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人間って何のために生きているんだろうとか考える
事ありますか?食べるため?お金を稼ぐため?
恋をするため、子孫を残すため、遊ぶため、
仕事をするため、より良い人間になるため?
自分磨きをするため?
それぞれ違うのだろうけど。皆さんは
こういう事意識する事ありますか?

A 回答 (9件)

こんにちは。


私の知る限り、その昔、この質問に明確な回答を出したひとがひとりいます。
それがお釈迦様ですね。

人間が何のために生きるのかは、そのひとの価値観によって決まります。
全ての生命にとって「行動の動機」とは「欲求の実現」です。そして、欲求というのは価値観によって産み出されるものです。つまり、何が欲求なのかはその価値観によって決まるわけですね。
我々は、そこに発生した欲求を実現するために行動の選択をします。ですから、当然、その行動選択は価値観に従ったものでなければなりません。従って、人間が何のために生きるのかは、価値観を持った時点で決定してしまうということになります。

価値観には、本能と理性のふたつがあります。
本能の価値観とは、遺伝子にプログラムされた「神経の反応基準」であり、自分の意思で変更することはできません。この価値観に従って食欲や性欲などの欲求が出現しますので、我々はその欲求を満たすための行動を選択しなければなりません。そして、このような価値観は遺伝子の中にプログラムとして組み込まれているものですから、全ての生物にとって、何のために生きるかは生まれる前から決まっていたということになります。
それに対して、理性の価値観というのは生まれる前から決まっていたものではなく、生後の生活環境の影響を受けてあとから作られるものです。こちらは変更が可能で、個人によって違いがあります。このようなものが、そのひとの体験に基づく「個人的価値観」であり、生まれた社会の慣習に従った「文化的価値観」ですね。
このような価値観によって、より豊か生活がしたいとか、有名になりたいとか、世の中の役に立ちたいなどといった、人間には様々な、また複雑な欲求が出現します。そして、我々はそのために生きることになります。
因みに、本能と理性、このふたつの価値観の食違いを、大脳を発達させてしまった人類の苦悩、即ち「悩み」と言います。

さて、ここで問題になるのは、ならば我々は、自分の意思で生きているのではなく、価値観によって生かされているだけではないかということです。
ひとたび価値観を持ったならば、それに対して欲求というものか決定されてしまいますので、我々はその欲求に対する行動しか選択できなくなります。まして、本能の方の価値観は自分の意思では決して変更できません。
もちろん、我々人間は論理的な思考によって複雑な行動の選択をすることができます。ですが、それが如何に論理的であろうとも、ひとたび価値観というものを持ってしまったならば、我々はそれに反する結果を選択するということはできませんよね。つまり、YESかNOかの内、常にYESしか選択できないというのですから、そこに自由意思はないということになります。
このように、人間は価値観に対して選択の自由を持っていません。何のために生きるのかは価値観によって決定されてしまうのですから、このメカニズムがある限り、人生に自分の意思が反映されることはありません。

では、行動選択に自由意思を反映させ、自分の意思で生きるためにはどうしたら良いかということになります。そのためには、価値観の持ち方を変えなければなりません。
我々は、価値観に対する判断をYESからNOに変更することはできません。ならば、価値観の方を自分の意思で変更すれば良いのです。本能の価値観は変更できませんが、理性の価値観は変更が可能です。自分の意思によって価値観を持てるのであれば、それに基く行動選択には自分の意思が反映されているということになります。我々が自分の意思で生きるためには、自分の意思で価値観を持ち替えなければなりません。
ということなのですが、さて、そんなことは当たり前だ、誰だってそうしている。
果たしてそうでしょうか。

個人的価値観というのは、そのひとの体験によって作られるものです。その体験とは、価値観によって選択された行動の結果の積み重ねに他なりません。そして、文化的価値観とは、自分がその社会に生まれ育つことによって、長い間に掏り込まれたものですよね。果たして、そこに自分の意思というものがあったのでしょうか。
人間が何のために生きるのかというならば、ひとつには、より高い価値観を持ち、自分を成長させるためだという考えもあるでしょう。ですが、より高い価値観、この「より高い」という判断基準はいったい何処にあるのでしょうか。それは自分にとってより高い人間なのでしょうか、それとも、その社会で認められている価値観なんでしょうか。
このように、価値観には絶対的な基準というものがありません。我々は自分の意思で価値観を選択しなければなりません。ですが、その選択にはまた基準が必要になります。それが個人的な評価や、その社会の慣習に従うものであるならば、我々は価値観を持つのではなく、持たされているということになってしまいます。
さて、何やら悲観的な話になってしまいましたが、ここで結論を申し上げますと、我々が持つべき価値観とは、より高い価値観ではなく、個人の考に捕らわれたり、周りの動きに惑わされることのない「客観的な価値観」である、ということになります。

この極めて客観的で、人間が持つべき究極の価値観とはいったい何かを論理的に追及したのがお釈迦様でした。
この世の全ての現象に拘らない客観的な価値観を「無我の境地」と言い、その絶対的な価値観を「平等の境地」と言います。このような価値観を持つことによって、初めて客観的な行動の選択というものが可能になります。これを、慈悲の動機に基く行動選択と言います。
先に申し上げましたが、欲求というのは価値観によって決定されるものであり、行動の動機とは、その欲求の実現です。そして、このような客観的な価値観によって産み出される客観的な欲求が「永遠の幸福」です。
価値観が主観的である限り、幸福という欲求はひとそれぞれで変わってしまいます。ひとによって幸福が異なるのであるならば、そこには争いが発生します。争いとは苦しみであり、苦しみがある限り永遠の幸福は実現しません。
永遠の幸福とは、この世の全ての生命にとって平等の欲求でなくてはなりません。そして我々は、その欲求を実現するために生きなければならないわけです。さもなくば、我々は自分の意思で生きているのではなく、主観的な欲求によって生かされているということになってしまいます。因みに仏教では、このような主観的欲求を煩悩と言います。

訳の分からない話を長々と済みませんでした。このようなことは誰でも考えますし、偉いひちたちも昔からたくさん考えていました。人間が何のために生きるかという問題を整理してゆくと、私は概ねこのようになるのではないかと思います。
とはいえ、我々は逆立ちしてもお釈迦様のようにはなれませんよね。価値観によって欲求が生まれ、欲求によって争いが起こるのが世の中です。ならばせめて、より多くの見識を持つことによって自分の価値観を広げ、周りの動きに無闇に惑わされることのない、おおらかな生き方をしたいものだと思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。
長い文で書いていただいて
とても参考になりました。
興味深いテーマですね。

お礼日時:2005/04/10 23:37

全て、体験する為。


そして考え続ける。
見つける。
感動する。
自分の親と子供に会うために生まれたかも?
美味しいものを食べる為。
美しいものに出会うため。
自分の無限大を楽しむ為。
まだまだありそう。
生の不思議を思索する為かも。
発見する喜びもある。
やっぱり絆の深い人間と会う為かも。
この世は祭り。
死ぬまで考え続けると思う。
答えはひとつじゃないからね。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。
この世は祭りという言葉好きです。

お礼日時:2005/04/09 10:11

初めに生命体ありき ---0


人間は沢山の生命体の中の一種 ---1
生命体の特徴はその個体を増殖すること ---2
また、どの生命体も自分自身の個体を自らの意思では発生できない ---3
生命体には寿命というものがあって発生している時間は有限 ----4

人間は何のために生きているかは上記1~4までの規則、性質を定めたある意識体、ある存在がその答えを知っている。

------------------------------------------------
太郎君がジュウシマツの卵を手に入れ、なんらかの方法で暖め、孵化させたとする。

卵からヒナになったジュウシマツがたまたましゃべって「ボクは何のために生きているんだ(産まれてきたんだ)ろう?」としゃべったとする。

答えは太郎君が知っている。ジュウシマツを育てたかったから。
そうすると楽しいから。
嬉しいから。

ジュウシマツの卵をかえすか否かはジュウシマツにその選択肢は無くて太郎君にある。なぜ産まれたかというと太郎君が卵からかえしたいという意思が働いたから。どうしてそういう意思が働いたかというと身近に鳥がいると楽しいから。
またその鳥は願わくば長く生きて欲しいと思うのです。長く生きた方が太郎君の楽しい時間の長さも長くなるから。

------------------------------------------------
質問の答えは人間を発生させたある意識体、ある存在が楽しい思いをするため。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。
という事は親(もしくは太郎君のような親代わり)が楽しい思いをするため
なんですね。

お礼日時:2005/04/08 10:49

FUCHUNさん、こんにちは。



人間を次のA、Bどちらに観るかによって、
答えが全然違ってきます。

  A 人間は、
    魂の進化向上のために生きる、永遠の生命である。

  B 人間は、
    百年たらず生きた後死ぬ、儚い肉体である。

要するに人間を、
    見えない永遠の魂を自分と考えるか、
    見える有限の肉体を自分と考えるか、
によって「人生の目的」が違ってくるということです。

FUCHUNさんはどちらだと思いますか?
ちなみに僕はAだと思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。
私もAの方がいいです。
進化したいというのは人間の
本能ですね。

お礼日時:2005/04/08 10:52

それが本能だから。


地球上に「生命」という存在が24億年続いてきた中で染み付いた習性ですね。

食べるため=生きるため=子孫を残すため
仕事をするため=お金を稼ぐため=食べるためor快楽を得るため
恋をするため=快楽を得るためめor子孫を残すため
遊ぶため=快楽を得るため
より良い人間になるため=快楽を得るため

というわけでみな快楽になるように人間は出来てます。
生きたくない生物が出たとしたら24億年の間には淘汰されて今は残っていないでしょう。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。
すべて快楽のため
というのは本当ですね。
そのために時として
戦争さえもするんですよね。
自分達がより人よりも
快楽が欲しくて。

お礼日時:2005/04/08 10:55

模範解答ですと幸せになる為にです。



実際は死ねないから生きているのです。ミミズの生きがいを問うのと同じです。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。
確かに死というのは
自分で実行可能だけど
実際の実行は難しいです。
自殺がある意味
勇気ある行動だと思えるのは
そのためなのかなとか。

お礼日時:2005/04/08 10:57

 こんばんは。

私は、人は、やりたいことをやるために生きているという見方をしています。出来ないこともあるでしょうが、出来る範囲でやるのだと思います。やりたいことをやるのは、その人の義務だとも思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。
やりたい事をやるために
生きるって同感です。
やりたいやりたい言いながら
実際は何もやらない人って世の中には
多いけど、そういう人って
本当はやりたくないから
やらないんでしょうね。

お礼日時:2005/04/08 11:00

何のためって・・・・・・・。

私の場合は
自分の為。
その次に大事な人の為。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。
確かにそう思います。

お礼日時:2005/04/08 11:02

人間は何のために生きているか解らないから誰にも予測できない可能性へ期待して、時には裏切られ反省、復習、予習して復帰というサイクルで生きて行くのではないのかと思います。


それらの期間は人によって違うけど。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。
サイクルって回るって事ですよね。
地球が回っているように
人間を取り巻く総てのものも
回っているのかもしれません。

お礼日時:2005/04/08 11:03

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