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真実の信仰についてあなた方にお尋ねします。
真実の信仰とはどのような信仰ですか?
真実の信仰は与えられるものですか?
真実の信仰は与えられるものではなく、自らの人間精神によって築くものですか?
真実の信仰は大勢の人が徒党を組んで行うものですか?
真実の信仰は大勢の人と一緒になって行うパフォーマンスが必要なのですか?
真実の信仰を行うのにあの世のこととかが関係するのですか?
真実の信仰を行うのにご本尊とか必要なのですか?
真実の信仰を行うのにお布施とか戒名料とかが必要なのですか?
真実の信仰を行うのに毎日同じお題目を唱えることが必要なのですか?
そもそも真実の信仰とはどのようなものですか?

A 回答 (2件)

★ (№1お礼欄)


真実の信仰は与えられるものですか?
真実の信仰は与えられるものではなく、自らの人間精神によって築くものですか?

☆ 《人知を超えているもの》を 最初から:
★ 自らの人間精神によって築く
☆ ことは かないません。

最初は 向こう(神)のほうから われわれそれぞれにおとづれます。



或る日或る時 何かがわが心の窓をノックしている。と思った。

それが ともかく《神》という言葉で聞いていたもののようだと捉えたならば まづそのノックをそのように受け留めます。



次に その《自分で神と思ったもの》を受け容れるかどうかを思い決めます。

受け容れる(信じる)にせよ受け容れない(信じない)にせよ その意思決定において われと神とのカカハリが成り立ちます。これが 信仰です。



そのあと 信仰は――人間が時間的存在であるからには―― 過程であり動態です。深まったり 有神論から無神論へ移ったり あるいはアッラーフからヤハヱ―へと代わったりします。

その過程にあって人は 何がしかの思いを帯びて神をさらに捉えようとする。



神は 真理だとか道だとかまた命だ愛だといったふうに 神のイメージをえがく。これは 主観真実としての神観です。

この神観から 神学または神論が みちびかれます。



できるだけ経験合理性によって人びとの抱いた神観を集め整理しこれを理論として建てたものが 神論です。

経験合理性にこだわらず 論証しないまま 神観をふくらませた知識は 神学です。

ドグマでもよいというのが 神学で ドグマをできるだけ避けたものが 神論。





つまり 信仰が成り立って動態が動き出してからは みづからの知性によって神のイメージを想い描き:
★ 自らの人間精神によって〔☆ その・むしろ神についての説明を ①理論的にかまたは②ドグマを入れつつ体系化するかというかたちで〕築く
☆ ことになります。






仮りに:
★ 信仰は与えられるもの
☆ だとしても そのとき神のおとづれを受け取り神を受け容れるという・人間の側の経験的な意志行為が 〔信仰の成立には〕必要です。

また仮りに:
★ 信仰は 自らの人間精神によって築くもの
☆ だとしても――つまり 神観を想い描き さらに神論か神学を構築することは 実際ですが―― 神や信仰を人間が自分の能力と努力とで 最初から 制作するというものではありません。
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この回答へのお礼

信仰は与えられるものではないと思っています。
信仰を与えられるものではなく、自らの人間精神によって、真理の探究によってのみ築くことができるものと思っています。

https://www.youtube.com/watch?v=O40j4PqRJWk

お礼日時:2022/10/14 11:05

1. 《信じる》とは 経験事象としての《感じる や 考える》といった概念で規定し得ない・人間の意志行為を言います。



2. 《〈人知を超えたところ〉すなわち〈感性や知性で捉えられるか捉えられないかが分からない何か〉を受け容れるのですが それは したがって当然のごとく 無条件で無根拠にてわが心に受け容れるということ》になります。これが 《信じる》です。




3. 《受け容れる》というなら 意志行為であり むろん経験事象です。
ただし その信じる相手 これは 経験事象を超えている何か・つまり《人知を超えた超自然であり超経験なるもの(まとめて 非経験の場ないしチカラ)》だとなります。
したがって 《〈非経験なるナゾの何ものか〉を相手にして これを人知のおよぶ経験行為として受け容れる》 です。


4. さらに同じことを言いかえます。

5. 受け容れると言っても 《何か分からないもの いえ 精確には 分かるか分からないかが分からないナゾの何ものかであり――これを 〈非知 incomprehensible incomprehensibility 〉と言いますが―― そのナゾの何ものか》をなのですから それは 雲をつかむような話です。


6. それで そのとき わづかにこの《非知なる何ものか》について じんるいは シルシをつけました。一般に《かみ》とよばれるその言葉です。
また オホモノヌシとかブラフマンとかブッダとかヤハヱ―とかいくつかの言語にしたがった代名詞も 自由に用いられます。
さらには 個人ごとに自由にその名をえらんでつけてもかまわないわけです。(その《わけ》とは 信教・良心の自由》とよばれています)。



7. これで雲をつかんだことになっています。もっとも 《雲をつかむ》というからには じつは実際には この非知を受け容れないという場合も 大きく《受け容れる=信じる》ことにふくまれます。

8. 言いかえると 《非知なる神》と――われとの――カカハリが出来たということが 《信じる》ことになるわけです。
それが《雲》のようだということは 《神が有る》というかたちであっても また自由にそして同等に《神が無い》であってもよいということです。

9. 広義の《信じる》には 《神を――有るとして――受け容れる》場合も《神を――無いとして――受け容れる》場合も 互いに自由に同等にあり得ます。
言いかえると 前者は 狭義の《信じる》であり 後者は《受け容れない=信じない》です。



10. 人間が信じる・信じないにかかわらず 依然として 非知は非知です。(概念として 絶対性ということになります)。

11. 未知のものが感性や知性により認識されて既知になるものごとは 可知です。
未知のもので どうしても認識し得ないと証明されたものごとは 不可知です。
非知は これら可知や不可知ではない。可知や不可知は いづれも人知のおよぶ経験事象の範囲に入る。非経験の非知は それらを超えたところの何ものかです。

12. この非知なるナゾを受け容れる(それとのカカハリをみとめる)ことが 《信じる》であり その持続する動態を信仰と言います。




13. 信仰は 《有る神》派と《無い神》派とに自由に分かれて じっさいには成り立っています。一方から他方に移り変わることも 自由です。ブッダ派とシューニャター(空)派とは 信仰の類型として実質的な差はありません。

14. また 南無阿弥陀仏と南無妙法蓮華経とのあいだに差があると説くのは モグリの信仰者です。偽(にせ)の信仰としての実は宗教〔という偶像崇拝〕を説くものです。

15. 《じんるいは 天使とエワとが不倫をするというその淫行によって堕落した よってその救世主の到来が必須だ》と説くのは勝手だが そのことをオシへとししかも神のごとく絶対視するのは――オシへという経験思想であり経験事象であるものを受け容れ信じるといった可笑しな話ゆえ―― 信仰でも何でもない。ただのアホンダラ教なり。

・・・

☆ その余の問いについては 必要のかぎりで 補足要求にしたがって回答します。
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この回答へのお礼

真実の信仰は与えられるものですか?
真実の信仰は与えられるものではなく、自らの人間精神によって築くものですか?

お礼日時:2022/10/14 10:13

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