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孝明天皇の崩御によって明治維新へと急展開しましたが現段階で死の原因は諸説あるかとおもいますが、結局どうなのでしょうか? やはり岩倉卿でしょうか? 大久保の関与はどうなのでしょうか? ぜひお願いします。

A 回答 (5件)

 孝明天皇は、1866年12月25日、39歳の若さで崩御しました。

病名は痘瘡。わずか半年の間に幕府と朝廷の最高位にある将軍と天皇の病死が続いたわけです。
 将軍家茂の死が不自然だったように、孝明天皇の崩御も非常に不自然なものでした。どのように不自然だったか、これを天皇側近の中山忠能(明治天皇の生母・中山慶子の父)の日記『中山忠能日記』など関係者の記録から見ることができます。ポイントは24日です。
 24日の夜になって、病状が激変していることが分かります。それも吐き気を伴っています。快方に向かいつつあった痘瘡の病状からは考えられないことです。
 ここから、誰かが毒を盛ったのではないか、との説がでてきたのです。その噂は当時からあったようで、イギリスの公使館員であったアーネスト・サトウは『日本滞在記』で次ぎのように書いています。
 『噂では帝の崩御されたのを天然痘とされていた。しかし、数年後、その間の内幕によく通じている一日本人が、私に確信したことによると、毒殺されたという。この帝は所信をもって、外国人に対するいかなる譲歩にも真っ向から反対してきた。そのために、来るべき幕府の崩壊によって、否が応でも朝廷が西洋諸国との関係に当面しなければならなくなるのを予見した一部の人々に殺されたと言うのだ。重要な人物の死因を毒殺に求めるのは、東洋諸国ではごくありふれたことである。前将軍(家茂)の死去の場合も、一橋のために毒殺されたという説が流れた』
 アーネスト・サトウは、家茂の死にまで言及していますが、彼が聞いた噂の『一部の人々』とは誰のことっだったのでしょうか。

 質問者さんの言われる岩倉・大久保説ですが、岩倉・大久保の献策に激怒し、二十二人の公卿に対し謹慎・閉門を命じた後、天皇の崩御により状況は一変したことを考えれば、アーネスト・サトウが彼らを『一部の人々』に入れて考えていたとしてもおかしくはないですね。
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この回答へのお礼

ご丁寧にありがとうございました。家茂の死との関連まで含めてアーネスト・サトウも記述を残していたのですね。中山忠能日記というのがあるのですね。大変勉強になりました。感謝いたします。

お礼日時:2005/05/06 14:48

 設問のまとめ ~ 日本三大革命の謎々 ~


 
 孝明天皇の崩御と明治維新:満34歳から満14歳への皇位継承。
 岩倉具視らの毒殺説:ふつうは現天皇より現将軍を抹殺すべき?。
 大久保利通の関与:岩倉政権の主要閣僚となるためには一心同体。
 
 無血革命 ~ 不自然な始末 ~
 
 初の御前会議(天皇満14歳)は将軍不在(満30歳)で開かれた。
 最後の将軍となった徳川慶喜は、日本で初めて油絵を描く。
 岩倉具視らの新政府に、すすんで大政奉還したため、厚遇された。
 
 岩倉家の血脈 ~ 五百円札の釣銭 ~
 
 岩倉具方(具視の孫)は洋画家となった。
 岩倉明(具視の曾孫)は写真紀行文のエッセイスト(高校では絵画部)。
 岩倉具子(具視の嫡孫=加山雄三の母)など、芸能人の系譜がつづく。
 
 諸説紛々 ~ 読みやすい論評 ~
 
── 渡部 昇一《100人の指導者・第8回・岩倉 具視》
http://www.jmca.net/booky/watanabe/008.html
 
── 佐々木 譲《武揚伝ノート5》
http://www.d1.dion.ne.jp/~daddy_jo/buyoden5.htm
 
── 《慶喜の子:越後長岡と東三河 第125話 20020125 東海日日新聞》
http://www43.tok2.com/home/oshimamd/nagaoka/125. …
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この回答へのお礼

ありがとうございます。変わった切り口からの解説感謝いたします。総じて大きな事件も真実は1つでありいくら時のその後の権力者による謀略であったとしても公にするよりも社会の安定をはかる方が日本全体を考えた場合に得策であるとの判断で闇に葬るという事で暗黙の一致になるという日本人のバランス感覚となにかを超越している感性が働いているのですね。日本人はエラかった

お礼日時:2005/05/02 15:13

史料の裏付けがない以上「わかならい」としか言いようがないのですが、毒殺説がいわれる状況はありますね。


快方に向かっていたはずなのに急変して崩御したことや、孝明帝の崩御によって、倒幕の動きが加速したことなど。
孝明帝は、攘夷という点では幕府と対立しましたが、基本的には佐幕論者ですから、孝明帝のままだったら、大政奉還から徳川氏を中心とした諸侯会議の設立・徳川絶対主義、といった流れになった可能性もありますし。
その意味では岩倉あたりが怪しいというのも理由がない話ではないのです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2005/05/02 15:05

 孝明天皇にも当然,御典医が付いていましたから,その御典医がどのような診断を下したかが謎を解く鍵となるのでしょうが,孝明天皇崩御に伴い,即位した明治天皇には別の医者が御典医に充てられ,かつ,孝明天皇付きの御典医も孝明天皇崩御から数年後に他界しています。


 孝明天皇のカルテは,禁裏から持ち出すことはできませんし,孝明天皇付きの御典医は禁裏外では何も書き残していません。
 結局のところ「わからない」ということでしょう。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2005/05/02 15:04

「現段階で死の原因は諸説ある」のはたしかです。



で、昔のことなので、確認するというわけにいかず、
決定的な証拠も出てきていないし、
これから出てくるとも思えません。

こんな場で「結局どうなのでしょうか?」と聞いたところで、
「諸説」のひとつを聞くだけに過ぎないと思います。
結局のところ、「わからない」のです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2005/05/02 15:04

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