。武家社会も米社会の一員なので天皇が必要。
現役天皇で無くなれば総合祭祀長でも無いので刑罰を科す事も出来た。

天皇制は米社会と多神教と武力から生まれ続いて来たと思う。

精神権力と呼ぶのは他者を武力で排除して来たからです。
精神権力と実益権力の分離が古来から行われてきたと表現したのは
絶対王政よりずっと前だと言う意味です。最強の武力が最高の権力
というのは条件を必要とする限定的理解と思う。

王権神授説が多くの場合、一神教に基ずくので教義からの制限や介入
が王権にされます。そこに生まれる軋轢(あつれき)や対立から持続
年数に限界が生じます。多神教の場合、特に総合祭祀長だけに意味を
持たせた場合には教義が無いので制限や介入が少ないのです。
権力分離の程度を言えば天皇制の方が王権神授説より高いと思う。

天皇の息子で有りながら病魔退散の為に都でどんちゃんやりながら
昆布茶を庶民に振舞って歩いたという六波羅蜜寺の由来も在ります。
たとえで言えば放射能退散の為に天皇の子息が上半身裸で無料ライブ
を続けるような物です。1000年以上前の天皇周辺の姿です。

武家といえどもそういう役割を否定できなかったという事ですね。
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>朝廷は精神権力と呼べる。



のでしょうね。
説得力があります。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%BF%E4%B9%85% …

天皇には弓は引けぬ、ただちに鎧を脱いで、弓の弦を切って降伏せよ。
都から兵だけを送ってくるのであれば力の限り戦え。(増鏡)

これは律書で動きが事細かに定められた物ではありません。

質問内容は、何故

>天皇には弓は引けぬ、ただちに鎧を脱いで、弓の弦を切って降伏せよ。
都から兵だけを送ってくるのであれば力の限り戦え。(増鏡)

こう考えるのか?
です。
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 幾つかの疑問が生じました。


(1)>神武東征までさかのぼらなくても朝廷も武力を有していたと判断するのが適切と思う。武力により確立された精神的命令力に注目すれば朝廷は精神権力と呼べる。

(2)>学術的には世俗権力と表現する人は多いが実益権力の方が実相を良く表せると思うので使用している。日本ではかなり昔から権力の分離が実現していた。だから絶対王政が無い。

(3)>ヨーロッパ歴史観でも絶対王政は近代の概念でありそれを用いて日本の古い歴史を判断する事には無理が在る。

この中、(1)で引用されている「根拠」が必要。個人的見解として定義したのであれば、その論拠も同時に必要です。
また「精神的命令力」とはどの様なモノを指しての事でしょうか。「命令」ならば言葉で表された「文書」と考えることがごく自然な発想であり、それの裏付けが「法」であるということになります。そして「法」を執行し得る立場にあるのは官僚組織としての行政体であり、個人としての王とは異なる存在となるはずです。
 (2)これも(1)と同様。また日本ではかなり以前から権力と(権威)との間での「分離」が実現していた。ヨーロッパの中世社会において同様の形態は容易に見ることが可能です。封建領主として地域を支配していたのは「王」であり、信仰の対象としての地位を築き「王」の王たる所以を裏付けするのが「王権神授説」と呼ばれる考え方で、これは教皇に連なる教会の専権事項であり、ヨーロッパ社会を構成する特質の問題であることから歴史的時間うんぬんの問題ではありません。「日本ではかなり昔から権力の分離が実現していた」これはどのような根拠に基づき、どの時点での事象を具体的に指し示しているのか、不明です。
 (3)少なくとも「絶対王政」との表記および概念をどこにも適用してはいません。また「西洋史の概念を日本の歴史にそのまま適用するのは問題がある」との御指摘。これは一部同感できます(ジグソーパズルのピースのようにあてはまるべき場所に適用するのは問題ありませんが、あてはまらない場所に強引に適用するのは問題との意味です。)但し、歴史的過程全体を眺めた上での概念適用は学問上なんらの問題があるとは考えられません。先述のとおりに「時間経過が古い新しい」レベルの問題ではないのです。問題の本質は歴史を考える場合の「構造」とそこに至る「プロセス(形ができるまでの経過およびその要件と要素)」が大切です。
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家康が朝廷を滅ぼした場合、豊臣家も他の大名も黙っていなかったでしょう。


毛利、上杉の決起は元より、とんでも無い事態に陥ったはずです。

最も、全ての大名が家臣であるのは天皇から認められている征夷大将軍だからです。
これが無かった信長は信長包囲網に苦しめられ、絶えず謀反に苦しみます。

最も成功したのは秀吉でして、公家の権威と武力の両方を巧みに操りました。
自分は藤原氏へ養子となり、義理の妹は天皇に嫁ぐ。

宮中の権力も手中に収めてしまったんです。
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神武東征までさかのぼらなくても朝廷も武力を有していた


と判断するのが適切と思う。武力により確立された精神的
命令力に注目すれば朝廷は精神権力と呼べる。

学術的には世俗権力と表現する人は多いが実益権力の方が
実相を良く表せると思うので使用している。日本ではかなり
昔から権力の分離が実現していた。だから絶対王政が無い。

ヨーロッパ歴史観でも絶対王政は近代の概念でありそれを
用いて日本の古い歴史を判断する事には無理が在る。
朝廷そのものを滅ぼす事をしなかったのは現代の政府がマスコミ

を殲滅しないのと似ているのです。実益に大きな影響が無いから。
しかし具体的に権力に打撃を与えようとすればつぶされます。
だから数百億単位で暴力団が税金をくすねてもだんまりという事。

実益権力の邪魔をしない事で朝廷は生き延びた。
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 ANo.9です。

一言追記させていただきます。
他の回答者の中に「天皇に決裁権」があったかのように記述している方がいますが、完全に誤りです。律令システムが移入されて以来、天皇には権限などありません。このシステムを貫く根本原理は「官僚制」です。
 歴史上で悪名高い「建武新政」も後醍醐のアナクロ的な歴史認識の下に行われた独断と愚行との評価しか歴史学的にはありません。
 またその方は「精神権力」「実益権力」なる用語を用いていますが、歴史学の概念としても政治学の概念としてもこのような概念は見あたりません。恐らくは「権力」と「権威」の違いをこうした表現で記していると良心的に解釈すれば可能ですが、少なくとも学術用語としては成り立ち得ませんので質問者様にはご注意の喚起を申し上げます。
 両者を単純に比較しての違いは「権力」が組織を統制するために装置としての具体的な「警察力」および「武力」を内包しているのに対し、「権威」はその様な装置を有しません。権威はひたすらに「宗教的神秘性」を存立の基盤とします。
 
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朝廷を実益の最高権力として数える事が間違いです。


多神教の共同祭祀長とでも言えるのが天皇の役割。
なので多神教として問題となる大事件に対して言葉を

発し行動を命ずるのが本来の仕事であり実益の制御
では有りません。豊穣を祈り天災の無きを祈り安寧を
祈る。旱魃が起きれば雨乞いに精をだす。現在の天皇

も田植えをして豊穣を祈ります。実益権力では無くて
精神権力とでも言える存在が天皇です。しかし多神教
権力なので宗教対立で権力を失う事は在りません。

多神教の精神権力には実益がほとんど無いので実益権力
として敵対する必要性が存在しません。かくて天皇制は
現代まで続いて来た。明治、戦後と宗教性の大部分を排除

された事で現代において天皇制消滅の危機なのです。
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 こんにちは。

企業勤務と大学および大学院で歴史学研究と歴史教育に携わる者です。
さて質問の事項ですが、その質問にお答えするには幾つかの前提が必要とされます。
(1)前近代における日本全国の階級および階層を統一的に掌握する根拠は何か。
(2)武家はその統一的根拠とはどのような関係および位置付けにあるか。
(3)中世前期と中世後期、織豊政権と徳川支配ではどの様に「公武の関係」が異なるか。
です。
 (1)日本全体を掌握する法的根拠といえば一つしかありません。それは「律令」にあたります。この律令に基づいて位階制が構築され、それにより武家もその序列に組み込まれることとなります。武家にとって都合の良かった点は自らが「法的根拠のない支配者」であることに対し、朝廷はそれに対する「法的裏付け」解りやすく言えば「お墨付き」を付与することのできる機関であった。
 (2)武家が「実効支配」の能力を有していたのに対し、公家(朝廷)はそれに対する許認可組織として存在した。
 (3)中世前期および中世後期を分岐させる時期として南北朝内乱がありますが、これは後醍醐政権による混乱から武家による政権の再編および再構築と中世の社会構造が本質的に変化を遂げる時期にあたります。
そしてこの後の戦国時代を経過した後の織豊政権期、殊に信長の時代では幕府などは念頭になく徳川時代に至り全国を一つの権力の下に掌握する形が出来上がります。その中で着目したい点として、南北朝内乱を鎮めた足利義満は自らのステータスを対外的に「日本国王」と称し、鎌倉時代の元寇において元側から見た場合の「日本の王(統治者)は誰か」との疑問に応えうる形を作ろうとします。国内的には彼は南北朝内乱の終息と共に全ての地位から去り、手許に残したのは「氏長者」と准三后の地位のみです。これはある意味で「正当性」に固執し「権力の裏付け」である「権威」を手に入れることで一つの家として武家の棟梁が幕府支配にあたることの法的根拠を与えたいとの意思表示とも理解されています。
 また徳川の時代では武家諸法度と禁中並公家諸法度として「武家による全国の一元的支配」を確立するに至ります。
 ということで「滅ぼす」というより「便利に使う」との発想に長けていたと理解するのが実情に近いと考えられています。
 御指摘の「征夷大将軍」も元々は「令外官」として任じられた職掌であり文字どおり、朝廷に支配にまつろわぬ民を武力で討伐する目的で設けられた臨時の官職です。
 こうした「公武の関係」は日本の中世史全体の性質に関わる問題でもあり、様々な見解がこれまでにも提示されてきた経緯があります。中世国家をどの様に見るか、中世に「国家」と呼びうる政治形態があったのか、などと論争は現在でも続いています。それは「日本の王権」を歴史的過程に中にどの様に位置付けるかとの問題でもあり「将軍」を英語表記する場合に何が適訳であるかにも示されていて、General、Emperor、President、King何れに該当するのかと表現することも可能な問題です。
 一口に「強い方が弱い方を制圧する」と表現することは「歴史する」ことではなく、単に「歴史をゲームか何か延長線上にあるもの」とお考えになっているように感じられます。抑も中世の荘園や戦国時代の領主支配下で生活する百姓(ひゃくせいと読み、万民の意味です)に国家のリーダーが誰であるかなどと考える余地は何処にもありません。農民にとっては自らの暮らす在地と自検断権利を守ること、手工業者や商業に携わる者にとっては自らの権益確保で一杯一杯です。それは戦国大名にとっても同様です。
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