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北朝(足利尊氏側の朝廷)と南朝(後醍醐天皇の朝廷)の争いとは何か教えてくださいm(_ _)m

A 回答 (4件)

北朝か南朝かどちらが正統かという争いです。

同じ任地に、北朝から任命された地頭と南朝から任命された地頭が同時期に赴任することになるのです。どちらの地頭も自分が正統だと考えているので話し合いでは解決しません。必然的に争いとなるのです。
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この回答へのお礼

なるほど!ありがとうございます。再度質問申し訳ないのですが、この争いの名前を教えていただきたいです。

お礼日時:2023/01/05 16:59

追加


「争いとはなにか」と言われれば「南北朝の動乱」とかいう場合が多いです。
日本全国を北から南まで数万の軍勢が頻繁に大移動する、日本始まって以来の大内戦の時代です。
隣の境界争いをしている武士が南朝に着いたなら自分は北朝にというふうに潜在化していた土地争いが全国で顕在化し、戦乱は全国に広がったのです。
北朝が次第に有利なったのですが、足利尊氏と直義の兄弟間で観応の擾乱と呼ばれる争いが発生して北朝方が分裂し、三つ巴の内乱となり長期化しました。
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当時、皇統は大覚寺統と持明院統の二つに分裂していました。

どちらも自分達の方から天皇と治天君を出そうと必死で、鎌倉幕府を味方に引き入れようとしました。
鎌倉幕府はあまり深入りしたくないので、交代で天皇を出すことで仲裁しました。
後醍醐は大覚寺統で、しかも傍流だったので一代限りのワンポイントリリーフという立場でした。しかし、自分の子孫だけを皇統として残したいのが人情。そのため、後醍醐は現状の秩序を全てひっくり返す必要があり、その秩序の要である鎌倉幕府を倒すことに執念を燃やしたのです。
で、後醍醐の執念が実り、御家人たちを味方に引き入れることに成功して鎌倉幕府を滅ぼすことができました。そして、後醍醐は建武の新政と呼ばれる新しい建武政権をら打ち立てたのです。
ところが、武士たちの認識は違っていました。「滅んだのは幕府を牛耳っていた北条一門で、新しい武家の棟梁である足利尊氏に幕府を引き継いでもらいたい。」
こうして武家政権をら絶対に認めない後醍醐と武家政権の継続を求める武士たちに担がれた足利尊氏の対立は決定的となり戦になったのです。足利尊氏は、逼塞していた持明院統を新たな天皇として担ぎ出し、正当性の担保としました。
これが足利尊氏に追われた後醍醐は奈良県の吉野に逃れました。これが南朝で、足利尊氏が担いだ朝廷が北朝です。この時代を一般的には「南北朝時代」と呼び、南朝北朝の天皇は互いに相手を「偽主」と罵り合いました。
まあ、「天に二日無く、地に二王無し」ですから、どちらかが本物であればもう片方は偽物ということですからね。
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>この争いの名前を教えていただきたいです。



南北朝時代
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