親子におすすめの新型プラネタリウムとは?

朝廷って どうして、朝・廷ってかくんですか?
とゆうより、だれがそう呼び始めたんですか}??
おしえてください!!!!

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A 回答 (3件)

10世紀半ばの公家の日記がありますが、それによれば午前3時に大内裏・内裏の門鼓が打たれ小門が開門、6時半に大門が開かれこの時間に主な公家が出勤します。


勤務は午前中のみで、10時ごろ帰宅して昼食を取りますから、会議は朝に行なわれたのでしょう。
「廷」の文字は政治や裁判を行なう場所と解され、階段の先の広庭という意味になります。
ですから朝、政治を行なう場所、という意味もあるのかも知れません。
言葉自体は、壬申の乱で有名な中冨鎌足の時代に「朝臣(あそみ)」という姓(かばね)がありますから、古い時代からあると思います。
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この回答へのお礼

公家の日記なんて物が残っているんですね!
よく考えれば、朝に仕事をしていたと習った記憶があります。

大変よく分かりました。ありがとうございました。

お礼日時:2004/06/13 12:33

自信全くなしですが



古代中国では、政治は朝のうちに始めて、朝のうちに物事を決済することになっていたという話を聞いた記憶があります。
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「朝」には、「天子が政治を行うところ」


「廷」には、「官吏の立ち並んで朝礼をする広い庭や白州のある役所」
という意味があります。
両方をあわせて、「天皇と役人たちが政治をおこなう場所」となったのでしょう。
中国からきた言葉だと思いますが、かなり古くから使われているのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

歴史って、昔のことでわからない事が多いですが、
そのおかげで、いろんなことが分かって面白いですね。
ありがとうございました。

お礼日時:2004/06/13 12:36

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Q「幕府」と「朝廷」の違いを教えて

中学校1年生の子供からの質問なのですが、

・「幕府」と「朝廷」の違いが分からない。
・そもそも「幕府」って何?「朝廷」って何?

と言われました。
お恥ずかしながら的確に説明できません。
教科書には説明が載ってないし、「先生に聞いてみたら?」と言うと
「先生は授業が終わるとすぐに職員室に戻ってしまうし、あまり質問しやすい先生じゃないもん!o(;△;)o 」
とのこと・・・(´_`;)

どなたか教えていただけますか?
私も勉強したいです。よろしくお願いします。<(_ _;)>

Aベストアンサー

朝廷というのは天皇を頂点とした政府のことですが、ここが日本全国を完全に支配していたのはせいぜい平安時代までで、その後紆余曲折はありますが、鎌倉時代、室町時代、戦国時代(この時代は全国を支配した政権はありません)、安土桃山時代から江戸時代まで、ほとんどは武士が支配することになります。
ただ、ややこしいのは武士が支配していた時代でも一貫して朝廷は存在していたことです。幕府の長は征夷大将軍ですが、これは形式的には天皇の部下なんですね。ただ、現実には天皇が将軍を自由に選べるということはほとんどなく、武士に言われるがままに任命していたわけですから、実権は武士の側にあったということになります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%81%E5%A4%B7%E5%A4%A7%E5%B0%86%E8%BB%8D
これを端的にお子さんに説明するのは難しいかもしれません。
ただ、今の天皇陛下も政治的な実権はまったくなくて象徴として存在しているわけなので、それとちょっと似ているというような説明は、できるかもしれませんね。(今でも首相を任命するのは天皇と決まっています。ただし天皇が首相を選ぶことはできず、国会が選んだ人を形式的に任命するだけです)

朝廷というのは天皇を頂点とした政府のことですが、ここが日本全国を完全に支配していたのはせいぜい平安時代までで、その後紆余曲折はありますが、鎌倉時代、室町時代、戦国時代(この時代は全国を支配した政権はありません)、安土桃山時代から江戸時代まで、ほとんどは武士が支配することになります。
ただ、ややこしいのは武士が支配していた時代でも一貫して朝廷は存在していたことです。幕府の長は征夷大将軍ですが、これは形式的には天皇の部下なんですね。ただ、現実には天皇が将軍を自由に選べるという...続きを読む

Q朝廷という名称について

単純な興味なのですが、
日本で朝廷という名称はいつ頃から使われるようになり、
今のように天皇の政権を示すという意味になったのでしょう。

日本で使われ始めたのは大宝律令以降なのだろうとは思いますが、
文献として朝廷という文字が初出するものは何なのでしょう。

wikipediaには鎌倉政庁を朝廷と呼んだ事もあるとあり、
驚いて吾妻鏡(原文)を少し見てみたのですが、
鎌倉を朝廷と表現している文は見つけられませんでした。
また、吾妻鏡では、いわゆる朝廷を示す言葉は
京都とか公家(貴族は公卿?)という表現や、
上皇といった表現は見られたものの
朝廷という文字は見つけられませんでした。

そういえば記紀にも朝廷という文字は
出ていなかったかなという気すらしてきました
(こちらは原文を読んでいません)。

もしかして、朝廷=天皇の政権という意味が固定したのは
明治になってからだったりするのでしょうか。

Aベストアンサー

「朝庭」がいつのまにか「朝廷」になってしまったが、本来は「朝庭」なのです、
という話を聞いてからずっと気になっていましたので、
この際、ちょっと調べてみました。

「朝廷」も「朝庭」も『続日本紀』にはいっぱい出てきますので、
例えば下記URLの『続日本紀』をざっと検索してみますと
最初に出てくる「朝廷」は慶雲三年です。

日本文学電子図書館 http://j-texts.com/index.html

《慶雲三年(七〇六)正月丙子朔》三年春正月丙子朔。天皇御大極殿受朝。
新羅使金儒吉等在列。朝廷儀衛、有異於常。

新羅使金儒吉等在列しているので、朝廷の儀衛がいつもと異なるということですから、
この記事の「朝廷」は、天皇の権威を示していると思います。

次に、「朝庭」ですが、大宝元年の記事に出ています。他にも多数あります。

《大宝元年(七〇一)八月癸卯(三)》○癸卯。遣三品刑部親王。正三位藤原朝臣不比等。
従四位下下毛野朝臣古麻呂。従五位下伊吉連博徳。伊余部連馬養等、撰定律令。
於是始成。大略以浄御原朝庭為准正。仍賜禄有差。

この記事の解釈はいろいろあるようですが、解釈はともかく
「大略、浄御原朝庭(きよみはらのみかど)を以って准正とす」とあるので、
「朝庭」は天武天皇(の定めた制度)を表していると思います。
つまり、「朝庭」は、ご質問の要点、天皇の政権という意味をもっていると思います。

#1の方のご回答にある『日本書紀』の中の「朝廷臨斷」は、数冊の本で調べますと、
朝「庭」臨斷となっています。

「朝庭(みかど)、臨斷(罪定め)たまひて」だそうです。

「朝廷」の初出は知りませんが、「朝庭」も同じとすれば、
この「朝庭臨斷」は早い時期だと思います。

でも難波朝廷や近江朝廷は出てくるのに
「やまと朝廷」という言葉が出てこないのが不思議です。

なお、国家的に重要な行事や儀式は、大極殿とその前庭である「朝庭」で行なうのが原則とされていましたから、元は「朝庭」だと思います。

「朝庭」がいつのまにか「朝廷」になってしまったが、本来は「朝庭」なのです、
という話を聞いてからずっと気になっていましたので、
この際、ちょっと調べてみました。

「朝廷」も「朝庭」も『続日本紀』にはいっぱい出てきますので、
例えば下記URLの『続日本紀』をざっと検索してみますと
最初に出てくる「朝廷」は慶雲三年です。

日本文学電子図書館 http://j-texts.com/index.html

《慶雲三年(七〇六)正月丙子朔》三年春正月丙子朔。天皇御大極殿受朝。
新羅使金儒吉等在列。朝廷儀衛、有...続きを読む

Q最初の天皇はなぜ誕生したのか?

初代天皇は、どういう経緯で出来たのですか?
神武天皇は、国王(日本で一番偉い人)みたいなものだったのですか?

Aベストアンサー

実はそのことについてわからないので困っているんです。
というのも3世紀に活躍したとされる邪馬台国の卑弥呼という女王の解釈により、最近では神武天皇でさえ紀元前660年前の人物とすることには異論がありながらも、その存在自体はありえて、だからこそ正史である『日本書紀』に記載されているのでは?といった論調もあります。
神武天皇そのものというより、神武の伝承として伝わる物語の核になる史実が存在した。それは現存はしていませんが『日本書紀』編纂の主な材料となりえた『帝紀』などに書かれていたのであろう。と予測する立場があるんですね。
ですから国家や天皇の成り立ち自体はよくわかっていない中で、神話などの古伝承から国家や天皇の成り立ちを整合性を以って説明できるのでは?と目下奮闘中といった人々もいる。とのあり方が現況では一番進歩が見られるスタンスであり、逆にそのような暗中模索な状況こそが、現在の学界における日本国家成立の研究、ないし天皇支配の淵源の研究などの現状だと思います。

そして天皇(大王)を中心とした国家といった概念が表れたであろうとされるのが、いわゆる4世紀の古墳時代と呼ばれる時代であったことは、考古史料から、特に前方後円墳などの規格性の強い墓制の出現で見当がつきつつあるのですが、そこの詳しい実態は、日本はもとより、3世紀段階における日本の国情を伝えた古代中国の史書などが4世紀時点ではないためよくわからないんです。いわゆる「謎の4世紀問題」ですね。

いずれにせよ『魏志』倭人伝などの記述から、卑弥呼が活躍する前後(3世紀)にあっては「倭国大乱」と評価できる内戦状態が、その規模は別として事実あったのでしょうね。もちろんその戦闘状態は天皇の出現と無関係であるとも思えないんです。その様な中、詳しい経緯はわかりませんが、倭国大乱と呼ばれる混沌とした戦乱の世にあって、統一的国家としてのヤマト政権を樹立するだけの武力ないし交渉力が、4世紀段階における天皇(大王)の祖先にあったことは疑う余地はないのかな?と思いますし、考古史料などが語る結果から帰納法的に糸を手繰りつつ明らかにしようと試みている、3世紀から4世紀にどのような経緯で歴史がつながるのか?といった問題は、識者はもとより僕に限らず古代史に興味を持つ者が一番知りたい部分なのです。

ですから率直に申し上げれば「初代天皇は、どういう経緯で出来たのですか?」という質問については「こっちが知りたい部分です」といった頼りない回答になり、せっかくのご質問に明確にお答えできないことを心苦しく思いながらも、現状をご理解いただければありがたいと思う次第です。

実はそのことについてわからないので困っているんです。
というのも3世紀に活躍したとされる邪馬台国の卑弥呼という女王の解釈により、最近では神武天皇でさえ紀元前660年前の人物とすることには異論がありながらも、その存在自体はありえて、だからこそ正史である『日本書紀』に記載されているのでは?といった論調もあります。
神武天皇そのものというより、神武の伝承として伝わる物語の核になる史実が存在した。それは現存はしていませんが『日本書紀』編纂の主な材料となりえた『帝紀』などに書かれていたの...続きを読む

Q日本の歴史で朝廷はなぜ残り続けたのですか?

学説や細かい歴史について詳しくないため、中学社会の延長での本当に基本的なご回答で構いません。宜しくお願い致します。

諸説あるかと思いますが、もともとは強い豪族や支配者によって古代に天皇が作られたかと思います。
その後、武家社会や戦国時代など1000年以上も力の強い者が弱い者を支配する世の中が続き、支配者も二転三転したにも関わらず、直接的に軍事力が高かったわけではない天皇(朝廷)が残り続け、影響力を保ち続けた(王政復古まで)のはどうしてなのでしょうか?

常に勝ち馬に乗り続けたのか、それとも権力争いをする者達にも天皇=神と信じていたため天皇を支配するという考えはなかったのでしょうか?

宜しくお願い致します。

Aベストアンサー

天皇家は元々地方豪族(この頃に豪族という呼び名はありませんが)の一つでした。やがて彼らは天照大神と言う神の直系として地域を束ね、やがて日本の統治に乗り出しました。
武士(平家や源氏)も元は貴族であり、天皇を守護する立場です。貴族や武士はやがて天皇の統治のために日本のほとんどを制圧しました。尚且つ勢力争いの中で天皇家の血筋に近づく為に、より近い縁戚関係を結ぼうと画策しました。
天皇家自体も血脈を絶やさない為に多くの子孫が生まれ、貴族や武士の天皇家との繋がり(家系)はこのようにして築かれてきたのです。
日本の統治は天皇家を頂点とした天皇家由来の支配者とその他の豪族(家臣)によって構成されています。そして平氏滅亡後は支配者は基本的に源氏の家系が治めるようになりました。
地方豪族もより天皇家に近い血筋を持ちたいと、当初は血縁によって、後には家系の売買さえ行なわれるようになりました。
秀吉が関白の地位を得るために家系を創った事は有名な逸話ですし、信長の祖先が平氏を名乗り、信長自身も藤氏であるため、源氏系である家康を厚遇したという説もあります。
更に武士の頂点である幕府を開く資格も、基本的には源氏の流れを持つものに限られました。幕府を開く許可を与えるのは天皇であり、幕府は本来天皇を守護する武士団の長ですから、第一に天皇家安泰を考えるのは当然です。
武士の世界といえど、武士は天皇擁護のための組織である事は日本国中の武士が自覚しており、天皇を排斥しようとする者は排斥されるし、戦っても他の武士の助力を得られない事になるのです。
歴史のなかでは度々天皇家に対抗したり、懐柔しようとする者が現れましたが、徳川家でさえ完全な全武士団の賛同と助力を取り付けることは出来ず、中途半端に終わっています。
最後に天皇を担ぎ出したのは薩長軍で、当初は天皇家の許しを得られなかったものの、勝手に天皇家の御旗を掲げて幕府軍を朝的として討伐しました。戦況の有利を得て、天皇も正式に薩長軍を認めたのです。とは言ってもこれは、朝廷の貴族が押したために天皇も認めざるを得なかったのでしょう。
これも、武士が天皇の臣下である事を武士社会全体が自覚していたから成し得たのです。

天皇家は元々地方豪族(この頃に豪族という呼び名はありませんが)の一つでした。やがて彼らは天照大神と言う神の直系として地域を束ね、やがて日本の統治に乗り出しました。
武士(平家や源氏)も元は貴族であり、天皇を守護する立場です。貴族や武士はやがて天皇の統治のために日本のほとんどを制圧しました。尚且つ勢力争いの中で天皇家の血筋に近づく為に、より近い縁戚関係を結ぼうと画策しました。
天皇家自体も血脈を絶やさない為に多くの子孫が生まれ、貴族や武士の天皇家との繋がり(家系)はこのよう...続きを読む

Qヤマト政権 名代・子代・部曲

名代・子代は部曲のなかで大王に仕える人、ということですか?

Aベストアンサー

>名代・子代は部曲のなかで大王に仕える人、ということですか?

古代のことですのでいろいろな説はあるようですが、「部曲」は豪族の私有民で、「名代・子代」は大王家及び大王一族に奉仕する部民です。「名代・子代」は后や皇子の名を付けたりしたのでその名称があります。職名を付けたものもあります。
「名代・子代・部曲」の総称としては「部(べ)」という名称があります。「部」は大王や豪族に隷属する集団を指し、部の構成員を「部民(べみん・べのたみ)」と言います。「名代・子代・部曲」以外に朝廷に所属し、伴造にしたがってその職能で奉仕したり、生産に携わる「品部」という集団もありました。さらに、大王家・朝廷の直轄領であった屯倉耕作する、「田部」と呼ばれる部民もいました。(豪族の私有地を田荘(たどころ)、耕作民は部曲になります)

まとめると次のようになります。
部-部民
大王家の部
 名代・子代=穴穂部・舎人部など
 田部   =白猪の屯倉などの耕作者
朝廷
 品部   =馬養部・錦織部など
豪族の部
 部曲   =蘇我部など

他の考えもあるので、参考まで。

>名代・子代は部曲のなかで大王に仕える人、ということですか?

古代のことですのでいろいろな説はあるようですが、「部曲」は豪族の私有民で、「名代・子代」は大王家及び大王一族に奉仕する部民です。「名代・子代」は后や皇子の名を付けたりしたのでその名称があります。職名を付けたものもあります。
「名代・子代・部曲」の総称としては「部(べ)」という名称があります。「部」は大王や豪族に隷属する集団を指し、部の構成員を「部民(べみん・べのたみ)」と言います。「名代・子代・部曲」以外に朝...続きを読む


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